福島◆会津若松市/保科氏と鶴ヶ城【本部スタッフ・会津若松だより】

編集スタッフより

信州高たか遠とお城主・保ほ し科な正まさ光みつの没後、養子となっていた徳川秀忠の四男、保科正まさ之ゆきは高遠3万石を相続しました。

正之は3代将軍家光の命により、出羽国村山郡最上20万石に転てん封ぽうとなり、さらに1643年には会津28万石と2度の転封を経験し

鶴ヶ城の城主となります。

▲難攻不落の城、鶴ヶ城。

その後、保科氏は3代正まさ容かたのときに松平を称することを許されました。

▲鶴ヶ城入口。

鶴ヶ城の9代当主、松平容かた保もりは1862年に幕府より京都守護職を命じられ就任します。

この職をきっかけに会津藩は新選組とも深くかかわります。1868年、戊辰戦争が勃発します。徳川慶喜が政権を返上した後も、

新政府軍と旧幕府勢力の対立は続きました。会津藩は最後まで徳川家に忠義を貫き、新政府軍と戦う道を選びます.

▲ 会津藩、最後の城主・松平容保。

これは京都守護職として幕府を支える立場だったこともありますが、会津藩祖・保科正之が徳川秀忠の実子であり、

徳川家と血縁関係にあったことも、会津藩が最後まで幕府に殉じる決断を後押しした要因の一つではないかと考えられます。

会津若松市に行かれる際は是非、鶴ヶ城にお出掛けください。(本部 菊地美穂)

 

投稿者プロフィール

編集
編集
『月刊ふるさとネットワーク』の発行の制作進行を行っています。田舎暮らし専門の毎月1日全国発送の会員誌です。1冊無料見本誌を送付しています。見本誌はこちらまで https://furusato-net.co.jp/cms/magazine

おすすめ記事を見る

最近の投稿を見る

タグから探す