▲東海林太郎(秋田の赤い靴と背中合わせに建っている)。
辺境の地に左遷された太郎はやはり音楽をやろうと退職して東京に帰りバックコーラスをしていたが、ソロの代役で見いだされてNHK主催のコンクールで入賞し35歳で歌手の仲間入りをした。
『赤城の子守唄』(1934)がやくざの歌と思った太郎は断ったが、作詞の佐藤惣之助から「国定忠治は貧農の味方だ」「この歌は男がなく歌だ」と説得されて心が動いた。
太郎は「私にとっては赤城の子守唄もシューベルト等の歌曲も、歌にはいささかの区別もない。どうしたらこの歌の心をつかめるか、歌の美しさに迫ることができるのか、それだけを考えて歌うと直立不動にならざるを得ないのだ」という心構えでいつも歌っていた。
この年に歌った『国境の町』は満州の荒野に思いを馳せて歌い爆発的なヒットで完全にスターダムにのし上がっていた。
太郎が浅太郎役の舞台で背負っていた勘太郎役は子役の高峰秀子だったそうで、後に可愛さのあまり母子で東海林家に招かれて同居し、養女にと懇願されたが断ったと高峰秀子の自伝にある。
当時は国民服が強制された。燕尾服は敵国の服だから駄目だと言われたが洋服は西洋の服だ、燕尾服は最高の儀礼用だと断った。
太郎の座右の銘「一唱民楽」は尊敬していた宮本武蔵の「一剣護民」からで、常にお客さまが例え一人の時でも歌うという信念で直立不動、一尺四方を自分の舞台としていました。(1972逝去73才)
♫ 橇の鈴さえ 寂しく響く 雪の曠野よ 町の灯よ〜 (秋田駐在 片山保)
※2023年10月号掲載『秋田の赤い靴』
※2023年11月号掲載『東海林太郎~その1~』
投稿者プロフィール
- 元大手ハウスメーカー会社専務取締役。2001年よりふるさと情報館に協力、秋田の現地駐在として地域情報を提供を行う。現在は市内にある「東海林太郎音楽館・大鵬ギャラリーの管理人、秋田城址で観光ボランティアなど幅広く地域活動に勤しむ日々。
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