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岩手◆盛岡市/ふるさとの山と「前九年」の居場所【いくぞ北東北!所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年7月5日

▲初夏6月の岩手山(岩手県・八幡平市)

啄木の「ふるさとの山はありがたきかな」(『一握の砂』抜粋)の山は、岩手山(いわてさん・標高2038m)なのか姫神山(ひめかみさん・標高1124m)なのかの論争はともかく、これは鎌倉幕府開府前夜に山梨県から岩手県に移住した奥州・南部氏のちょっとした話でもある。

その始祖ともいわれる南部三郎光行(なんぶさぶろうみつゆき)が生まれたのは、今でいう静岡県との県境・富士川流域の西岸の南部町(なんぶちょう)だ。町内からは富士山を東側に望める場所も多く、ことに白鳥山から仰ぎ見る富士山は愛鷹山を従えるように長く裾野を伸ばした大パノラマがじつに印象深くそして素晴らしい。眼下には富士宮市街が広がっている。心象風景ともいえるものでこの地に生まれ育った者には、折りにつけ思い出される原風景なのだ。

▲白鳥山から見た富士山。

源頼朝の命により光行が初めて奥州に渡ったのが1189年(文治5)のこと。奥州藤原氏四代・泰衡軍との合戦であった。家伝によればその功によって1191年(建久2)に所領を与えられ陸奥国に入国したとされる。その彼らがこの地に聳(そ)びえる岩手山を見たとき「ふるさとの山に向かひて」(啄木『一握の砂』抜粋)あの富士山を思い浮かべたことは想像に難くない。静岡県人のわたしもまさにそう思った。ここに2000m 級の山があるなんて正直言って驚いたのだった。

▲南部藩の向かい鶴(左が盛岡、右が遠野)

余談だが、ちょうど東名高速で秦野中井インターから都夫良野(つぶらの)トンネルを出て御殿場あたりで、正面に現れる富士の姿になぜか車のハンドルを握りながらも高揚感が増していく。まさにそのようなものだったかも知れない。

さて、この光行の祖先は、実は平安時代末期に現在の盛岡に来歴している。清和源氏の棟梁である源頼義(みなもとのよりよし)その人だ。彼が朝廷により息子の頼家(よりいえ)とともに奥州に赴任した1051年から安倍氏滅亡の1062年までの12年間。それは「奥州十二年合戦」と史実にはあるが、諸説あるものの、のちに「前九年の役(ぜんくねんのえき)」とも呼ばれることとなった。

▲南部三郎光行公の展示室(中部縦貫道「道の駅なんぶ」)

ちなみに頼義側についた武将に清原武貞という武者がおり、その後武貞の養子になったおかげで一命を取り留めたのが奥州藤原氏の祖・藤原清衡(ふじわらのきよひら)である。私はある時、盛岡から八幡平へと向かう道中、「前九年」や「厨川(くりやがわ)」といった地名を見つけ、どこか快哉(かいさい)したくなるような気持ちがなぜかしら沸き起こってきた。1000年ほど前の歴史を地名に残してきた岩手県人の心意気というものに触れた気がしたからだ。

山梨県・南部町

そこで「前九年」「厨川」の地名が残る場所に行ってみた。まずはいわて銀河鉄道線・青山駅「前九年口」。盛岡駅より一つ目の駅だ。乗降客の多くは高校生。周辺は宅地開発が進み、地元業者の話では土地の坪単価は17万円ほどという。

▲いわて銀河鉄道線青山駅。

次に厨川中学校。戦後間もない1947年(昭和22)開校で、私が行った日はちょうど入学式が行われていた。新入生は188人。新興住宅地の学校らしく盛岡市内のマンモス校の一つらしい。

▲盛岡市立厨川中学校。後方に岩手山が見える。

さらに「前九年公園」。平日の午後、近所の子供たちが遊具の周りで遊び大人たちは散歩している。その中でゲートボールの練習をしている男性に尋ねてみた。

「ここが合戦場なんですね?」と私。

「ここは以前、刑務所があったところだ!」と彼。

「確かこの近くに柵があったらしいが・・・。」

「安倍館町(あべたてちょう)あたりのことですかね?」

安倍館町は県道220号線を挟んで東西に広がり、東は北上川まで。その先にはかつて宮沢賢治が農学部で学んだ国立岩手大学の広大なキャンパスが広がる。ちなみに賃貸物件も多く、45平米で家賃は5万円台。

で、訪れた印象は? それはごく普通のところだったというのが正直な話。この青山地区に住んで電車で一駅乗れば盛岡の繁華街・映画館通りに遊びに行ける。今風な考え方なら付加価値の高い住宅地だといえるようだ。

▲前九年公園。

ところで「後三年(ごさんねん)」という場所はあるのか?
実は秋田県美里町の奥羽本線駅名としてちゃんと残っているのだ。この話はまた後日。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

岩手県盛岡市前九年