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田舎暮らし四方山話よもやまばなし~その2~【情報館設立35年。その体験をもとに田舎暮らしへのアドバイス】

この記事の投稿者: 総務

2025年9月15日

◆不便な田舎は昔語り?

「ホトトギス鳴きつる里に来てみれば、酒屋に3里、豆腐屋に2里」は、江戸時代の狂歌であるが昔の田舎は不便だった。酒を買うにも歩いて3時間もかかったのである。

道路が整備され、車でひとっ走りの時代となった。流通や通信の発達した現代では、5里どころか100キロの道のりも、もはや問題ではない。

とはいえ、いくら田舎が便利なったからといって、コンビニが徒歩圏内にあるのを期待するのは間違っている。

「JRの駅から近くて、坂道が少ない所で、病院やスーパーの近い所に移り住みたいのですが・・・」と相談を受けることも多い。そんな人には「では、都会で暮らしたら」というしかない。

田舎にデパートはないし、買い物は都会に比べて不便である。しかし、たとえ駅が近くても、毎日どこに出かけるのだろう。

坂道を歩き、さんさんと輝く太陽の下で、畑仕事に精を出す。だから田舎のお年寄りは元気なのである。

利便性だけを求めるなら都会がいい。でも都会では、水も空気も食べ物も作ることはできない。消費だけの都会と比べて、田舎ではさまざまなものを「手づくり」することが出来る。

都会にはない、余りあるものが田舎にはある。それを求める人のみが田舎暮らしの有資格者なのである。

◆農村と都市が共に手を携えて

人生90年の高齢化社会となり、50年の会社勤め後、健康に30年をどう過ごすか。

リタイア後も都会に住み続けなければならないという理由はない。おいしい水と空気があり、新鮮な野菜と果物に恵まれた田園暮らしを望むのは、高齢社会における暮らし方の大きな選択肢の一つとなってきたのである。

阪神大震災や東日本大震災級の大災害が何時大都市を襲うかも分からない。これまでの「都会は快適で安全」という神話が崩壊し、都会の不安は増大している。

一方農山村では、過疎高齢化がいっそう進行し、休耕地が増え山林が荒れてきている。

今こそ、都市と農村が共に生きる方策を探るべき時である。

農山村は都会で疲労した人々を回復させる力を持っている。農山村が求めているのは農山村を活気づける都会の元気な人々との結びつきである。人がいて初めて地域がよみがえる。一度上流から下流に下った人間が、上流に上るとすれば、それなりの心構えが必要である。

それは、上流の環境を汚さないこと。疲弊した上流がよみがえることに、わずかでも役立つというということである。

消費と浪費ばかりの都会生活とは違った、田舎での充実した暮らし方があるはずである。

◆まずは田舎に出かけてみよう ~あなたは「海彦」派?「山彦」派?~

「田舎暮らしは、山村がいいのか、海に近い場所がいいのか」。それも人それぞれである。

気高くそびえる山々や渓流に心の安らぎを感じる「山彦」の人もいれば、海を見て安息を覚える「海彦」の人もいる。

ひょっとしたら潮騒に心臓の鼓動が共鳴する人は、原始海から上陸した祖先を感じるのかもしれないし、また山のほとばしる渓流に祖先を感じる人は山から生まれたのかもしれない。

あなたが「海彦」なのか「山彦」なのかを決めるのは、あなたしかいないが、冬の寒さを避けたいという人は、海岸地方の温暖な地方を選んだ方がいいし、夏の蒸し暑さを避けたいという人は山間地の農山村がいいだろう。

しかし、人はそんなに簡単に「山彦」と「海彦」派に分けられるだろうか。人はそのどちらの要素も兼ね備えているのではないではないかと思う。

たとえば、海辺に近い所をと海辺に近い所を千葉県南房総で長く土地を探していたある人の場合。

ある秋の日の休日、その日も南房総に行く予定だったが、朝のテレビで那須の紅葉を見て急に那須に出かける気になった。その時案内された雑木林がすっかり気に入り、終のすみかに決めてしまった。「海彦」が「山彦」に急変したのである。

この場合、自分は「海彦」だとばかり思っていたが、実は内面的には「山彦」で、山間部の出かけて、はじめてそのことが分かったということだろう。(本部 佐藤彰啓)

田舎暮らし四方山話よもやまばなし~その1~【情報館設立35年。その体験をもとに田舎暮らしへのアドバイス】

この記事の投稿者: 総務

2025年8月17日

▲水田の向こうに南アルプスが・・・。

◆「心の原風景」に出会う旅

「あ!ここなんです。私が求めていた風景は・・・」

夏の青々とした田んぼが広がり、遠くに南アルプスの甲斐駒ヶ岳と鳳凰三山を望む場所に立って、初めて高瀬さんは自分の希望の物件に出会ったと感じた。その日何か所も回ってたどりついたのがその場所だったのである。

これまで見た、林の間からの南アルプスの山並みも、甲斐駒が眼前に迫る壮大な風景も高瀬さんのフィーリングに合わなかったのだ。

高瀬さんは田んぼが広がり、遠景に南アルプスを望む風景に出会って初めて心を揺り動かされ、やっと答えを見つけたのだった。

茨城県土浦に育った高瀬さんにとって、「青々と広がる筑波山」は懐かしい少年時代の原風景だった。

人それぞれに原風景がある。それは子どもの頃出かけた田舎であったり、体験したほんのひとこまであったりする。

どんな土地がいいか、こればかりは他人が決めるわけにいかない。高瀬さんのように、自分でも何がぴったり合うのか、すぐには分からないこともあるだろう。

田舎探しは、自分の「心の原風景」に出会う旅といえるのかもしれない。

◆社縁社会の崩壊がもたらしたもの

田舎暮らしという言葉がポピュラーになった昨今であるが、果たして「田舎」とは何であろうか。

「田舎」は、「都会から離れた土地。在郷。ひな。地方」(『広辞苑』岩波書店)を意味しているが、みやこがなかった縄文や弥生時代には田舎は存在しなかった。

「田舎」は、都会が形成されてはじめて誕生した概念なのである。

田舎暮らしにも二種類あって、「自分の意思で田舎に移り住む」場合と、「自分の意思に反して移り住む」場合がある。

これまで日本の歴史を紐解いてみると、京に都が誕生して以来今日まで、「田舎から都会へ」という大きな流れの中にあった。

そして、農村は常にダサくて遅れており、「田舎暮らし」は、その多くが自分の意思に反しての「島流し」や「都落ち」であり、明治以降の企業社会にあっては「左遷」の代名詞であった。

地方転勤となったサラリーマンは「いやぁ、しばらくは田舎暮らしですわ」といい、「田舎暮らし」にはどこか暗いイメージを伴っていた。

それが、近年大きく変化した。1990年代初頭のバブル経済崩壊が都会の社縁社会を変えた。企業は終身雇用をかなぐり捨てて早期退職を迫り、自分のことは自分で考えてくれという。

自分の生き方を自分で作らざるを得なくなった。近年、田舎暮らしを求める都会人が増えているのも、社縁社会の崩壊と密接に結びついているのである。(本部 佐藤彰啓)

東京◆本部/売却物件を求めています【田舎暮らしひとすじ ~ 住み継ぎ物件とは】

この記事の投稿者: 広報

2020年12月31日

大切にされてきた家には限りない魅力がある都会の喧騒から自然の暮らしを求め、思い出をたくさんつくったあなたの田舎の家。人生のステージの変化にともないそれを手放す時が来るとしたら…これから田園生活をしたい人にバトンを渡すように引継ぎたいと思いませんか。

ふるさと情報館は創立30周年を迎え、近年「この家を引継ぐ子どもや親戚がいない」「配偶者に先立たれ町に住む子どもと暮らす」など、様々な理由で売却する方の相談が増えてきました。

日本では木造住宅の耐用年数は22年で、それを過ぎると建物の評価はゼロですが、ふるさと情報館では、永年使われてきた家や周辺環境、庭、菜園や果樹、必要な道具類も込みで「田園生活住み継ぎ物件」として、これから田園生活をしたい方に紹介する事業を展開してゆきます。

《田園からの風》 ”自然を求め続けた画家”

この記事の投稿者: 総務

2014年10月10日

八ヶ岳南麓の日野春小学校は、少子化の影響で町内の4つの小学校がひとつに統合され、廃校となった。今年春、その遊休校舎が社会福祉と地域の交流施設、山岳画家の美術館として再出発した。

 

五感を研ぎ澄ますために山に登る

 

自然を愛し、自然を求め続けた画家。犬塚勉は、全く無名の画家だった。

1949年生まれ。東京の多摩で育ち、東京学芸大学で美術を学び、美術教師として子どもたちを教えながら、山や丘の風景を描き続けた。五感を研ぎ澄ますために本格的な登山に挑戦し、身体で浴びる自然の息吹そのものを緻密な筆遣いで描いた。森・山・切り株・ブナ・渓谷などをモチーフとした写実的な風景画。

「『感動ある絵を描くこと』、この他には何も望むものはない」と、常々奥さんの陽子さんに語っていた。

1988年9月23日早朝、陽子さんに「いってくるよ」と、寝室のドアを細く開け、すまなさそうな笑顔を残して谷川岳に出かけた。谷川連峰赤谷川から平標山へ向かう途中、悪天候のため遭難。尾根に出たところで力尽きて永眠。帰らぬ人となった。享年38歳。

2008年没後20年に、多くの友人たちによって長野県東御市の小さな美術館で開らかれた展覧会は、静かな話題を呼び、来会者が多くの言葉を残した。

「緻密な絵の中に、風、せせらぎ、香り…、目に見えないものが描かれているようです」「大地の暖かさを感じ、すべてが生きているのだと感じます」。

翌年NHKの日曜美術館「私は自然になりたい」で紹介され、犬塚勉の絵画が広く世に知られるようになった。その後、NHKプロモーションの企画で、東京、京都、広島と各地で巡回個展が開催され、多くの人々を魅了した。

 

緻密に描かれた草木

土の匂い、生命の感動が伝わる

 

犬塚勉の作品のひとつに、「梅雨の晴れ間」がある(本誌目次写真)。どこにもある自然の風景であるが、入念に表した画面からは雨上がりの土の匂いまで伝わってくる。草木の葉、花弁や葉脈まで一つひとつが緻密に描かれている。湿気を含んだ草が光を浴びながら柔らかな色味を放っている。木陰の小さなドクダミやシロつめ草も雨に洗われていきいきしている。作品を見ていると、自分がその風景の中にいるかのような不思議な感覚になる。

ひとつ一つの植物を克明に描く超リアリズムの技法は、写真では表現できない質感を生み出し生命の感動が伝わってくる。

作品「縦走路」(本誌目次写真)は、南アルプス北岳の尾根から尾根への縦走路で大小の小石が克明に描かれている。ひとつとして同じ形の小石はなく、密度が高く山の雰囲気をよく伝えている。

 

南アルプスの麓で暮らす夢

 

犬塚勉の美術展が日野春小学校で実現したきっかけは、たまたま同じ学校で教えていた元同僚が定年退職後、八ヶ岳に移り住み、日野春小活用の取り組みをしていたからである。

描かれたものはすべて、陽子さんにより大切に保管されてきた。200点余りの作品、60冊にのぼるスケッチブックのほか、克明に記録された制作ノートなどが残る。陽子さんは、その保管場所と展示場所を探していたのである。

「犬塚は南アルプスの麓に住み制作することが夢でした。北岳からの帰途、ふと立ち寄った日野春の景観と里の静けさに深く感動し、『日野春はいいところだよ』と何度となく繰り返しておりました」と語る。

制作ノートには、その思いが記されている。

・僕と陽子と愛息嶺と悠との4人暮らし。南アルプスを仰ぎ見つつ彼方に八ヶ岳を臨み、朝な夕なにその雄姿を愛でる。(1985年8月)

・その土地に溶け込んだ生活の中から、その土地の心を描く。土を耕し作物を育てる人、都会でいつか自然に還ろうと思っているすべての人に喜ばれる、そんな絵を描きたい。(1987年8月)

・日野春の丘に居を構え、ほんとうの風景を描く生活に至るためにはどうすればよいのか。(1986年2月)

・絵を見るためには街へ出なければならない。そこがおかしい。絵が見たければ田舎へ来いというあり方。地方の廃校、校舎を使っての個展。(1987年7月)

陽子さんは、「ほんとうに不思議な縁です。二人が求めてやまなかった夢がこんな形で実現できるなんて……」と語る。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”新たな移動の時代の始まり”

この記事の投稿者: 総務

2014年9月10日

少子高齢化・人口減少化社会の中で、全国のほとんどの県(東京や大阪を除いた)や市町村で都会からの移住者を受け入れて地域を活性化させようという定住促進事業が取り組まれている。この十年で都会の人を受け入れる施策も大きく進んだ。

地元の人々も都会から来る人に対して好意的で、以前の「来たり者」「よそ者」としてあまり歓迎されていなかった時代と比べると隔世の感がある。

そしてまた各地に出かけてみると、都会から来た多くの人々に出会う。

 

都会からの人で活気を取り戻す

 

鳥取県倉吉市に先ごろ出かけた。江戸時代の城下町で、堀割が流れ赤い瓦に白壁土蔵の立ち並ぶ古い街並み。20数年前に訪れたときは、人影が少なくすっかり衰退した町であった。

昭和40〜50年代の高度経済成長期には、倉吉に限らず地方の古い街並みは、どこも同じような状況にあった。

それが今回出かけてみると、活気のある街に変身しているのである。古い土蔵や昔の町屋を再生し、骨董や工芸品店、カフェやレストランなど、数多くの店があり、多くの観光客で賑わっている。

立ち寄ったフレッシュジュースのカフェは、埼玉からやって来た若い女性が経営。都会から移り住んだ人のお店が多い。地元の商工会も、空き家を利用して「お試し店舗」を月額5千円で1年間貸して自立への手助けをしている。

 

復活した長野市善光寺門前町

 

長野市善光寺は、昔は門前町として栄えた町だった。路地を入ると土蔵や多くの古民家が立ち並ぶが、空き家が増えて、衰退した町となっていた。昭和の末の頃である。

その町が近年、土蔵や古民家を再生した新しい店が増えて、活気を取り戻し多くの人々が訪れる町となった。

その復活の一翼を担ったのが、倉石智典さん(41歳)の空き店舗の仲介・再生事業である。

倉石さんはもともと長野市生まれ。東京の大学を卒業して都市計画事務所等に勤めていたがふるさとにUターン。「昔の賑わいのある町にしたい」と、門前町に会社を設立。空き家の所有者に働きかけて、新しい店舗として貸すことを勧める。家賃は月額5万円程度、修復費用は借り手が負担する条件。所有者は「いずれ取り壊さなければ」と考えている人も多く、10軒に1〜2軒程度しか了解が得られない。建物が登記されておらず、所有者が分からないことも多い。

こうして集めた空き店舗の見学会を毎月1回開催。ウェブサイトで告知する。見学会の参加者は20〜30歳代が多く、毎回20人ほどが参加する。県外からの参加者が半数を超え大都市圏からも多いという。

工芸品店、工房、雑貨店、アトリエ、カフェなど店舗に合わせてお店をデザイン。専門家である倉石さんに再生工事を依頼するが、入居者自身が自分好みに壁塗りや修復が可能なのも魅力となっている。

この5年間で倉石さんが手助けして新たに生まれた店舗は60軒になる。

寂れていた町も、一旦プラスに回転し始めると、そのムーブメントがどんどん拡大していく。

 

村役場職員の6割が都会から

 

「日本でいちばん小さな村」として知られた愛知県北設楽郡富山村。長野と静岡に県境を接し、山々と佐久間ダム湖に挟まれた急峻な地にあり、人口219人。平成17年に隣村の豊根村と合併し、ミニ村の座を高知県大川村に譲った。

南北朝時代に源氏の落人が隠れ住んだといわれるだけに、ほとんど平坦地はなく、民家は急斜面に石垣を築きその上に建つ。

合併する少し前、その村を訪ねた。民宿に宿泊した朝、役場を訪問する途中、10名ほどの若いお母さんたちと保育園児がバスを待っていた。村営住宅に暮らす人たちで、一見して都会から来た人たちと分かる。

役場の総務課長の話によれば、村内の子どもたちは、佐久間ダム湖を渡り飯田線で静岡県浜松市の高校に通う。ほとんどが卒業後は都会に出て戻って来ない。役場や森林組合、社会福祉施設などで人材募集しても村内出身者の応募はない。首都圏や名古屋市からの応募者で定員をはるかに超える。「今や。役場の職員の6割が都会から来た人たちです」。

この辺境な地は、都の人がつくったといわれるが、700年の時代を経て、また新たな移動の時代が始まったといえる。

地方の活性化は、移り住んだ都会の人が原動力となっている場合も多い。

大都市では、ひとりの人間の存在は小さいが、地方ではひとりの人間の重みが違うのである。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”「同じところに住み続ける」ということ”

この記事の投稿者: 総務

2014年8月7日

それぞれの地域に歴史あり文化あり

日本は稲作農耕文化の国で、農村では人々は祖先伝来の土地を耕し続け、同じ場所に暮らしてきたと思われがちである。しかしそれは、いつの時代からであろうか。

田舎に出かけると、一見すると同じような農村風景であっても、それぞれの地域に歴史があり文化があり、それらに触れることが多い。

近隣同士の集落でも、集落によってその成り立ちが違い、風習が異なる場合がある。

山梨県芦川村(笛吹市)は、富士五湖と甲府盆地との山あいにあり、深い渓谷沿いに茅葺民家が点在する村である。川下から川上に4つの集落があるが、冠婚葬祭の風習がそれぞれ異なる。一番川下の集落では、棺桶は丸棺で膝を折り曲げて座姿で納棺される。川上の集落はいずれも寝棺であるがその形に違いがあるという。ここには落人伝説があり、それぞれここに移り住んだ年代やどこからやって来たかによる違いからであろう。

 移動する人々

「日本人が同じところに住み続けるようになったのは、徳川幕府が安定した江戸時代になってからである。それ以前は人々はあちこちと移動していた」と、昭和の民俗学者の宮本常一はいう。彼は戦前、戦後の日本の農山漁村をくまなく訪ね歩き、『忘れられた日本人』『村里を行く』『日本文化の形成』など多くの著書を残している。

平家落人伝説は日本の山村いたるところにあるが、なにも平家だけでなく、さまざまな戦いに敗れて落ち延びた人々によってつくられた山村はたいへん多い。

そして昔は、集落の人口が増えて生産力が伴わなくなると、”分村“といって村を分けたという。村の一部の人々が新天地を求めて他に移り住むのである。ちょうどミツバチが分蜂(巣分かれ)するのと同じである。

分村してできた村は「親村」の慣習や習俗を引き継いでおり、周辺の集落とは異なる。

愛知県北設楽郡東栄町には、鬼が出て夜を徹して舞う”奥三河の花祭“として知られる伝統芸能がある。

毎年11月から3月初旬の土曜日、11の集落で順次盛大に行われる。その祭りを見た後、東栄町のある集落を訪ねたことがある。

「じつはこの集落には、花祭はないんです」と、お会いした地元の人の話。花祭ではなく、子ども歌舞伎があるのだという。その集落の名は「下田」といい、言い伝えによれば、伊豆下田から越してきた集落という。下田には子ども歌舞伎があり、それがここに伝わった。

時代は分からぬが、分村して数百キロも離れたこの地に、どのようにして辿り着いたのだろう。しかもそれは少人数ではなく、子ども歌舞伎が演じられるほどの集団として。

昔の人々の生きてゆくたくましさに敬服するばかりである。

 今も残る中世の面影

農山村に行き、地元の長老の話を聞けば、日本の中世の歴史がどこにも転がっている。

ふるさと情報館八ヶ岳事務所から近い長坂下条は70戸ほどの集落である。集落のはずれの林の中に、地元で「長閑屋敷」と呼ばれる場所がある。武田信玄の24武将のひとり長坂長閑の屋敷跡という。この集落の世帯の苗字は、三井、相吉、植松の姓が多い。「昔、三井城、相吉城があった」という。それは長閑よりももっと以前の、この集落ができたころにやってきた人の屋敷跡であろう。

長野県下條村は、天竜川沿いの山間地にあるが、その村名は室町時代のはじめ甲斐の国の下條郷(現・韮崎市下條)からこの地に入った下條氏一族に由来するといわれる。長坂下条もこの下條郷からやってきたのかも知れない。

都市から田舎へ新たな動き

江戸時代徳川幕府は、こうして生まれた村々に年貢米を共同責任で供出させ財政を確立した。そのために農民の定着を図ったのである。

江戸時代末期の日本の人口は3千万人、ほとんどが農村にいた。明治維新の近代以降、人々は徐々に都市へと移り住み、戦後高度経済成長に伴い、大都市への一極集中が急速に進み都市に人口の7割が集中するようになった。

経済成長のみを追う都市の極度の肥大化はさまざまな矛盾をもたらし、都市が快適な生活空間でなくなり、自然豊かな農山村が見直されるようになった。

そして近年、都市から田舎へと新たな動きが始まっている。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”都会でできないことを世界に発信”

この記事の投稿者: 総務

2014年7月9日

都会と農村の不幸な歴史

八ヶ岳清里高原は、かつては未開の地であったが、昭和8年に小海線が開通、昭和13年にアメリカ人牧師のポール・ラッシュが青少年教育キャンプ場として清泉寮を開設、同じ年に小河内ダムに沈む丹波山村から開拓者が入り新たな歴史が始まった。

戦後、ポール・ラッシュは酪農と高原野菜の導入を勧め理想農村の建設に尽力した。緑の牧草地に赤い屋根の牛舎は高原農村のモデルといわれた。

そこに突然やってきたのは、都会からのバブル経済だった。若い女性や高校生があたかもイナゴの大群のように押し寄せ、清里駅前を東京の原宿通りに一変させた。それはほんの瞬間で、バブル崩壊とともに消え去った。いまも駅前や国道141号沿いに当時のきらびやかな建物やハーモニカ店舗が無残な姿で残る。

あの頃の日本は異常だった。清里だけではない。どんな山奥でも少しでも平坦な山があれば、ゴルフ場開発資本がやって来て土地を買いあさった。開発途上で投げ出し、そのまま放置され荒れた山河となった所も多い。都会が田舎を荒らした時代である。自然はもちろん、人々の心まで荒廃させた。

再び都会と農村の不幸な歴史を繰り返してはならない。

厳寒期のアイディアサービス

さて今、清里はどうなっているか。

清里開拓の歴史と共に歩んできたキープ協会(清泉寮)は、広大な敷地を有する牧場を持ち、乳牛・ジャージー種の放牧飼育を主体とする循環型の酪農を行っている。そこでできるソフトクリームの美味しさは格別で、それを目的に訪れる人も多い。

キープ協会で30年前から行っている自然環境教育事業は、子どもや若者、成人を対象に様々な自然体験プログラムを持ち、現在では国際的にも高く評価されている。

清里高原には、観光協会に登録しているペンションが60軒余あり、数多くのホテル、プチホテル、カフェ、レストランなどがある。厳寒期の2月、午前10時の気温がマイナス5℃を下回ると、その日のレストランのメニューは半額サービス。ペンションは宿泊した日が下回ると次回の利用は半額。真冬なのにその日のレストランは人が並ぶ。それをきっかけにリピーターになる人も多いというから、ちょっとしたアイディアサービスである。

本ものであれ!一流であれ!

清里駅近くの国道141号沿いに「萌木の村」がある。オルゴール館や地ビールレストラン、クラフト工房、雑貨店、ホテルなど20軒ほどの複合施設である。

「萌木の村」社長は舩木上次さん(64)。父親は丹波山村からの開拓者で、戦後キープ協会で農場長を勤めた。その縁で舩木さんはポール・ラッシュに可愛がられた。「何事も本ものであれ!一流であれ!」の精神が育ち、23歳の時、「萌木の村」の原点となった喫茶店を誕生させた。現在のビアレストラン「ロック」で、そこで醸造される地ビールは、全国酒類コンクール地ビール部門総合第1位に何度も輝いている。

「大人の、成熟したお酒の文化を清里から発信したい!」。レストランの裏手の小高い丘の斜面をスコップで自分たちで掘り進み、レンガを積み上げて地中貯蔵庫を今春完成させた。年間14℃、湿度50%に保たれる洞窟の中で、ワイン、ウイスキー、地ビールを熟成させる。ワインは県内6社のワイナリーに協力してもらい、熟成が始まった。地ビールは度数を高くして寝かせるなど、新たな試みを始める。年代物のお酒をレストランやホテルで楽しめるのはいつになるのであろうか。

オルゴール博物館「ホール・オブ・ホールズ」は、世界からアンティーク・オルゴールはじめ自動演奏器など260台が収蔵されている。オルゴール曲と作曲家の思いを解説しながら音楽家のピアノ演奏のコンサートが1日2回行われる。

毎年7月〜8月上旬にかけて、約2週間の日程で、「萌木の村」特設野外会場で「清里フィールドバレエ」が開催される(今年は7月28日〜8月10日)。日本で唯一、連続上演される野外バレエ公演として、清里の夏にはなくてはならない催で、今年で25年を迎える。2004年には1万人を超え、全国から多くのファンが足を運ぶ。ヨーロッパでは野外バレエが盛んに開催されており、劇場では見ることのできない、風になびく衣装の美しさ、月に照らされる舞台、自然と共存する野外バレエならではの感動の舞台である。

舩木上次さんは夢多きロマンチスト。「ここには都会にないものがある。都会ではできないことができる。ここから世界に情報を発信してゆきたい。」と情熱的に語る。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”選択的土着民”と“宿命的土着民”

この記事の投稿者: 総務

2014年6月10日

桜の満開一ヶ月楽しめる八ヶ岳南麓

八ヶ岳清里高原は現在では全国的にも知られた観光地。八ヶ岳南麓は標高500mから1500mまであり、春の桜の開花期は下から上まで一ヶ月間も楽しめる。その最上部が清里である。近年の温暖化の影響で現在はさほどでもないが、かつて冬は厳寒の地だった。

JR小海線清里駅から上は、清里開拓の父と呼ばれるポール・ラッシュが高原実験農場として開いたキープ協会の諸施設。駅から下は、昭和13年から始まった開拓地である。

地域の歴史と暮らしを学ぶ

都会から八ヶ岳に移り住む人々の会「八ヶ岳ふるさと倶楽部」は、地域の歴史と暮らしを学ぶ連続講座を「萌木の村」の「オルゴール館」で開いた。

「萌木の村」は国道141号線沿いにあり、広い敷地にホテル、レストラン、店舗、オルゴール館などを持つ複合施設。今回の講座は、そこを主宰する舩木上次さん(64)が講師である。

舩木さんは集まった80名の人々を前に、開拓時代の苦しかったことを振り返りながら、「開拓者は様々な境遇に直面し、多くの仲間はこの地を去りましたが、私たちは、この地が好きでここに残り、この地に生き抜こうと今日までやってきました」と語り、新たに新住民となった人々に「一緒に地域づくりを」と呼びかけた。

厳しい清里開拓の歴史

昭和13年、小河内ダムで水没する丹波山村などから28世帯が開拓に入る。その地は、水源の乏しい、火山灰の酸性度が強い荒地。入植に当たり県から手渡されたのは鍬一丁のみ。赤松や雑木が茂る原野を徒手で伐採抜根。岩や熊笹を除去するのは大変な労苦。畑にするのに10年を要した。最初は野菜や雑穀を播いても、ソバ以外はほとんど採れなかった。

笹小屋と呼ばれた粗末な家。丸太を組み、屋根に杉皮を張り、むしろを入口に垂らす。冬は厳しかった。囲炉裏で松の根を燃やすと、松脂の煙で顔は真っ黒、目は赤く腫れ、体は臭く臭った。最大の苦しみは水汲みだった。遠くの泉から天秤で熊笹の山道を日に数回も運ぶのである。

東京の水問題を解決するために故郷を失った人々が水に苦しみ、水問題を解決したのは大門ダムが完成した昭和63年、なんと50年の歳月を要したのである。

貧しいながらも、互いに助け合い励まし合う関係は、やがて逞しい共同体意識に成長し、住宅、分教場、簡易水道、公民館などの建設へと発展していった。

昭和25年酪農が導入され、牛乳は甲府市に出荷、バター、チーズも製造するようになった。開拓農家のほとんどが酪農家となり、耕作地は雑穀農地から牧草地となった。そして緑の牧草地に赤い屋根の畜舎、とんがり帽子のサイロが建てられ、ここに新しい清里の原風景がつくられた。日本の高原農村のモデル地域といわれた。

突如起こった「清里ブーム」

昭和40年代に入ると牧場民宿が始まった。そして昭和46年になるとレジャーブームで、アンアン・ノンノン族の若い女性が都会から押し寄せるようになる。

突如起こった「清里ブーム」は、清里駅前を東京原宿通りのように一変させた。地価は高騰し、それまで酪農を基盤に民宿を経営していた農家も、酪農を辞め民宿だけになるものも多かった。

50年代にはいると、洋風のペンションブームに移行して民宿は客が途絶え、土地も売却して去っていく農家が増えた。

平成に入り、文化的レジャー施設が増えるに従い、来訪者は若い女性から家族層に変わり、最近は都会から移り住む人々も多くなってきている。

“選択的土着民”が互いに力を併せて

このように清里は、都会に翻弄された時代を経て今日に至っている。

舩木さんは、「田舎には、都会にない宝物があります。地元の人はそれに気付かないで、そこで生まれたから仕方がないとか、都会の華やかさだけを追い求める人もいます。私は、その地が好きで、その地の宝物を大切にする生き方を選ぶ人を”選択的土着民“と呼び、そうでない人を”宿命的土着民“と呼んでいます」。

「皆さんは、都会からこの地が好きで、ここを選択されました。皆さんも 同じく”選択的土着民“です。双方が互いに力を併せて、これからの新しい地域を創っていきたいと思っています」。

 

その土地の歴史、先人の想いを知ると、より一層その土地に対する愛着が生まれる。田舎暮らしで新しい土地で暮らすなら、まずその土地の歴史を知ろう。

この号は次月号に続く。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)