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秋田◆秋田/菅江真澄~その6~『疱瘡(もがき)を病む子供』【地域駐在スタッフ・秋田からの風】  

この記事の投稿者: 秋田現地案内人/ 片山 保

2023年9月25日

真澄は風習の絵や悍ましいことも記録している。


信濃の国の御嶽山の辺りでは、疱瘡を病んだ子供を捨て置く習俗(家庭内感染防止)があり、山中の切り拓いた平地に小屋掛けをして赤い頭巾を被った子供を寝かせ、傍らに櫃・鍋・器を置く(上記絵)。

乞食たちがこの子供に飲食させ、全快した日に家に送り返すと返礼として物を与えたという。(乞食たちはすでに疱瘡にかかっていれば感染しないことを知っていたようだ)


疱瘡の出た家の周囲に垣根を造って囲い、血縁の有無を問わず、訪問することをひかえていた。(これは近代医療以前の感染対策を知る上で貴重であるといわれている。)(上記絵)

また、天明の大飢饉(1782〜88)の頃に岩木山の北辺の村の小道に分け入ると、春先の雪がムラになって残るように、草むらに人の白骨が沢山散らばっている。

また、うずたかく積まれている。額の穴に、ススキや女郎花が生出ているものもある。

見る心地もなく拝んでいると、知らぬ人が「見たまえ、これは皆、飢え死にした人の屍だ。過年卯の年のだ。

今、こうやって道を塞ぎ、行き交う人は踏み越えて通うが夜道ともなれば誤って骨を踏み朽ちただ。」と言う。

死なば死ね、生きて憂き目の苦しさを思えば・・・とも思う。彼らは藁をついて餅にして食べたり、蕨の根を掘って食べ、今まで命を永らえてきた。(秋田駐在 片山  保)

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※「菅江真澄」シリーズ:『その1」、『その2』、『その3』、『その4』、『その5

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秋田◆秋田/菅江真澄~その5~『男鹿の涼風』【地域駐在スタッフ・秋田からの風】

この記事の投稿者: 秋田現地案内人/ 片山 保

2023年8月11日

▲ 蝦夷百合のスケッチ 左は女草、右は男草。

朝ドラで牧野富太郎がにぎわっているが、真澄の『男鹿の涼風』(1810年)に「蝦夷百合」のスケッチがある。

真澄が北浦(男鹿市)の辺りを歩いていると、馬草を刈った中に蝦夷百合が交じり、その花に朝露が置いていた。

アイヌは蝦夷百合を「ぬべ」といって食料にしていたが、男鹿の人は「えぞろ」といって、米に混ぜて飯にしたり、餅にしたり、煮たりして食べている。味がいいのだろう。

草には雌と雄があり、多くは女草の根を採り、男草は四月末から五月初めに採って食べる。男草は紫黒色の小花を開くが、女草は花を付けない。

真澄研究者の調査では、地元の「えぞろ」を食用とした人に聞くと、「おとこえぞろ」には「す」があって食べられないが「おんなえぞろ」は根に養分があってうまい。

今年「おんなえぞろ」と呼ばれても来年は花を付けるので「おとこえぞろ」になるという区別を指す。

葉が萌え出てから田植え頃までに堀り、根元のしゅろ皮を剥いて白いところを食べる。

従来、これら植物は根茎に毒を持つといわれているが、男鹿・八森地方では近来まで「えぞろめし」を食べていたという。(つづく)(秋田駐在 片山保)

※「菅江真澄」シリーズ:『その1」、『その2』、『その3』、『その4

秋田◆秋田/菅江真澄~その4~【地域駐在スタッフ・秋田からの風】

この記事の投稿者: 秋田現地案内人/ 片山 保

2023年7月15日

旅日記『雪の秋田根 阿仁(あに)銅山』の一節(現代訳)

秋田は鉱山で栄えていたが真澄も鉱山の図絵を沢山残している。その中の阿仁鉱山(田沢湖の北の方)の様子を次のように伝えている。

絵:右下には木戸口がある。刺股(さすまた)などがあり、入るには厳重な取り調べが行われた。木戸口にいるのは役人だが、中腹にいるのは旅人だろうか。左には坑口があり、水が滔々(とうとう)と流れ出て、三人が灯火を差し出している。中腹に小屋が並びどの建物からも煙が吹き出しているのは、鉱石を銅に製錬しているのである。左下の建物は鉱夫の宿舎であろう。

阿仁の山では銅を掘り出していた。鉱石を掘り出す穴を「しき」、掘る人を大工、鉱石を入れる器を背負う人を「えぶ」、石を砕いて鉱石を採るのを「はくをからむ」という。

鉱夫は枯れた煤竹(すすだけ)に火を灯して「しき」に入るが、「しき」の中からは必ず水が出ている。

旅人はもちろん、近い里の人が来ても木戸口で厳重に調べて、脇差を手に持っている。これが鉱山での定めであった。(真澄は、簡略だが、鉱山独特の語彙や慣習を述べている。) (つづく)(秋田駐在 片山保)

※「菅江真澄」シリーズ:『その1」、『その2』、『その3

秋田◆秋田/菅江真澄~その3~【地域駐在スタッフ・秋田からの風】

この記事の投稿者: 秋田現地案内人/ 片山 保

2023年6月13日

▲菅江真澄の肖像画。

旅日記『雪(ゆき)の陸奥雪(みちおくゆき)の出羽路(いでわじ)』より(現代訳)

漁師たちが「鰰(はたはた)の網引きする」と言ってたくさんの小舟を漕ぎだした。

冬の漁師の世渡りは、蝦夷地のオットセイ狩と同じである。

岸辺の岩の上では男女が群がって立ち、魚群のいる場所を教える。この岩舘の浦では鰰が大変多く獲れ、八森神魚(はちもりはたはた)と呼んでいる。

▲左)ぶりこ漁。右)熊手、縄でつないだ「ぶりこ」、鰰の腹から絞り出して固めた「折敷ぶりこ」

漁期の終わりには、鰰が藻に産み付けた「ぶりこ」(卵)を柄の長短がある金熊手(かなくまで)のような道具でかき寄せて獲ったり、波に打ち上げられた浜の「ぶりこ」拾ったりする。

浦乙女が熊手のような漁具で荒磯の藻に付いた「ぶりこ」をかき寄せ、それを腰に付けた「こだす」(編籠)にとり入れている姿絵。

▲鰰 左)オス 右)メスと「ぶりこ」。

「八森はたはた男鹿ぶりこ」という諺(秋田音頭の歌詞にある)があり岩舘の浦は岩が多く、波にあてられた「ぶりこ」の半分は傷むが、男鹿の浦は藻が多く、「ぶりこ」は姿がよいので、このように言う。(つづく)(秋田駐在 片山保)

※「菅江真澄」シリーズ:『その1」、『その2』、『その4

秋田◆秋田/菅江真澄~その2~【地域駐在スタッフ・秋田からの風】

この記事の投稿者: 秋田現地案内人/ 片山 保

2023年5月18日

▲菅江真澄の肖像画。

民俗学者柳田国男は昭和のはじめ、菅江真澄(すがえますみ)を「日本民族の先学」と紹介しているが、真澄が記録した中世の資料は、東北地方の歴史を知るうえで貴重なものです。

アイヌを紹介した記録や鎖国という国是の中にあって、ロシアなどに漂流した人々の記録は江戸時代の社会構造を知る上で貴重な資料です。

▲男鹿の「なまはげ」説明入り絵図。

真澄は46年間を旅に暮らし、その間、130種240冊もの著作を残し、その体裁は日記・地誌・随筆・彩色された図絵集など。

その内容は民族・歴史・地理・国学・詩歌・宗教・本草などの分野におよぶ。

旅の中で、藩主一族・武士・神官・僧侶・医師などのほか、農漁夫・工夫・職人さらに乞食・遊芸人・遊女などにも記述し、暖かい目を向けていたようです。

これらの著作の日記や地誌など77冊12帖が国の重要文化財に、46点が秋田県有形文化財に指定されており、関係のある道府県でも大切に保存されています。

▲ 秋田県内400ヶ所に建立の真澄足跡の標柱。

真澄の旅の目的は最初の日記に「この国のすべての古い神社を拝みめぐって、幣を奉りたい」とあり、写生帳には「自分は国々を巡り歩いて、珍しいところ、珍しい道具、珍しい風俗など目にとまったものを下手ではあるが絵として持ち帰り、絵の上手な人の協力を得て刊行したい」と記しているが、自らのことをほとんど語っていません。

真澄の業績や真相など興味が尽きないので今も多くの人々や団体が研究しています。(つづく) (秋田駐在 片山保)

※「菅江真澄」シリーズ:『その1」、『その3』、『その4

秋田◆秋田/菅江真澄~その1~【地域駐在スタッフ・秋田からの風】

この記事の投稿者: 秋田現地案内人/ 片山 保

2023年4月21日

▲菅江真澄の肖像画。

秋田城は創建から250年くらいまで存続したことは何とかわかるが、それ以降の800年くらいはどこにあるのかも分からなかったが、1812(文化9)年に菅江真澄(すがえ ますみ)が旅日記『菅江真澄旅日記』の中の『水の面影』のところで『続日本紀』に書いている秋田城はここではないかと現在の秋田城跡の場所を述べている。

この菅江真澄は私も秋田に来て初めて知ったのですが、すごい方と云えます。

何がすごいかと云いますと、三河(岡崎という説)を30才で出発し、信州を経て秋田から岩手、宮城、青森、北海道をめぐり歩き48才から亡くなる76才までを秋田ですごしました。

この間、秋田の領内をくまなく歩き、今の県内すべての市町村に足跡をしるしています。(県内の400カ所に真澄の足跡の標柱がある)

真澄は、生まれ故郷や家族、経歴など自分自身のことをあまり人に語ったりしなかったために人物像はちょっと謎めいていますが、国学、本草学、歌学などを学んでいたようで、なぜ北国への旅に出たのかもよく分かっていません。

ただし、どんな階層の人にも分け隔てなく接し、歌を詠み、薬をつくる心得があったため、旅のゆく先々ではどこでもこころよく迎えられそこにしばらく滞在していたようです。

酒はあまり飲まず食べ物の好き嫌いもいわず、常に節制した生活を心がけていたとも言われています。

唯一残っている肖像画も実に穏やかな好々爺と云えます。(つづく)(秋田駐在 片山保)

※「菅江真澄」シリーズ:『その2』、『その3』、『その4