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岩手◆奥州市/遠き山に日は落ちて【いくぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年11月9日

▲伸びやかな風県の種山ヶ原。

種山ヶ原(たねやまがはら)の作詞家・賢治十代の頃、林間学校で愛知県の山奥に行った。到着するやいなや十六歳の少年たちはステンレス製の洗面台の蛇口から勢いよくほとばしる山の水を手や顔に受けると「ばか冷たいにぃー」(遠州弁では「ばか」は共感を伴う強調の接頭語)とあちこちで歓声をあげたのだった。そして夕暮れとともに体育教師が「とおきぃやぁまにーひぃはおちてぇー」と戦慄をおぼえる旋律でがなり立てる。

遠い昔の平和な時代だったのだろう。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でことのほか印象深いのが、ジョバンニたちの銀河鉄道に乗りあわせてきた姉弟が「新世界交響楽だわ」とそっとつぶやくシーン。漆黒の地平線のかなたからそれは鳴り響き、矢羽を立てて汽車を追いかけてくる先住民(インディアン)の姿。この壮大な風景の下地は賢治が憧れ続けたアメリカ大陸だといわれる。

「新世界交響楽」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」で1893(明治26)年に作曲された。その後1922(大正11)年に弟子の音楽家が第2楽章「ラルゴ」の主題となる旋律から「Goin’Home」(家路)を作詞、日本では1946(昭和21)年に堀内敬三氏(慶応の応援歌「若き血」や「蒲田行進曲」などを作詞)が「遠き山に日は落ちて」を作詞している。いまもなお夏の夕暮れが似合う歌詞だ。

鳥取県の文化政策課ではこの歌詞を「鳥取県西部の童謡・唱歌百景」の中にリストアップしており、旧中山町(現在の西伯郡大山町(さいはくぐんだいせんちょう))にある一息坂峠(ひといきさかとうげ)を紹介している。遠き山とは大山か。

▲又三郎が風を呼んでいるかのようだ。

北上山地のひとつである通称「物見山(ものみさん)」(標高871m)を山頂とした種山ヶ原(たねやまがはら)は、本誌7月号のふるさと発でみちのく岩手事務所の佐々木が書いたように、奥州市、住田町(すみたちょう)、遠野市にまたがる高山植物と星空観察で知られた高原地帯である。初秋の乾いた風は高原を北から南へ吹き流し、季節が深まればより強く吹き付ける場所でもある。

賢治の『風の又三郎』のモチーフにもなった花巻の子らが元気よく遊ぶ風景にも重なる。賢治はこの場所の名を取り「種山ヶ原」という題名で「新世界より」の旋律に歌詞をつけて歌っていたという。本家「Goin’Home」が世に出たわずか2年後の、関東大震災の翌年1924(大正13)年のこと。賢治は無類のクラシックマニアでもあったのだ。

しかしながらこの時期花巻においてレコード(青盤)と蓄音機を入手できるのは相当な家業の隆盛があってこそだともいえる。※動画共有サービスで視聴可。賢治の歌詞は次のとおり。

“春はまだきの朱雲(あけぐも)をアルペン農(のう)の汗(あせ)に燃縄(もしなわ)と菩提樹皮にうちよそひ風とひかりにちかいせり 四月は風のかぐはしく雲かげ原を超えくれば雪融けの草をわたる繞めぐる八谷(やたに)に霹靂(へきれき)のいしぶみしげきおのづから種山ヶ原に燃ゆる火のなかばは  雲に鎖とざさる 四月は風のかぐはしく雲かげ原を超えくれば雪融けの草をわたる ”(ちくま書房『宮沢賢治全集』第3巻より)
*ルビは中村。

んー、歌の歌詞では堀内氏の方が断然いいですね。現在、この種山ヶ原は賢治ゆかりの景勝地「イーハトーブの風景地」として国の名勝地に指定されている。(北東北担当 中村健二)

▲刈田に一群の蓑笠があらわる(奥州市江刺梁川。2019年10月撮影)

静岡◆浜松市/北区三ヶ日町育ち ~ 物件ウォッチ誌上オンエアー【文化放送「大人ファンクラブ」より】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月31日

▲大福寺のある福長は歴史も古い丘陵地帯ののどかな里だ。

今回は番組収録後、紹介した物件が成約となってしまったため、先日法事で一年半ぶりに帰省した三ヶ日の話しをします。

そこはいまもむかしもわたしの生まれ故郷です(この先書くこともないと思うので)。高校生のころまでエアコンは無かった。舘山寺(かんざんじ)で土産物屋をやっている高校時代の同級生の家で、エアコン付きの部屋に通されたときに「ばか涼しいじゃん」と話していたぐらいだ。わたしのひと夏の経験だった。

ところがどうだ!今夏8月17日の午後になんと41・1度という日本歴代最高と並ぶ気温を記録した。それが天竜や佐久間などの風の抜けづらい遠州の奥まった地域ではなく、浜松市の中心部だという。朝の7時過ぎからジリジリとうなぎ上りに気温が上がっていき午前中から猛暑状態に。原因は層厚十キロといわれる背の高い高気圧の下降気流が旧引佐郡(いなさぐん)の後背地にある山脈を越えて吹き下ろしてきたため、風下の浜松で気温がいっきょに上昇したといわれる(フェーン現象のこと)。

さて、三ヶ日のみかんの話しだ。甥の嫁さんのご両親は北遠五山の名刹のひとつ大福寺のおひざ元・福長(ふくなが)という集落でみかんの専業農家をしている。昭和50年代から赤土の土壌を活かした開墾が進められ、産地の中の産地といわれるこのあたり一帯のだんだん畑を多数所有している数少ない専業農家だ。

生活様式の変化や海外からの輸入など消費の減少と農地の集約化に伴い、ここ三ヶ日においても専業農家数は2002年には農家全体の二割弱三百戸を割ってしまっている。その出荷先はJA みっかび(三ヶ日町農協)だ。全国の農協のなかでも注目を浴びるこの農協は、令和二年現在2684人の組合員を擁しみかんだけでなくスーパーや冠婚葬祭など地域の末端までその裾野を広げる町の巨大基幹産業なのである(中日ドラゴンズのサイン会もやっていたし、都はるみの公演も後援していた)。

そのトップの井口義朗組合長は中学校の同級生だ。責任産地として販売額100億円を目指すため、古くなった西天王(にしてんのう)の選果場を柑橘類としては日本最大級に拡張して見学コースも作るとのこと。昔から部活の主将として活躍してきた人の今後の目の覚めるような躍進を祈っています。

▲堤防釣りのメッカ瀬戸。『男はつらいよ』のエンディングにも使われた。

幻の獣である「鵺(ぬえ)」伝説のある猪鼻湖(いのはなこ)の胴先(どうさき)海岸(周辺には鵺代(ぬえしろ)や尾奈(おな)などの地名も残る)を埋め立てて造った三ヶ日中学校の外山昭博校長も同級生のおひとり。全校生徒数315人(2019年)とわれわれのころと比べたら半数にも満たない生徒数だが、昨今の社会情勢のなかで苦労の絶えない舵取りはさぞ大変だと思う。われわれの時代の教師たるや本当にひどいものだったが、野球部の外野手としてチームを鼓舞してきた人望の厚い人なら、この禍を生徒たちとともに乗り越える活躍をしてくれるものと信じています。

子供たちの遊び場だったコウモリの飛び交う宇う志しのマンガン鉱のほら穴は現在封鎖されていて覗けないものの、そこに通じる入口に湖を望むしゃれた喫茶店ができたと教えてくれたのは、二級下の三ヶ日町観光協会の中村健二会長だ。わたしと同姓同名で静岡銀行横の肉屋の御曹司でもある。遺産的な価値も少なく、明るいのがとりえの三ヶ日の観光資源のなかにあって、地域の情報を発信し続ける精力的で行動力もある魅力的な人物だ。

▲おんな城主・直虎、大河ドラマでお馴染み、井伊谷にある龍潭寺。

さて、最後にこの地域に移住を考えている方々への情報を少しばかり。個人的に気に入っているのは三ヶ日では上神明(かみしんめい)や岡本、細江(ほそえ)では気賀(きが)の四ツ角や寸座(すんざ)の山付き、引佐では井伊谷(いいのや)や横尾、浜松では三方原(みかたばら)。

そして注目していただいきたいのが浜名湖の西に広がる湖西市(こさいし)。ここは浜松市の市政に組みせずにそのままの市政を貫いた市でもあり、ものづくりの地場産業や商業施設も充実した東海道随一の関所を擁する市で、県境にも位置しているため愛知県の豊橋や渥美半島へも出やすい場所にあたる。そのなかでもおすすめは岩盤の厚い湖西連峰が西に広がる麓の町で、天浜線(てんはません)駅にも近い神座(かんざ)あたり。地価は三方原>湖西>細江>三ヶ日>引佐といったところでしょうか。また、自治体の洪水ハザードマップはかならずご確認ください。(八ヶ岳事務所 中村健二)

(文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06 : 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

湖西市はここ!

山梨◆甲府/山梨の太宰のしあわせな手紙から【いくぞ!甲州・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月26日

▲噴水の美しい県立文学館の建物。

甲府市貢川(くがわ)にある山梨県立文学館でこの夏開催されていた常設展では、太宰治が友人・高田英之助宛にしたためた一通の手紙が本邦初公開されていた。

太宰はご存知のように1939(昭和14)年1月に入籍している。仲人を依頼した井伏鱒二にはこれまでの自堕落な暮らしから足を洗うという「結婚誓約書」を書き送り、井伏の自宅で結婚式を挙げた。その後しばらくは甲府で平穏で安定した新婚生活を送っている。まさにその当時の手紙だ。

差出名は本名の「修治」ではなく「治」である。「須美子さんの指示に、愛の願ひに、従つてもらひたい。これは、私からのお願ひでもある。」と病気療養のため許嫁の斉藤須美子と別居生活を送る英之助に百か日ぐらい過ぎたらすみやかに君たち夫婦も同居してもらいたいと、太宰がその手紙では本気で書いているのだ!

その用紙には赤い縦罫線が引かれ、その罫線の間に文章がキッチリと2行ずつ書かれている。流れるような筆さばきで、軽やか。いかにも健康的な筆致であり筆圧だ。『富嶽百景』を執筆していたころのことである。

その後三鷹と甲府で空襲に遭い、故郷の津軽に疎開し終戦を迎えたのちの太宰には、こうした感情は最後まで起こらなかったのではないか。それとともに素行はさらにひどくなり玉川上水での入水の終焉を迎えるまでそれは続いていくが、しかしながら太宰の筆による世界の切り取り方は最期までどこかに軽やかさを残しているとも、わたしには思える。

▲初公開、文字はその人がその場所に存在したことの証。息づかいが聞こえてくる。

わたしが学生のころ、日本の近代文学研究で知られる小田切進先生(1924年~1992年)の授業で、高見順や伊藤整らとともにその設立に尽力された目黒区駒場にある日本近代文学館にご一緒させていただいたことがあった。そこで初めて作家の直筆原稿を見させていただく機会を得た。本となった活字ではない、著者直筆の文字の連なり。にじんだ万年筆の筆の強さに驚くとともに書かれたときの気分や体調などもぼんやりとではあるが目の前に浮かんでくる気がしたのだった。

一人の作家の原稿を飽きもせずケース越しに見て回り、ほかの作家との相違を位相としてみずからのなかで位置付けていく。まるでいくつかの地層を丹念に調べ上げそのときの暮らしぶりを導きだしながら、これからのありようを想像し創造していく考古学的手法に、それは似ていたのかもしれない。そのとき以来「筆圧考古学」なるものがわたしの中に芽生え今日まで続いているといったら言い過ぎか。

現在も、仕事上さまざまな文書を日々受け取りながらもそうして身につけた「考古学」的訓練のおかげで、直筆だけではなくメール受信にもたとえば相手方の体調面の良し悪しが読み取れるときがある。「早いもので、中村さんにご紹介していただいた物件に家を建てて来年二十年になります。」という書き出しで始まるメールにもこれまで良い暮らしをされてきたのだと、その方の充実した日々がなんのてらいもなく迫力を持って伝わってくるのである。

あるご縁で最期まで山本周五郎の付き人をされていたご婦人にそんな話をしたところ、その年の誕生日プレゼントに湯のみ茶碗をいただいた。煙草とお茶好きの周五郎が生前愛したなんの変哲もない湯のみ茶碗と同じものであるらしい。なんの変哲もない紙の箱に入れられ、我が家の茶箪笥にいまもしまい込まれている。ときどきは南部鉄瓶で入れた煎茶でも飲みたいものだと考えているが、その方は茶箪笥から「これからももっと精進せよ!」とあの眼光でわたしをにらみ続けているのだ。(八ヶ岳事務所・中村健二)

▲南部鉄瓶で煎茶を飲みたいものだが、、、私には鋭い眼光が

 

 

北東北◆秋田/物件ウォッチ誌上オンエアー【文化放送「大人ファンクラブ」より】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月4日

「秋田県」というと思い浮かべるものってなんでしょう?

「秋田こまち」に「比内地鶏」、「稲庭うどん」、「いぶりがっこ」などの食べ物。「武家屋敷」と「桜の町・角館(かくのだて)」、深さが日本一の「田沢湖」と花火競技会で知られる「大曲(おおまがり)」。古くから北前船で賑わった「土崎港(つちざきこう)」や男鹿半島の「ナマハゲ」。そして「秋田美人」や「秋田犬」などなど・・・。

実はもう一つ、秋田県を代表するのが「地下資源の宝庫」だということをご存知でしょうか?

秋田内陸縦貫鉄道(総延長は94・2㎞)角館駅と鷹ノ巣駅を結ぶ第三セクターの鉄道沿い、「またぎの里」としても知られる「阿仁(あに)」地区では、明治期にすでにドイツ人技師を招いた鉱山開発が進められていました。そのゲストハウスの洋館はなんと東京銀座の鹿鳴館(ろくめいかん)よりも古く、国の重要文化財にも指定されています。

▲秋田大学「鉱業博物館」の展示施設。

秋田大学の前身「秋田鉱山専門学校」が明治43年に開校していて、「鉱山学部」もありました。(平成10年に工学資源学部に改組)その研究成果でもある「鉱業博物館」は見ごたえ十分です。有名なアニメ映画に出てくる「飛行石」とおぼしき美しい鉱石も展示されています。

さて、物件は秋田市内から北へ行った場所。この物件の地名にもある「黒川」とはかつてこの近くで原油が採掘された名残です。また「金足」とは明治22年に近隣12村が合併してできた「金足村」のことで、甲子園でも活躍したこの名を冠した高校生たちの活躍はまだ記憶に新しいところです。周辺はのどかな山里で周辺には10数軒ほどの集落が点在しています。

歴史をひもとくと、なんとこの地は江戸時代より交通の要衝地として開かれていた地域で、関東地方相模の豪族三浦氏の流れを汲んだ三浦氏が村の肝煎(きもいり・庄屋)を代々務めていた場所です。この居館は保存状態も良くて国の重要文化財に最近指定されました。

▲三浦氏館跡。

そこから1㎞ほど先の田園地帯にこの物件(16416N)が建っています。微に入り細部にこだわった作りは必見です。大工さんが自宅としてかつて建てた家で、米蔵もあり敷地内ではほぼ100坪ほどの広さの菜園用地もあります。

詳細は『月刊ふるさとネットワーク』9月号に掲載していますので、どうぞご覧ください。現況は空き家で室内はきれいに片づけられています。(北東北担当 中村健二)

▲敷地西側には広い菜園用地がある。

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物件ウォッチ誌上オンエアー (文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06:25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

岩手◆平泉町/ひとつ家やの萩と月 ~『おくのほそ道』を行く【いくぞ北東北!所長随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年9月13日

▲高館義経堂(たかだちよしつねどう)から見た北上川と束稲山(たばしねやま)

高校時代の古典の恩師は、無類の『おくのほそ道』ファンだった。芭蕉一行が白河の関を越え、松島に至るくだりは口角に泡を飛ばすごとく熱く語っていた。まるで自身の新婚旅行先でもあるかのように。

『おくのほそ道』はその行程において三つの関・白河(しらかわ)、尿前(しとまえ)、市振(いちふり)を越えるが、旅のハイライトはやはりなんといっても恩師の話ではないが、白河の関を越えたみちのくの歌枕(和歌の名所)にこそあるといってもいい。

そのなかでも、奥州藤原氏三代の栄華を誇る中尊寺は「七宝(しっぽう)散りうせ」るも、その金色堂はそこだけ梅雨時の雨も降り残しているという、将来へ向けた希望を光堂の句に託した翁の思いが伝わってくる。

では、その後はどうか。尿前の関(現在の宮城県鳴子町・なるこちょう)からは旅の後半になるとともに、芭蕉晩年の思いがより深くより遠くに実は広がっていくのだ。俳人の長谷川櫂(かい)氏は旅の前半を連句の初折(しょおり)とし、その後半を名残ごりの折とした。そして後半の尿前から市振を「宇宙の旅」(表)、市振から大垣を「人間界の旅」(裏)と分類している。

暑き日を海にいれたり最上川

壮大な天の川を詠んだ芭蕉だが、市振の関(現在の新潟県西頚城郡(にしくびきぐん)青海町(おうみまち))を過ぎた旅の最終盤では人びととの別れがその旅の骨子となって行く。たとえば、唯一フィクションだといわれる市振の場面が描かれた後の次の句だ。

一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

江戸時代には歌舞伎となって人口に膾炙(かいしゃ)していた『曽我物語(そがものがたり)』の虎御前とリンクするように、遊女や知己との別れは芭蕉をして『おくのほそ道』を単なる紀行文ではない、人として人生を賭けた物語へと昇華していく。わたしは実はこの「萩はぎ」も「月つき」も遊女の名前だと思っており、個人的には芭蕉名句の一つに挙げたいくらいだ。しかもその月は仙台市宮や城野に浮かぶ満月ではなく、作家の黒井千次(くろいせんじ)が『たまらん坂』(1995年刊)で引用した忌野清志郎が歌う唇のように薄い三日月なのだ。

こうしてお伊勢参りを望む遊女を振り切り、加賀では若年の俳人とも会えず、その後同行二人(どうぎょうににん)の曾良(そら)とも別れてしまう。それが『おくのほそ道』の真骨頂なのである。

蓋ふたと身みに別れてもなお希望を抱いてやまない、枯野を行く自身の旅がそこからまた始まるのだ。 そんなことをかつて芭蕉も歩いたであろう平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)から毛越寺(もうつうじ)に向かう参道で、久しぶりの物件取材の折に感じたのであった。(北東北担当 中村健二)

▲毛越寺(もうつうじ)の境内にある芭蕉句碑。

福島◆いわき市/磐城高校甲子園へ ~ 高校野球噺 ~ 【いくぞ北東北!中村所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年8月12日

わたしの生まれ育った静岡県は、プロ野球球団がなかったせいか高校野球がことのほか人気が高かった。静岡県人は練習試合であっても、甲子園を目指す地方予選であっても、好カードがあるときは出身校でなくとも、草薙(くさなぎ)球場にわんさと押しかけるのである。

たとえば「静高(しずこう)✕静商(せいしょう)」という対戦カードは、静岡の早慶戦と呼ばれ破格の人気を誇る。その文武両道の進学校として県下に名を知らしめる静岡高校が甲子園を沸かせたのは1973年(昭和48)のことだった。

植松・水野・白鳥のクリーンナップを擁する強力打線は強豪校をつぎつぎに撃破しながら、決勝戦で佃投手の広島商業と雌雄を決する。残念ながら準優勝で終わったものの、その活躍ぶりはいまでも語り継がれているほどだ。

話はその2年前の夏。東北地方から出てきた高校が話題にのぼっていた。捕手から転向した身長165センチの小柄な投手がマウンドの上で躍動する。マリンブルーの海をあらわしたかのような青いアンダーウエアのユニフォームに身を包み大柄な選手を次々に牛耳っていく。その今様牛若丸の活躍に人びとは「小さな大投手」の称号を彼に与える。

その夏の甲子園の準優勝投手、福島県立磐城(いわき)高校の田村隆寿(たむらたかとし)氏だ。1952年(昭和27)生まれで今年68歳になられた。そのお孫さん世代の高校球児が今春のセンバツに21世紀枠で選ばれていたものの、このコロナ禍のためやむなく中止となりわたしもなんともやりきれない思いを抱いていた。

OB には友人も何人かいて、個人的にも応援したい高校のひとつだった。仲間うちのweb 飲み会でも「残念だね」と話題になっていた。そんなおり、日本高野連は選抜出場校に選ばれていた32校を甲子園に招待するという決定をしたと報じられた(8/15第二試合で東京の国士舘と対戦)。 

高校生のスポーツ大会がことごとく中止に追い込まれるなか、この甲子園での交流試合は「時期尚早」という意見もあるものの、本当に良かったとわたしは思う。インタビューを受けた多くの球児は「感謝して全力でプレーする」と口ぐちに話す。

時と場所を変えて、昨年東北本線花巻駅から釜石線に乗っていると、花巻東高校の野球部員と思しき体格の良い高校生と一緒になることが多かった。彼らも夢の舞台に向かっていまも早朝の素振り練習を欠かさないことだろう。

ちなみに遠野市では小学生に「君の夢は?」と尋ねると「大リーガー」と答えてくれ、ちょっとした驚きでした。(北東北担当 中村健二)

▲小学生の語り部が『遠野物語』を熱演していた。このひとりが「大リーガー!」とわたしに語ってくれた。(昨年12月。遠野伝承館にて)

長野◆上田市/物件ウォッチ誌上オンエアー【文化放送「大人ファンクラブ」より】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年8月3日

▲真田氏本城跡から菅平方面を望む。

真田氏のふるさとと風雅な住まい
-長野県上田市1330万円(16358S)-

これから2回に分けて「認定NPO ふるさと回帰支援センター」の移住希望地人気ランキングで全国トップの長野県にある住まいをご紹介いたします。

東京、神奈川、埼玉方面の方には特に人気の高い場所です。「長野県」というよりも「信州」といったほうが地域の特徴をよりよく表しているこの県ですが、長野県人なら誰でも歌える「信濃の国」という県歌は良く知られています。その歌詞の中でも出てくる「松本伊那佐久善光寺四つの平は肥沃の地」とあるとおり、日本有数の山岳地帯に開かれた山紫水明の平地に多く人が住み、肥沃な大地を耕し果樹を植え、近年では精密機械産業の集積する「日本のスイス」と呼ばれ、多くの都会人をこれまで引きつけてきました。

「軽井沢」、「白馬」、「野尻湖」、「蓼科」などはその名を知らない人はいないほどメジャーな別荘地ですね。また、江戸五街道の「中山道」と「甲州街道」が敷かれ、その宿場町は往時がしのばれる佇まいを今に残しています。

▲真田の湯でも赤備えの甲冑武者がお出迎え。

周辺には名湯も数多く、近年では都会から移住した若者が地域資源を活用して起業されていると聞いています。進取の気性あふれる長野県です。上田市旧真田町の物件は、そんな魅力ある長野県の信越線側の物件です。ラグビー人気が復活した日本で、ラガーマンが毎年夏に集結して合宿されてきたのが菅平(すがだいら)高原です。そこへ行く手前の真田町(さなだまち)長(おさ)という集落にこの物件はあります。

車では上信越道上田菅平が最寄インターチェンジとなり、そこから国道144号線(通称幸村街道)を菅平方面へ10分ほど、町の中心からも1㎞行ったところ。田んぼや畑が点在する田園集落の一角で南西方向に伸びやかな景色が広がります。北東側は小高い里山で、ここは上田に移る前の真田氏の本城跡があり、戦国歴史好きにはたまらない立地ですね。早起きされたリスナーには三文の徳ならぬ六文銭のご利益もありそうです。


物件は日当たりの良い平坦地に建つ築30年ほどの和風住宅。南側にはイチイやサツキやサルスベリなどが植えてある築山があります。立派な車庫と物置の別棟もありますね。

この建物は現在空き家です。落ち着いた8帖の続き間からは障子越しに先ほどの庭園が望めるしつらいになっています。室内外ともによく管理されています。


別途購入できる隣接の210㎡の農地(農地法のクリアが必要です)で家庭菜園を楽しみ、真田の湯(アルカリ性単純泉・湯冷めしにくい美肌の湯)で汗を流し、向かいの地酒屋で酒を買い、夫婦で酒を酌み交わすような楽しみが、この物件にはあります。在宅の暮らしを実現するにふさわしい物件といえます。(八ヶ岳事務所 中村健二)


物件詳細

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※JOQR文化放送・「大垣尚司・残間里江子の大人ファンクラブ」は毎週土曜日朝6時25分~6時50分放送中(4月から時間が変わりました)。※中村の放送回は毎月第4週目

宮城◆仙台/「萩はぎの月つき」のお取り寄せ【いくぞ北東北!中村所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年7月30日

▲「萩の月」はその素朴な包装も有名。

仙台の誇る銘菓「萩の月」が山梨の我が家に届いた。普段は仙台駅などでおみやげ用に店頭販売のみ行なっているということだが、この3月より特別にオンライン公式販売を開始したのだ(【菓匠三全(かしょうさんぜん)オンラインショップ】で検索)。

虫の音が鳴り渡る仙台宮城野の里の一面に広がる萩の原、その夜空に浮かぶのは淡く白い満月。そんなイメージがあるこの菓子を初めて知ったのは、たしかラジオ番組でユーミンが冷やして食べるとおいしい!と言ったのを耳にしたときだったと思う。ずいぶんと前のことだ。

▲私は凍らせた後冷蔵庫で8時間ほど寝かせ「半氷菓」として食べました。

えっ?おみやげ用のお菓子を冷やして食べることに私は少しばかり違和感があった。高校まで私がいた静岡県浜松市には有名な二つのパイ菓子がある。「うなぎパイ」と「源氏パイ」。地元の小学生には圧倒的に後者の方が人気は高い。それまで野山のアケビやツバキの蜜や野イチゴなどの甘いものをかたっぱしから探し回っていた子供たちが、工場見学でおみやげにもらったハート型の源氏パイの濃厚な氷砂糖のような菓子は、これまでだれも経験したことがない甘さだったのだ。

子供たちはショックで歯磨きも忘れてしまうほどだった。でも食べ方はいたって単純で、左手に持った菓子を透明な袋から取り出して、右の山からボリボリッと齧っていく。ただそれだけ。「うなぎパイ」にいたっては冬の寒い夜に緑茶と一緒に端の方から食べるだけ。遠州人は夏には食べない。

▲「夜のお菓子」うなぎパイ。

さて、「萩の月」である。このおみやげ菓子には多くの方が創意工夫を凝らしいろんな食べ方をされているということを最近知った。冷凍庫に入れてシャーベットにするとか逆にオーブントースターできつね色に焼くとか。今後は皮だけを揚げて食べるなどという強者が出てくるかもしれない。 これだけ愛されているこの菓子を「自粛」が収まったらぜひともお出かけして、本場でもご賞味ください。そして仙台から少し足を延ばせば東北本線沿いには田舎暮らし物件も数多くあります。
(北東北担当 中村健二)