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宮城◆大崎市/その1・鬼の首のロープウェイと鳴子峡【行くぞ北東北!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年9月14日

▲緑豊かな鳴子峡。

「鳴子峡」は宮城県内の紅葉の名所として知られている。今回その近くの、めったに物件としては出ない「オニコウベスキー場」に物件があるというので、初めてその地を訪れることとなった。東北自動車道古川インターを出ると周辺は穀倉地帯の平野部が広がる。ここからひたすら40数キロ西の山を目指していけばよいわけだ。

宮城県北西部の中心地・古川を要する「大崎地域」は周辺を入れると30数万人の一大都市だが、わたしはそれとは反対方向の鳴子(なるこ)の湯治場の先へ向かおうとしている。江合川(えあいがわ)に沿って山側に続く国道47号線はどことなくディープな感じがした。それは結果として思っても見なかった方向へとわたしを導いていくこととなっていった。

▲東北自動車道古川インターの出口看板。

途中、岩出山(いわでやま)地区に出た。ここには16世紀の最後の10年間(1591年から1600年)、関ヶ原の合戦の頃まで伊達政宗の居城があったという。2006年(平成18)に大崎市と合併するまでは宮城県玉造郡の中心地でもあった。そしていまは全国有数の売上高を誇る「道の駅」が実はこの国道沿いにあるというのだ。その名を「あ・ら・伊達な道の駅」という。正面にはなんと「至福の入口」の文字。駅内をぶらつきながら、今日の昼ごはんはここで調達しようと思い立ち、わたしなりのご当地食材を買っていくことにした。

▲凝った作りの道の駅だ。駅内にはクリーニング店もある。

「鳴子温泉」あたりからこけしの製造販売店が増えてきて山も間近に迫ってきた。ここから国道108号線に右折する。4つほどのトンネルを抜けると「鬼首(おにこうべ)」だ。山あいの温泉や役所を過ぎてさらにその最奥に「オニコウベスキー場」がある。かつて大手ディベロッパーが開発したものだが、近年のスキー人口の減少によりどちらかといえばひなびた感があり、それが逆にこうした時代には休日を家族とともにゆったりと過ごすのにはふさわしい場所であると感じられた。

▲「オニコウベスキー場」遠景。

物件はペンションの建ち並んだ丘のいちばん奥から4軒目。現在は個人の別荘として利用されているとのこと。なるほど。周辺を見渡していると山の斜面に丸い物体がふたつ見える。4人乗りのロープウェイで麓の発着所には「センターキューブ」とあった。家族連れが避暑がてら乗りに来て山頂のカブトムシ観察所や遊歩道を目指しているのだという。わたし的にはどこか「スターウォーズ」的世界のような気がして興味が湧き、乗ってみることにした。

▲空飛ぶキューブ発着所。

▲空飛ぶキューブ。

斜面を登るキューブの乗り心地は、大げさに言えば飛行機で離陸するときの高揚感、そんな感じだった。飛行機にはここしばらくご縁がないけれど、時間にすればわずか8分ほどの旅。そして山頂に着く。標高は1100メートルで一気に数百メートル上昇したことになる。麓とは3度ほど気温が低い。遠くで子どもがヤッホーと下界に向かって叫んでいた。

わたしは他に誰もいない山頂の休憩所で「道の駅」で買ってきた昼ごはんを広げた。三色餅、味噌お握り、鳴子まんじゅう、仙台牛コロッケ、鳴子温泉水と、まさにご当地尽くしで長距離ドライバー並みの食欲だ。

▲この日のお弁当。

最後に鳴子峡に行ってみることにした。ここから車で15分ほどの距離だ。紅葉前のこの時期は人影もまばら。撮影ポイントの橋はみごとに緑一色だ。どことなく山梨県の清里にある赤い橋に似ているが、渓谷の深さは清里、スケール感では鳴子峡に軍配が上がる。レストハウスでソフトクリームを食べる中高年もいて森林浴を楽しんでいるようだ。
 
さて、このあと次の取材先に行こうかと思った矢先、目に飛び込んできたのは「尿前(しとまえ)の関所跡」のすこし薄汚れた看板だった。なんと鳴子峡は「奥のほそ道」の重要ポイントでもあったのだ。勉強不足ではあるが誰も教えてくれなかった。芭蕉と曾良は大変な行脚の先、この「出羽街道」を進みここから国の境を越えて行ったのである。

わたしは関所跡へ導かれるように車を向けていた。(以下次月号へ)(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

山梨◆八ヶ岳/秋晴の候、9月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年9月1日

▲真っ白な絨毯を広げたような蕎麦畑の花(北杜市長坂町)。

9月の初旬、山梨県北杜市の畑では蕎麦の花が咲く様子が見られます。元々、田んぼだったところが休耕田となり、そこの活用として蕎麦栽培を始める方も多いようで、年々、蕎麦畑が増えているように感じます。

「寒暖の差」、「おいしい湧水が多いこと」、「日照時間の長いこと」といった北杜市の気候が、お蕎麦の栽培に向いているとのこと。日中の強い日差しが去り、夕暮れの涼しい風を受け、気持ちよさそうに揺れる蕎麦の白い花。一つ一つはとても小さな花ですが、畑一面が淡く白く染まる様はなかなか素敵なものです。暑い夏が過ぎ、都心より一足早い秋の訪れを感じさせてくれる風景です。

9月は昼と夜の長さがほぼ同じになる「秋分の日」がありますね。今年の秋分の日は9月23日。天文学により算出するものになるので、年によっては9月22日になることも。太陽が真東から登って真西にしずむ。仏教的にも、この世とあの世がもっとも通じやすい日と考えられ、「お彼岸」という風習が成り立ったようです。

▲秋を感じさせるトンボの姿(北杜市須玉町)。

秋分の日以降は昼の時間が短くなり、夜の時間が長くなっていきます。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われますが、まさに季節の変わり目と言える日です。1日24時間というのは年間を通じて変わらないのに、昼の明るい時間が短くなると、なんだか1日まで短くなったような、少し寂しい気持ちになるのは私だけではないでは。

秋の日は釣瓶(つるべ)落とし。冬の足音が聞こえてくるのはもう少しあとですが、着実に冬に近づいていることを感じます。
(八ヶ岳事務所 大久保武文)

▲秋桜とも呼ばれるコスモス(北杜市高根町)。

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◆星空を見るなら「月見里県星見里市」へ

古くから月の景観の美しい地には「山梨」という地名が付けられました。この山梨の古名は「月見里(やまなし)」だと言われています。北杜市は美しい星空を望むことができる地として、「星見里(ほくと)」と表現しています。雄大な自然の中で見上げる、瞬く満天の星。「月見里県星見里市(山梨県北杜市)」を訪れてみませんか。

※写真はイメージ。

ワタクシの夏の風物詩というと「ペルセウス座流星群」の到来。毎年定期的にやってくる「しぶんぎ座流星群」「ふたご座流星群」とともに3大流星群とよばれているうちのひとつ。

八ヶ岳南麓の夜は夏でも冷えることも多いが、季節柄もあり比較的軽装で観測することができるので『はじめての流れ星探し』にちょうど良い。極大日といわれる、期間中一番流星が多く出現すると予想される時期がちょうどお盆休みなのも嬉しい。

月の光があると明るい流星しか見つけられないが、今年はちょうど月が邪魔しない時期なので、ますます期待大。町灯りなど光の少ない、空を広く見られる安全な場所を探して、レジャーシートなどを広げて準備万端。

地球の大地に寝転がり、宇宙から降ってくる流れ星を待つ…一つとして同じ流星はないので、何度体験してもワクワクする幸せな時間。この夏はどれくらいの流れ星をみれるかな☆(八ヶ岳事務所 安江 美香)

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売却物件を求めています

大切にされてきた家には限りない魅力がある都会の喧騒から自然の暮らしを求め、思い出をたくさんつくったあなたの田舎の家。人生のステージの変化にともないそれを手放す時が来るとしたら・・・これから田園生活をしたい人にバトンを渡すように引継ぎたいと思いませんか。

ふるさと情報館創立30周年を迎え、近年「この家を引継ぐ子どもや親戚がいない」「配偶者に先立たれ町に住む子どもと暮らす」など、様々な理由で売却する方の相談が増えてきました。日本では木造住宅の耐用年数は22年で、それを過ぎると建物の評価はゼロですが、ふるさと情報館では、永年使われてきた家や周辺環境、庭、菜園や果樹、必要な道具類も込みで「田園生活住み継ぎ物件」として、これから田園生活をしたい方に紹介する事業を展開してゆきます。

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山梨◆甲州市/扇状地に住まう人々(中萩原~下小田原)【行くぞ!甲斐路・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年8月25日

▲緑濃い梅雨時の慈雲寺。

中央本線塩山駅の北東方向にある「甲州市塩山萩原地区」は、かつて養蚕農家が軒を連ねていた。水田ではなく畑の赤土土壌で、水はけが良い代わりに「痩せた土地」であり、桑畑が広がる農村だった。今では国道と県道の続くこのあたりはその土壌と寒暖差を活かしたモモやスモモ、ブドウの一大産地として人気が高まり、「大菩薩の湯」から秩父路を目指す人々が往来するほか、名刹やワイン醸造所など甲府盆地の東エリア(峡東地区)における拠点となっている。

また、このあたりは別名「一葉(いちよう)の里」とも呼ばれ、春から秋にかけては格好の散策コースとなっている。「一葉」とは明治期の夭折の女流作家で五千円札の肖像でも知られる「樋口一葉」のこと。ご両親のご生家がこの近在の「中萩原」であったためだと言われる。イトザクラの名所・慈雲寺には一葉を偲び幸田露伴の碑文や文学碑も建っている。周辺の民家はこの地区特有の養蚕に適した屋根の中央が出っ張っている甲州民家が数多い。

▲桃畑より見る甲府盆地。

さて、大菩薩などの奥秩父連山を源とする重川(おもがわ)が作り出した地形は、この先南西方向に向かい甲府盆地につながる。いわゆる東郡(ひがしごおり)の扇状地が甲府盆地に広がっていくのだ。そして道路は甲府盆地までずっとずっとくだっていく。そのため、このあたりの民家は南向きであるにもかかわらず、屋敷は道路より西側が一段高くなっていて、きれいに石垣が積まれた家々がまるで西側を正面にしているようで面白いと思った。

▲大菩薩の湯の横を流れる重川。

初めてこの「萩原地区」に来たときのこと。今から20 年ほど前の話である。特に冬の時期夕日が沈む方向に真っ白な南アルプスの北岳(標高3193m)、間ノ岳(同3190m)、農鳥岳(同3026m)の白根三山が雄々しく光り輝いていたことが強く印象に残っているのだ。ある年の春、甲州市で鎌倉時代から続く工務所の社長からこんな電話があった。

「突き上げ屋根の甲州民家が多く残った場所があるんですが、一度見てみませんか」と。

時はまさに「民家再生」が全国的なブームとなっていたころ。ギャラリーや酒蔵や旅館などに古材が利用され移築再生された民家などが一般誌なども賑わわせていた。それはリーマンショックあたりまで続く。今その流れは、環境配慮型の化石燃料を抑えた持続可能なこの時代の生活様式に引き継がれていこうともしている。

さて、われわれは国道411号線(青梅街道)を北上し、下小田原地区の脇道をさらに山側へと向かっていった。東西の山裾にはモモ畑が広がり由緒ありそうな寺院や神社が続く。と、その先はぐっと開けた場所である。見上げると、段々畑の上にはみごとな突き上げ屋根の民家が、かみしもを身にまとい、居住まいを正すように整然と建ち並んでいるではないか。その数は10軒以上もあるようだ。

金剛山より真南に伸びる舌状台地に形成された「上条集落」。一説には戦国時代の黒川金山衆(くろかわきんざんしゅう)が居を構えたのが始まりだという。武田が滅んだ後も、この集落の人たちは脈々と生きながらえてきたのだと思うと、少なからず気持ちが震えたのだった。

▲上条集落入口から見たもの。

その後この社長が中心となって設立された「NPO 法人山梨家並保存会」の努力により、この地区は「重要伝統的建築物群保存地区」に指定され、見学コースも徐々に整備されてきた。地区の中心にある「中村家」(いまは「もしもしの家」)で、わたしも福生里(ふくおり)の広瀬さんたちに招待され何ごとかを話し、丁重にお昼をおもてなしされたことがある。心暖まるひとときだった。今でも地元の子供達などにも開放されているという。

▲「もしもしの家」スタッフの内田さん。

甲州市は隣接の山梨市と同様に移住定住に積極的で「甲斐適生活応援隊」メンバーでもある。当社においても甲州市は人気エリアのひとつだ。
(八ヶ岳事務所 中村健二)

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甲州市役所のお問合せ
甲州市塩山上於曽1085-1
Tel 0553-32-2111

▲甲州市役所。

岩手◆奥州市(江刺)/中尊寺と賢治のあいだ ~ 江刺探訪 ~【行くぞ北東北!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年8月13日

▲種山高原の賢治像(住田町)。

「みちのく岩手事務所」の設立時から、いやその前からかもしれないが、農地法や国土利用計画法など、なにかとお世話になってきた市がある。岩手県南西部の「奥州市」だ。

この名前、岩手県内における絵に描いたようなネーミングだが、東京の「西東京市」、山梨県の「中央市」、秋田県の「北秋田市」などと同様、わたし的にはその名前から特徴がつかみづらい市のひとつだとも言えるのだが、どうだろう。

さらに「奥州市」の周りを見渡せば、南には中尊寺の「平泉町」、北には宮沢賢治の「花巻市」、東には遠野物語の「遠野市」といった県内外での知名度が圧倒的に高いビッグネームのエリアに挟まれているのだ。

いっぽうで、平安時代の英傑・アテルイや胆沢(いさわ)そして幕末から戦前の近代日本のすぐれた立役者も輩出していて、市内には城址や趣きのある町並みが残っている。また、水稲や大豆、ピーマンの収穫量が県内トップだという。

かといってそこを目指していくようなスポットとも言いがたい。要は控えめに言っても地味目な市というのが一般的な評価なのかも知れない。

▲アテルイの名を冠した地元の銀行。

しかしながら・・・。

「奥州市」は平成18年(2006)「水沢市」、「江刺市」、「前沢町(まえさわまち)」、「胆沢町」、「衣川村」が合併してできた市で、約1000平方キロメートルの市域に11万人強が住む県南の中核都市だ。製造業の事業者数も288あり、これも県内トップ。旧市町村のいずれも謂われや歴史が古い。

さて、これまでに弊社が取り上げた物件は、胆沢川の作り出した扇状地が広がり人口の集中した生活利便性の高い「水沢地区」は案外少ない。逆に北上川右岸の河岸段丘が広がる「江刺地区」が圧倒的に多い。それはなぜか。以下わたしなりの見解だ。

高台の市街地を見下ろす中央運動公園や高校など坂道のある岩谷堂(いわやどう)地区は個人的に静岡の久能山あたりの景色を想起するし、なんとも岩盤がしっかりしているイメージが強い。市のハザードマップを見てみると急傾斜地指定は思いのほか少ないし、なんとも地形がユニークだ。

高台からはくりこま高原も遠望でき、南西側傾斜地のため、日当たりや降雪時の心配も意外と少なそうだ。さらにその西側にある「江刺稲瀬地区」のうち、山付きの場所は神社や民家が点在し稲作を中心とした農地が広がる可住地面積県内一の真骨頂ともいえる場所である。

視線が遠くまで伸びる場所で、商業地にも近い。ただし浸水想定域にも隣接しているため場所選びには慎重を期したい。

▲民家の配電盤(江刺稲瀬地区)。

いっぽう江刺の東部に目をやれば、そこは市内でももっともディープな場所として根強い支持者もいらっしゃる人首(ひとかべ)地区がある。人首川に向かって舌状に伸びる北傾斜地と河岸段丘の上にあり、古くからの宿場として一時代を築いた場所だ。対岸には人首小学校があり、元気に通学する児童たちの声がけも日課だ。

さらにその東側の「米里地区」のその先には山あいに開けた種山(たねやま)高原がある。「星座の森」としてかつては宮沢賢治もしばしば訪れた名所で、『風の又三郎』など彼の作品にも多く登場する場所だ。

▲「宇宙遊学館」内のスパコン(白い建物)。

ここで、先月号で物件のご紹介もさせていただいた「江刺梁川(やながわ)地区」。伸びやかな丘陵地で南東側に田んぼが大きく広がり、空も大きい。のどかで牧歌的そしてどこか懐かしい。夜は真っ暗で星空も美しい。

その後、水沢の市役所に戻って移住担当の大越くんと話しをしたところ、「そうですかねぇ」と不思議そうにわたしを見ていたが、その後大きく頷いた。「ここは魅力的な町ですよね」。地味目で控えめだが底力がある。それがここ奥州市なのだ。「ロンバケ」と大リーガーを生んだところでもあるし、ね!(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

▲江刺梁川の点在する民家。

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奥州市の移住相談は、「一丁目1番地」奥州市総合企画部都市プロモーション課
〒023-8501 岩手県奥州市水沢大手町1-1
Tel 0197-34-2116(ダイヤルイン)
Fax 0197-22-2533

山梨◆八ヶ岳/盛暑の候の候、8月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年8月1日

▲北杜市高根町。八ヶ岳の山裾で稲が青々と育つ。

梅雨の時期には雨が降ると、まだまだ肌寒さを感じることもありましたが、そんな日も過ぎ去り、強い日差しを感じる夏となりました。北杜市は標高が高いせいでしょうか、それとも空気が澄んでいるせいでしょうか、夏の日差しは強烈で、肌感覚としては、以前私が住んでいた沖縄と変わらない紫外線の量に感じます。

ただ、日差しの強さこそ注意が必要ですが、それ以外は都心と比べるもなく、快適な季節となります。昼間こそ標高が低いエリアではエアコンが稼働するものの、夕方になると一気に気温が下がり、窓を開け放てば、気持ち良い風を感じながら過ごすことが出来ます。

標高が1000m を越えるエリアでは、エアコンが設置されている家は極端に少なくなり、大抵は扇風機となり、夜になると日によっては窓を閉めないと風邪をひいてしまう日もあるほど。

エアコン等の人工の風に頼らなくても夜を過ごせるということが、こんなに気持ちの良いものかと、北杜市に移住した当初は驚いたものです。暑さから解放されると、体がほっとする。体の次に、心がほっとする。夏の北杜市へ是非お出かけください。

▲北杜市大泉町。日が沈むと気温が一気に下がる。

■ほくとトクトク商品券

昨年、コロナ禍の経済対策で北杜市民一人当たりに3万円の商品券が配られました。今年も市内経済の活性化のため、「ほくとトクトク商品券」というものが登場しました。前回は無料で配られましたが、今回は希望者が購入をするものです。対象は「北杜市民であること」と、「一人1冊まで」。1冊5000円の購入で1万円分使えるというものです。

他の自治体でも同じような取り組みをしていると思いますが、購入額の2倍使えるというのは、かなり凄いのではないでしょうか。販売は既に終了していますが、私も並ぶことなくスムーズに購入することが出来ました。スーパーの他、飲食店でも使えるので、どこで何を食べようかと考えるだけで楽しくなります。

北杜市は人口4万6千人程の小さな自治体で、コロナ禍といった非常時には、小さいからこそ、小回りが利き、スピード感ある対応が出来るのではと感じます。昨年の国民1人10万円の給付金も大きな市では、なかなか給付がいきわたらない中で、北杜市では迅速に配られました。

新型コロナワクチンの接種については、65歳以下(12歳~64歳)について、7月上旬にワクチンの予約開始、8月上旬からワクチン接種の開始が予定されています。人が少ないからこそ、密にならずゆったりと過ごせる。人が少ないからこそ、対応がしやすい。地方の良さを感じる今日この頃です。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

▲北杜市で発行されたプレミアム付商品券。

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お盆休みをいただきます。八ヶ岳事務所は8月11日(水)から15日(日)までの5日間はお盆休みとなります。
併設の田園暮らし体験館もご利用できません。よろしくお願いいたします。

山梨◆峡東/わたしが山梨県に移住したわけは【行くぞ!甲斐路・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年7月28日

▲保健農園ホテル「フフ」ではかつて民家セミナーも行われた。

山梨県内でもっとも早い時期から「首都圏からの移住促進」に力を入れていたのは、「甲府市」や「北杜市」ではなく、中央道勝沼インターが最寄りの高速出入口になる「山梨市」なのである。

いまから20数年ほど前、平日の夜都内の場所を借りて移住希望者に対してセミナーを開催していた。ずいぶん積極的な自治体もあるものだと感心していたのをよく覚えている。

わたしも時々お邪魔して「空き家の話」をさせていただいた。受け入れ側と希望者だけでは「移住促進」にはつながらない。そこには両者を取り持つ「橋渡し役」がいてこそだということを、当時学んだのだった。

「東京の隣接県でありながら、そこには深淵な溝のようなものがあります」と同じ山梨市出身の中沢新一明治大学特任教授もどこかでおっしゃっていたが、山梨県民になって25年近く経つわたしがいまだに感じるものとして、その「心の溝」は押さえておくべく事柄であるのかも知れない。

▲新しい道路もでき、ロードサイド店が次々に開店する市民病院周辺。

そんなわたしが山梨へ移住するきっかけはなんと生まれも育ちもこの「峡東地域」の人たちなのだ。そしてここが首都圏にもっとも近い「民家の宝庫」であったことにも起因しているのである。

中央本線塩山駅北口に堂々と建つ民家がある。この地域の住まいの特徴をよく表した突き上げ屋根が独特の風情を見せる甲州民家、通称「甘草屋敷(かんぞうやしき)」だ。いまでこそ街の中心は市民病院周辺に移ってしまったが、この界隈には映画館や花街、塩山温泉、鍛冶屋、藤村式擬洋風の建築などが残り、知る人ぞ知る「街歩きの達人」的な要素満載の場所でもある。

「甘草屋敷」の再生や酒蔵をギャラリーとして活用するなど古い建物の修復に取り組んでこられたおふたりの人物がいた。ここ塩山上於曽にお住まいで学年も一級上の方々。この人物たちとひょんなことから知り合ったのがちょうど、長野で冬季オリンピックが開催される前年のこと。 
特に「恵林寺」北側の松里(まつさと)という地区のご出身である方は、私の姓「中村家」が多い集落であったため、わたしを誰かに紹介するときも「松里に親戚がある中村さん」と言ってくれたりした。

▲山梨市にある空き家の民家(旧牧丘町内・物件NO.16778S 本誌5月号物件)。

あるとき、「三富(みとみ)にすごい民家があるから見にいこうという話が出た。このおふたりがすごいというからには、ほんとうだろう。作家の樋口明雄さん風に岩国弁でいうなら「ぶちすごいっちゃ」ということになるだろうか。

一にも二にもなく日を置かずその民家を三人で見に行くこととなった。三富とは東山梨郡(現在は山梨市・旧三富村)にある山あいの里だ。新緑や紅葉の時期にみごとな景色が見られる西沢渓谷やイノブタ料理でも知られる山梨の最奥の村だった。

ある晴れた昼過ぎに胸をはずませてたどり着いた三富の現地。それは草ぼうぼうの畑の真ん中にあった。それはかつて家であったもの。それは誰にも使われなくなってあと何年かすれば確実に廃墟となってしまうもの。わたしの目にはそうとしか映らなかった。しかしながら・・・。

このお二人はヘルメットを被るやいなや四方を隈なく見てまわり、家の中にすっ飛んでいったのだ。そしてわたしを呼ぶ声が。

「この栗は使えるね」などと話し込んでいる。

「中村さんも見てみぃ」その指差す方にあったのは、なにかで削られたままに何本も組み込まれていた横木たち。それはまさしく江戸期後期の手斧で削られたみごとな梁の架構であったのだがその当時は知る由もない。

おまけに家の中がやけに明るいと思ったら、かつて天井だったところから青い夏空が透けているではないか。こんな廃屋をすごいすごいと連発するこの人たちはいったい何者だなのだ。わたしの深いところでこの人たちの思いが共鳴したような気がした。

▲向嶽寺(こうがくじ)総本山。山号は「塩山」。四方(塩)の山を見渡すということから名付けられたという。

それからまもなく八ヶ岳事務所の開設がありその所長としてわたしは家族ともども移住を決めたのだった。それと時期を同じくするように能楽の故観世榮夫(かんぜひでお)さんを会長に迎えて「日本民家再生リサイクル協会(現・認定NPO法人日本民家再生協会)」の立ち上げがあり、全国の古建築や民家が見直されようとしていた。また、空き家は全国的に急速に拡大し人口が少なく別荘の多い山梨県が空き家率全国一といわれてしまうようになり、空き家特別措置法が施行されその活用が叫ばれるようになった。

その後この三富の家は解体され、首都圏の方の二地域居住の住まいへと変化を遂げていくこととなった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

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峡東(山梨市)物件一覧

山梨◆八ヶ岳/今年はどう、山と向き合いましょうか?【八ヶ岳スタッフ・巡り巡って北杜市探訪記】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年7月16日

梅雨が明けると八ヶ岳も本格的な登山シーズンになります。自分が登山の楽しさに目覚めたのはほんの2年前。険しい山の中に峰々へ至る道や山小屋があることに単純に驚き、そして休日にもなれば多くの人々で賑わう。ショッピングモールで過ごす休日とは随分と違う時間が流れることに、心地良さを感じました。

新型コロナウイルスの流行が未だに続く今シーズン。どうしたものか、標高の高い山へ登ることのリスクが頭の中をちらつきます。昨年は本格的な登山は諦め、代わりによく出かけたのはお隣りの富士見町にある入笠山でした。山頂近くまでゴンドラでも行けるので、軽登山の山としても人気があります。

山の中腹まで車であがり、そこから山道を歩くこと60分で湿原に到着。山頂へはさらに30分程。ゴンドラ代も浮くし、登山も出来るし、湿原の花々も季節で移り替わります。

山頂からの眺めも抜群で、八ヶ岳の他、日本アルプスの3つの山脈が同時に眺められるのです。今年はどう、山と向き合いましょうか。今年も手探りのシーズンとなりそうです。(八ヶ岳事務所 大久保 武文)

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今年の「海の日」は7月19日(月)では無く22日(木)に移動しています。また、8月11日の「山の日」は8月9日(月)に移動しています。オリンピックの開会式7月23日(金)がスポーツの日で休日。どちらも特措法による今年限定の措置ですが、1月に配布された2021年のカレンダーは祝日の赤い日の印刷が間に合ってないものが多いので、気をつけてください!(7月19日は赤くなってますが、平日・出勤日ですよ!)

岩手◆奥州/湘南から東北へ17年目の決意【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年7月13日

情報誌に掲載する「住み継ぎ物件」を取材するため、岩手県奥州市・江刺梁川(えさしやながわ)へと向かうこととなった。

仙台を出た時は快晴だったにもかかわらず、一関あたりから雲行きが怪しくなり、東北道水沢IC を出るときには土砂降りの荒天に変わっていた。東北も梅雨入り間近の予感がした。

途中、朝の連ドラ『おかえりモネ』のポスターを鶴巣(つるす)PA で見かけ写真に収めた。ドラマでは移流霧や彩雲などが出てきて、おおっと、気を引かれた方も多いのではと思う。

田舎では天気や気象状況にセンシティブであることを強く求められるのだ。

国道4号線と水量のやや増した北上川を越えて、東北新幹線水沢江刺駅に立ち寄った。観光案内所で聞いてみたいことがあったのだ。

「大谷翔平選手に関する資料はないのでしょうか?」
とわたし。

「あいにく掲示板に貼ってある切り抜きぐらいしかないんですよ」
と案内所のスタッフ。

どうやら肖像権絡みで写真などは置けないのだとか。市役所に行けば等身大の腕の模型があって、感染防止をして握手もできるそうだ。手のサイズはそれほど大きくもなく、よくこれでスプリットが投げられるものだと感心したという。

▲「奥州市出身 がんばれ 大谷翔平選手」

遠方から来たというと、写真のようなステッカーをいただくことができた。

▲観光案内所スタッフのおひとり。

「ところで江刺梁川まではどのぐらいかかりますか」
と、わたしは尋ねた。

「ここから30分ぐらいで行けます」
とそのスタッフ。

「そこへ何しに?」

「ええ、都会から移住した人を訪ねに行きます」 

「梁川なら、そこ出身のミュージシャンをご存知?」 

「もしかして「ロンバケ」の大瀧詠一(おおたきえいいち)のことですか」

「ここでは大瀧さんの全作品を個人のコレクターから預かって展示してあります。どうぞご覧になってください」

というわけで、観光案内所のガラスケースに入ったLP レコードやCD とともに詳細な年譜を拝見することができた。

そのせいで取材先には10分遅れの到着と相なった。

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▲庭の様子。

物件は日当たりの良い丘陵地帯にあった。丹精込めて手入れされた庭と草花。雨は上がり雲間から日差しが差し込み少しばかりムッとする草いきれに包まれる。

ダイニングでそれぞれ自己紹介をしたあと、リフォームされた土蔵に案内していただいた。そこで地下20メートルから汲み上げた地下水でお茶をいただく。

オーナーは神奈川県の湘南の地から17年前に移住した。会社勤務時代は海外赴任の経験もあるという。

60歳で定年後すぐに考えたのが、夫婦で元気なうちに農業を始めたいという思い。おふたりはともに東北出身。あるとき本誌で見つけたのが広い農地と民家と土蔵付きのこの物件だ。

「リタイア後は田舎暮らし」を絵に描いたような梁川での暮らしが始まった。田んぼをやりたいというのがふたりの共通した考えだった。手間かもしれないが機械に頼り切らなくてもなんとかやって来られた。なにせ時間はたっぷりある。休日には都会の子供や孫たちも駆けつけて来る。わからないことは近所に聞く。

▲足踏みの脱穀機も。

そして、「近所付き合いも大事ですが」と奥様は言う。「近隣に気の置けない都会からの移住者を見つけること」、それが長く続けられる秘訣ではないかと。地元と付き合う努力は必要だが、似たような趣味趣向で気の合う人を探し出すこと。得意料理やお菓子談義に花を咲かせるのも必要だし、土蔵の中でオペラのCD を聞けるご近所もありがたいものだ。

「それともうひとつ。腕の良い大工を見つけること」。家の補修はやはり地元が良いと言う。こちらに来て震災も経験した。そしていまはその次の人生のことを考えはじめている。

きょうは良い話が聞ける日だとひとりごちながら、3キロほど離れた梁川小学校を見に行く。どこか懐かしいにおいがする小学校だ。

集落の一等地、田園の先の見晴らしの良い高台にその校舎はあった。水利があり見通しのきく高台は縄文時代の遺跡が多い。もしかしたらここもそのひとつかもしれないな、と思いながらわたしは梁川を後にした。

*次月号では移住地中に積極的な奥州市の取り組みや空き家バンクについて書く予定です。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

▲梁川小学校。

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売却物件を求めています

大切にされてきた家には限りない魅力がある都会の喧騒から自然の暮らしを求め、思い出をたくさんつくったあなたの田舎の家。人生のステージの変化にともないそれを手放す時が来るとしたら・・・これから田園生活をしたい人にバトンを渡すように引継ぎたいと思いませんか。

ふるさと情報館創立30周年を迎え、近年「この家を引継ぐ子どもや親戚がいない」「配偶者に先立たれ町に住む子どもと暮らす」など、様々な理由で売却する方の相談が増えてきました。日本では木造住宅の耐用年数は22年で、それを過ぎると建物の評価はゼロですが、ふるさと情報館では、永年使われてきた家や周辺環境、庭、菜園や果樹、必要な道具類も込みで「田園生活住み継ぎ物件」として、これから田園生活をしたい方に紹介する事業を展開してゆきます。

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