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山梨◆富士川町(旧増穂町)/「富士」と「わたし」が目線を合わせる場所【来てくれんけ甲斐路・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年12月31日

▲富士山(北杜市高根町)

いつだったか、琵琶湖北岸のとある町で「十一面観音」を拝観したことがある。畳に座して平安初期作と伝えられるこのたおやかな仏像を仰ぎ見ていたのだ。

わたしにはおもて伏せの品のある柔和な表情と、腰をしなやかにひねるその立ち居姿がとても印象深かった。奈良興福寺の「国宝館」では「八部衆」を前にしばらく佇んでいる方も多いと聞く。そのとき人々は黙して対話をしているのではないか。そのためには対象との距離感はとても大事だといってもよい。

そんな話を思い出したのは、日銀の支店長が当社八ヶ岳事務所にわたしを訪ねたいとご連絡をいただいたことに始まる。その少し前、地元紙に中央道の須玉から韮崎にかけて見る富士山が素晴らしいとその支店長がインタビューされていた記事を見ていたわたしは、おこがましくも目の付け所が良い方だな、との印象を持っていたのだ。

たしかに江戸時代の浮世絵師ではないが浪裏(なみうら)や桶や橋のほか弁べざい才船ぶね、木挽(こびき)の間から見る富士のその構図には舌を巻くし、わたしの仕事にも直結するような居ながらにして富士山を望む物件を求める方々の気持ちは本当に良くわかるのだ。そして山梨県下には富士山の見どころとなるべきスポットも数多く存在する。

▲富士山(韮崎市穂坂町)

「わたしの好きな山梨側の富士といえば」

浮世絵のベロ藍の包みを広げるようにしてわたしは言った。

「富士川沿いの旧増穂町の平林地区なのです」

▲富士山(大月市初狩パーキング)

旧増穂町?そこは芥川賞作家の池田満寿夫氏が陶芸に勤しんだ登り窯や「赤石鉱泉」に続くつづら折れの山道がある山あいの里で、石積みの乾いた畑には柚子の木が植えられている。冬の味覚・柚子の産地なのである。

また改装された民家の茶屋で気の良いお姉さんが蕎麦だかおむすびを出して観光客を迎えていた。

▲富士山(甲府市湯村)

▲富士山(富士河口湖町・西湖)

「ごらん」とその指差す先を振り向くと、そこには富士が腰を据えてこちらを向いているではないか。その姿は裾野まで長く稜線が見えるわけでもないが、ちょうど目線の先が富士で、なんと「目を合わせられる」位置にあったのだ。

富士は大きくも小さくもなく、わたしともほどよい距離感だ。そしてそこに住まう人たちは、毎日畑仕事をしながら富士と対話しているのかも知れない。その日そんな話を支店長にさせていただいたのだった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲富士山(南部町万沢)

▲そしてこの富士山!(富士川町平林)

宮城◆蔵王/物件ウオッチ誌上オンエアー(文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06: 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年12月19日

▲ペンション外観。四季を通じて観光客の絶えないのがここ蔵王。

宮城県蔵王町 ペンション1900万円

このコーナーで営業物件を取り上げるのは初めてのことだと思う。「蔵王町」は言わずと知れた東北屈指の温泉リゾート地で、宮城県南に位置しており152平方キロメートルの町域に1万1千人が暮らす。「蔵王連峰」の東南側にひらけた地形で松川の河岸段丘が作り出した強固な岩盤の下から湧く良質の温泉が自慢だ。

コロナ前の2014年の町の観光協会資料によれば、年間の入り込み客数は177万人ほどだという。仙台市内からは約45キロで1時間もかからない。スキーや温泉、日帰りドライブ、グルメ、こけし土産のほか森林浴や健康増進など一年を通じて手軽なリゾート地として人気がある。

▲赤茶けた排水溝からは湯煙が立ち昇っている。

課題は地域の高齢化と若年層の流出だが、蔵王町は移住政策の取り組みにも積極的だ。ペンションオーナーも徐々にではあるが代替わりしているという。そのペンションの数は20件がリストアップされており、本物件はそのサイトでも上位にランクされている。場所は「蔵王の御釜」に行くエコーライン入口の分譲地の最奥にあり、雑木林のなかにたたずむ静かで落ち着いた環境も自慢のひとつだ。

オーナー夫妻はお隣の山形県のご出身。わたしが初めて蔵王の御釜に行ったのは実に40数年前の高校2年の秋だった。新幹線は当時まだ無く、「奥入瀬渓谷」から観光バスでひたすら南下し、寒さに震えながらみどり色の御釜を奇跡的に30秒ほど見ることができたのだった。

その後、一昨年の3月に今回とは別のペンションの売却相談のあとに訪れたのが2度目。このときはエコーラインがまだ冬季のため開通しておらずスキー場のところで引き返してきた。そして今回が3度目ということになった。

▲田園の先にある蔵王連山は黒い雲に覆われていた。

そのペンションのオーナーいわく、「エコーラインは積雪のため今日は通行止めよ。残念だったわね!」道路看板では「11月5日から封鎖」と案内が出ていた。もしかしたら、善良なる市民のために特別に開いているのではないか。まだ紅葉も始まったばかりだし、雪なんか積もるハズがない。そんな淡い期待を胸にわたしの四駆はヘアピンカーブをひたすら登る。

スキー場の先のゲートは閉まってはいなかった。どうだ、と内心ほくそ笑む。わたしのほかにも上がって来る車は多い。勇気をもらうようにわたしもさらに高みを目指す。するとどうだ。路肩には雪が積もり始めているではないか。

▲エコーライン入り口の大鳥居。

気温はまたたく間に2度まで下がった。氷点下までもわずかだ。キツいカーブを過ぎ、蔵王寺の先にはトイレ休憩できる駐車場があった。ゲートはここで閉ざされていた。

残念ながら今回はここまで。しかしながら、次々に登ってくる車が後をたたない。駐車場内にも積雪がある。午後になればさらに気温は低下する。ちょうどいまが潮時なのだ。

▲またしても御釜の展望台を前にしてU ターン。

それにしても多くの人が「行けるところまで行ってみたい!」という心理や気分はとても分かる気がした。これまで緊急事態で押さえつけられていた日常からいっきょに枷が外れたように、、、人々の情熱がそれこそ堰を切ったように溢れ出してきているのである。

「八ヶ岳」でも清里の先にJR最高地点という場所(標高1375メートル)があり、昔から根強い人気の観光スポットとなっている。そこに建つログハウスでボリューム満点の「そば定食」を出す飲食店がすごい。店の名前は「最高地点」。満月よりもその前の14番目の月が良いという歌もあるが、「ココがサイコー。最高地点に行ってきたよ!」というのは結構な土産話になるそうだ。

蔵王でゲートの前で雪だるまを作ったよ、というのは良い話のようにわたしには思えるし、なにほどか共感もしたのである。この蔵王物件の話は12月25日に放送される予定です。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

▲バイクで来ていたカップルは可愛いサイズの雪だるまをこしらえてくれた。

 

(文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06: 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

山梨◆甲斐・遠州/駿州往還から東海道へ【来てくれんけ甲斐路!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年12月8日

▲金谷の市街地を望む高台。その先、大井川がゆったりと流れ、今では橋が何本も架かっている。

「街道筋」といえば、わたしにとってなじみ深いのは静岡県浜名湖北岸の通称「姫街道(ひめかいどう)」だ。浜名湖の南側を通る「東海道」が本筋ならば、こちらの山側にある「姫街道」は脇筋であり横道である。「本坂通り」というのが正式名称で、一説には江戸後期篤姫様が通ったことで「姫街道」と呼ばれることとなったともいう。

この街道はわたしの生家の横を通っていて、いまではみかん畑の先の東名高速道路でみごとに分断されているのだが、吉田(愛知県豊橋市)と見附(静岡県磐田市)で東海道に合流している。ちなみにこの街道の関所は井伊直虎の時代に堀川城のあった入り江の北東側の気賀(きが)にあるのだが、陸奥の伊達藩が築き、芭蕉たちが大変な難儀をした尿前(しとまえ)の関とは様相がだいぶ異なっている。視界が開けはるか先まで見渡せるのだ。いまはそこに静岡県警細江警察署があり、スピード違反車両に眼を光らせている。

▲東海道金谷宿の石畳。

江戸時代に難儀したといえば東海道の大井川だ。橋を架けない川の西岸、川越し場が金谷(かなや)である。現在の大井川鐵道始発駅でその西側には金谷宿本陣跡や石畳が残り、往時の面影を色濃く伝える場所となっている。金谷宿は東海道五十三次の第24番目の宿場なのだ。その先は河岸段丘が続き、そこを登り切るといっきょに視界が開けた場所に出る。とてつもなく広い台地なのだ。そこにはなんと戦国時代に武田信玄亡き後、勝頼の命で築かれた「諏訪原城跡」がある。曲輪跡と丸馬出しがきれいな形でいまも残り、国指定の史跡となっているのだ。名前は勝頼が諏訪大明神を祀ったことに由来している。

その2年後に高天神城(たかてんじんじょう・掛川市)を攻略するための城として家康が攻め落とし、その名を「牧野原城」に改めた。この台地がある牧之原はいまでは全国有数の茶の産地として知られる。

▲諏訪原城跡の丸馬出し。

いちめんの茶畑のその上を着陸態勢に入った航空機が飛んで行った。「富士山静岡空港」である。富士山ブランドで国内はもとより中国大陸や韓国へも定期路線が就航している。9月の終わりまでは人の移動が制限され空港内はまばらで閑散としていた。売店や食べ物屋、案内スタッフも手持ち無沙汰の様子。やがては活気が戻ることを念じながら、いまを何とかやり過ごす踏ん張りどころだ。

▲富士山静岡空港は広大な丘陵地帯にあるが人影もまばら。

空港から旧国道1号線、そして静清バイパスを「清水港」へ。途中、丸子インターを通り過ぎた。この近くには同級生が嫁いだ料亭があって、推しも押されぬ女将として腕を奮っているという。見事な庭園が人気で、そこで四季折々の表情を愛でることができる。しかしながらこの一年あまり個人客はあるものの数十人が入れるお座敷は厳しい状態だと、7月のオンラインでは言っていた。

「駿河湾フェリー」の発着場はワクチン接種会場になっており警備が厳しかったが、「中部横断道の開通で山梨から取材に来ました」というと割りとすんなり通してくれた。フェリーは出たばかりで(どこまで行くのだろう)、職員も閉門を始めていた。わたしの姿を見るなり「早くしてよね!」と言わんばかりに急き立てるのだ。「(清水)東高のOB で大榎(おおえのき)と同じクラスだった」とでも言えばよかったかも知れない・・・。

中部横断道の開通により、海なし、空港なしの山梨県は念願の両者(港と空港)を活用できるメドがついたという。富士山観光や果樹の販路拡大、化粧品工場の稼働など、地元のシンクタンクはその経済効果を年間135億円と皮算用をはじく。是非とも実現させてほしいと思うが、今様「魚尻線(うおじりせん)」として新鮮な県産果樹や勝沼ワインなどが静岡からアジアへそして世界に少しでも広まっていければ良いと願ってもいる。

そして、ちょっと足を伸ばして古民家の人気スポット「葛城北丸(かつらぎきたのまる)」(袋井市)でゆっくり食事することも視野に入れたいところだ。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲井伊家の菩提寺「龍潭寺(りょうたんじ)」は浜松市北区引佐町にあるが、この写真は滋賀県彦根市の「龍潭寺」。

山梨◆八ヶ岳/寒冷の候、12月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年12月1日

八ヶ岳はすっかり真冬の様相です。今年は10月の中旬からグッと気温が下がり、秋が無くていきなり冬になったような気候でした。とは言え、別荘の水抜きが必要になるような本格的な寒さは11月の下旬から。12月は連日の最低気温はマイナスを記録し続け、最高気温も10度をしたまわる状況となります。

日陰は路面の凍結に注意が必要で、市内に住む方は冬タイヤに履き替えています。空気が澄みわたり、雪化粧をした山がクッキリと存在感を増し、暖かい日差しを感じながらドライブが楽しい季節なのですが、路面状況にはくれぐれもお気をつけください。冬の八ヶ岳南麓は移住者には大変人気が高い季節です。北杜市は冬の寒さが大変厳しいところです。それなのになぜ、移住者には人気の季節なのでしょうか。

まず、八ヶ岳南麓の冬の魅力は、前述したように「空気が澄み渡ることによる山の眺望の見事さ」があると思います。そして夜には「満天の星空」が広がります。夜の屋外は泣きそうになるくらい寒いですけど、やはり一番きれいに星が輝くのは冬でしょう。

※写真はイメージです。

人の数がぐっと減る季節でもあります。観光客が多いのは春から夏、そして秋の紅葉シーズンには再びピークとなります。紅葉も終わったこの時期は一気に観光客の数が減り、結果として静かで落ち着いた雰囲気になります。ペンションや飲食店等、観光客向けにご商売をする場合は冬の営業をどうしていくのかが大きな課題とお聞きしたことがありますが、定住している者からすると、人の気配がないことに魅力を感じるから不思議なものです。

次に、冬の北杜市の冬の過ごし方では「薪ストーブ」の存在がとても大きいと思います。八ヶ岳事務所で扱っている物件の4軒に1軒くらいの割合で「薪ストーブ」が付いています。新築を建てられる方は、かなりの割合で薪ストーブを設置されています。そして何より感じるのが、使っている方の満足度の高さです。薪ストーブについてお話をお聞きすると、薪の仕入れ方から、薪棚を作った時の話し、薪の割り方、着火のコツ、炎を見ながら過ごす冬の暖かさなど、どんな人でも皆さん饒舌に語りだすから面白いものです。

「薪への着火方法」だけをとっても話に花が咲き、新聞紙派、着実な着火剤派、果ては強引なガスバーナー派など、そこへ至る遍歴など話は尽きません。地域によっては煙の臭いが洗濯物についたり、煙臭さがトラブルになったりとあるようですが、この北杜市では薪ストーブという暖房が地域に根付いています。冬には薪ストーブを楽しめる。これも冬が人気の大きな理由となりそうです。高根町清里にある清泉寮というホテルは、「暖炉の宿」と呼ばれるほど、ロビーやホール等館内各所に暖炉が設置してあるとのこと。薪ストーブ付きのお部屋もあるそうで、その魅力を体験されてはいかがでしょうか。

冬場には北杜市の近隣でスキー場もオープンします。スキーは激しいスポーツと思っていましたが、還暦、さらには古希を越えてスキーを楽しむ方を見かけます。正直びっくりしたのですが、スキーは生涯スポーツ、シニア割引もあり、元気なシニアがスキー場をにぎわしているそうです。 北杜市の冬の過ごし方は人それぞれですが、それぞれが冬の生活を楽しんでいるから人気の季節となるのでしょう。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

秋田◆仙北市/鱒の棲むところ ~ 田沢湖 ~【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年11月14日

今回は鱒(ます)の話である。

リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』(藤本和子訳)を初めて読んだのは、いまから40年ほども前の大学3年生の頃だったと思う。1984年に49歳で亡くなったこのアメリカ人作家はカウンターカルチャーやヒッピー文化のある種象徴として、60年代の終わりに爆発的ともいえるほど当時の若者に信奉されてきたが、その後70年代に入るとともに熱も冷めほとんど見向きもされなくなったという。

しかしながら、彼は何も同時代的なコミューン活動を描いたのではなく、60年代初期の詩人として心に浮かんだ心象風景(現実と幻想)を言葉にしていたのだ。なにせ一つの文章の中に二つも三つも比喩的表現が使われている。実直な読者を混乱させるのに十分な小説なのである。

▲『アメリカの鱒釣り』(1975年、初版は晶文社刊)と『西瓜糖の日々』※リンク先はamazon

わたしはといえば、特定な時代背景を意識して読まなかったおかげなのか、失われた鱒たちの哄笑(こうしょう)にも似た彼の文体に魅了され、表紙の写真のごとくサンフランシスコのワシントン広場にある銅像の前に立ちたいと、その当時思ったことを記憶している。

失われた鱒といえば、秋田県仙北市(せんぼくし)の田沢湖にしか棲息しないといわれ、湖の酸性化により絶滅したと考えられていた「クニマス」が、山梨県の富士五湖のひとつである西湖で、2010年に「再発見」されたというニュースが驚きをもって伝えられた。京都大学研究チームの中坊(なかぼう)教授が確認して、その後環境省のレッドリストでは「絶滅」から「野生絶滅」に指定変更をされたのだった。本家亡きあと、分家が興隆したかのようだ。田沢湖をふるさととするクニマスの卵が西湖に持ち込まれたのは戦前の1935年だという。

▲クニマス展示館(山梨県富士河口湖町)

▲水槽の中を泳ぐクニマスたち(山梨県富士河口湖町)

では西湖ではどうして絶滅しなかったのか。

水温4度前後で、2月3月の産卵期には水深30~40メートルあたりに着床しており、天敵の肉食魚も居なかったなど田沢湖と西湖は棲息環境が似ていたことが大きかったようである。いわゆる水が合ったのだ。

私が幼い頃から慣れ親しんできた浜名湖の水深(平均4.8メートル)など気にすることはこれまで一度もなかった。まして114キロに及ぶ周囲を一周することなど及びもつかない考えであった。

▲クニマス展示館のパネル。

▲夏の浜名湖は太陽の圧倒的な支配下に置かれる(東名高速道路浜名湖SA)。

ところがどうだ。前泊の盛岡から秋田内陸鉄道の主要駅阿仁合(あにあい)駅に行くと決まったときに、まずもってわたしの興味を引いたのは水深日本一の田沢湖(423メートル)であった。以前北海道の阿寒湖を舞台にした映画を観たのだが、わたしにとって森の中の湖というのは「神秘」であり「静寂」であった。そこでは弁証法的に「思索」の時間をもたらすものであったのだが、残念ながらそうした体験は浜名湖では好意的に言ってもまず、難しい(すみません)。

盛岡市の石川啄木の生家を過ぎ、国道46号線に入る。秋田新幹線と雫石川に並行して走る国道だ。ちなみに47号線は宮城県と山形県を結ぶあの鳴子峡を通る「奥のほそ道」国道。雫石川の作り出した肥沃な田園を、奥羽山脈に向かって今回もひたすら西へ。寄るべき「道の駅」もなく新幹線と交差して雫石町に着く。ここは1891年(明治24年)開設の「小岩井農場」があることでも有名。わたしはまだ行ったことがないが、設立に尽力された三人のお名前(小野、岩崎、井上)を取って名付けられた広大な農場だという。ちょうど東京の紀尾井町みたいなものか。

仙北市からは国道341号線に枝分かれして北上する。まっすぐ行けば小京都として名高い桜の名所「角館(かくのだて)だ。周囲を森に覆われた田沢湖は火山噴火によるカルデラ湖の一種だともいわれ穏やかな湖面をたたえる。周囲20キロほどの円形で湖畔にはキャンプ場も点在している。

わたしはゆっくりと湖を一周することができた。朝の清澄な空気を吸って、さあここから山越えである。目指すは鮎釣りのメッカ・阿仁合川だ。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

▲金色のたつこ像は秋の小雨の中で輝いていた。(秋田県仙北市田沢湖畔)

山梨◆八ヶ岳/深秋の候、11月のお知らせ【八ヶ岳スタッフ・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年11月1日

▲秋空の下、夕暮れで赤く染まる八ヶ岳。(北杜市高根町)

「秋」から「冬」へと移り変わる季節です。

朝晩の冷え込みが厳しくなり、紅葉の見ごろとなるのが10月中旬からで、11月の前半にはカラマツの葉が日を受けて黄金色に輝く様を見ることができます。標高差のため比較的長い間、紅葉が楽しめる八ヶ岳南麓ですが、11月の中旬にもなると標高の高いエリアでは葉が全て落ちてしまいます。紅葉狩りを楽しむには急がれた方がよろしいでしょう。

甲府地方気象台の2020年の観測によると、「初霜」が11月1日、「初氷」が少しおいて11月5日でした。「霜」は空気と接触している物体の温度が0度より低くなると、空気中の水蒸気が、物体の表面に「氷」として成長することで出来ます。

冬の晴れた朝などでは放射冷却で、地面付近の温度が気温よりも数度低くなるため、気温が0度にならなくても「霜」が降りることがあるそうです。「霜」が降りていると朝の気温が零下になったと思っていたのですが、そうとも限らないのですね。「初霜」と「初氷」に数日のタイムラグがあるのはそういう理由なのでしょう。

▲11月初旬。紅葉したカラマツの葉が輝く。(北杜市高根町)

甲府地方気象台ではその他に、「初雪」、「富士山の初冠雪」、「甲斐駒ヶ岳の初冠雪」の観測をしており、観測記録をホームページに記載をしています。「富士山の初冠雪」は平年では10月2日なのですが、今年は大幅に早まり9月7日に「初冠雪」というニュースが流れました。

ニュースを見て驚き、早速に八ヶ岳事務所近くの田んぼまで見に行くと、確かに富士山の頂上が白くなっています。まだ北杜市では残暑を感じる陽気で、稲は成長の途中、麓と山の上では随分と気候が違うなと思いました。

しかし、この「初冠雪」ですが後日談があり、記録としてその後に取り消されてしまいました。数日で融けたとはいえ、一度は雪が積もったのにどうしてでしょうか。

これは「初冠雪」の定義に当てはまらなくなってしまったからだそうです。その定義とは、◆富士山特別地域気象観測所の日平均気温の最高値が出現した日以降に、初めて冠雪を観測した日を「初冠雪」としています。というもの。

当初、8月4日に日平均気温の「最高値」が出現したものとし、9月7日に「初冠雪」を観測としていましたが、その後、9月20日に日平均気温の最高値が更新されてしまったそうです。その為、「最高値」が出現した日より前の冠雪は「初冠雪」の定義に当てはまらなくなり、「初冠雪」記録も抹消となったそうです。冠雪後の9月の後半にもなって、1年度で一番暑い日になるとは、気象の当事者も驚いたでしょう。

因みに9月20日の富士観測所の平均気温は10・3℃でした。とても年間の最高値とは思えない低い気温ですね。富士山の環境の厳しさを改めて感じました。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

▲11月中旬。標高の高い場所では落葉が進む。(北杜市大泉町)

山梨◆甲府市/まぐろと甲州人の密なる関係【来てくれんけ甲斐路!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年10月27日

▲県立博物館。今年は信玄公生誕500年にあたり、平山優先生の記念講演会もあった。(わたしは抽選でハズレました)

「博物館」は地域の歴史とそこに暮らした人々のかけがえのない「遺産」である。

身近なところでも、北杜市の「郷土資料館」や隣町にある長野県富士見町の「井戸尻考古館」などはスタッフの腰を据えた取り組みが良く知られてもいるが、わたし的には「和算」の資料がものすごい岩手県一関市と「宿場町の変遷」を克明に伝える静岡県富士市の博物館が印象深い。

以前、「山梨県立博物館」で耳慣れぬ言葉を聞いたことがあった。魚にまつわる話だ。

山梨県人はいまも老若男女を問わずまぐろの赤身が本当に大好きなようだ。寿司屋に「赤身」、蕎麦屋に「鳥モツ」、である。かつて、駿河湾で捕れた新鮮な魚介類を内陸部まで運んでいた時代。生の魚を腐らずに移動できるそのギリギリのラインが「甲府」だというのである。このラインを「魚尻線(うおじりせん)」と呼ぶ。それはわたしが初めて聞いた言葉だった。

▲厳美渓に行く途中にある一関市立博物館。(岩手県一関市)

そのころの「江戸前寿司」はいまよりずっと大きかったという。そのネタである魚介類を酢漬けや塩漬けにすることもなく食することができたのだ。内陸部に生きる甲州人は逆説的に生のまぐろを食べることに徹底的にこだわってきたのである。そこには命をかけた決死の努力が見て取れる。いま、回転寿司も含めて寿司屋が静かに盛り上がっているのはこうした背景があるからかもしれない。個人的には甲府の「かんぴょう巻き」はとても美味だと思いますが。

また、県立博物館には近海で捕れたと思われる「サメの骨の標本」もあった。なんと「サメの解体ショー」が甲州商人や街道往来の旅人の面前で演じられていたらしいのだ。「勝沼の白ワイン」は和食に合うといわれるが、生魚を食べる文化が生んだといわれれば合点がいく。山梨県人恐るべし、である。

▲往時をしのぶ街道筋。(笛吹市八代町)

さて、駿河湾で捕れた魚介類はどのようなルートで魚尻線の「甲府」まで運ばれてきたのか。いま明らかになっているのが次の三つのルートである。

その1)沼津~御殿場~河口湖~芦川ルート
駿河湾の北東に位置する「沼津港」からは、富士山の東側を進む。御殿場を抜け富士五湖の東側を通り、鳥坂峠の難所を行き甲府盆地に入る。「新東名」と結ばれた現在の「東富士五湖道路」と「若彦トンネル」を行く。「鎌倉街道ルート」だ。

その2)吉原~富士宮~精進湖(しょうじこ)~左右口ルート
駿河湾の北に位置する「吉原」からは、富士山の西側を進む。大迫力の富士山を正面に浅間大社(せんげんたいしゃ)から北上し富士五湖の本栖湖、精進湖を通過し、左右口(うばぐち)へ下る。家康公が入甲した際にも使われていた。「中道往還ルート」だ。

その3)駿府~清水~南部~身延~鰍沢(かじかざわ)ルート
駿河湾の西に位置する「府内」からは、富士川を進む。急峻な山あいのわずかな河岸段丘のへりを通り、直線方向に北上する。和紙、硯、印房(いんぼう)、楮(こうぞ)、温泉など地場産業の盛んな地域で舟運も栄えた。これが「駿州往還ルート」だ。

▲道の駅「なんぶ」には人気の三色まぐろ丼のほか南部茶の試飲コーナーもある。

これらのルートからは生モノを傷ませない工夫が見てとれる。富士山の東西の両ルートは険しい山道なのだ。標高的には800~1000メートル近い。少しでも涼しい気象条件を選んで運ばれるが、そこは峠道である。特に夜間は人通リがあるわけでもなく夜警団を組んでの行脚にはリスクが潜む。夜道の明かりも少なく盗賊や追いはぎそして身の危険があったことは容易に推察される。命を賭したルートだったのだ。

この8月29日午後4時。「中部横断自動車道」の最後の13キロ余りが開通し、これで同南部区間が全線開通した。これまでより20 分ほど短縮され、静岡と甲府が90 分ほどで結ばれたのだ。それは富士川沿いの「駿州往還ルート」だった。

わたしはその日東海道・金谷宿と茶畑の台地にできた空港に出かけていた(11月号でそのことを書きます)

夕方清水インターから北上するわたしが見たものは・・・東名高速道路方面へ向かう引きも切らない車列であった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲現在の清水港。駿河湾フェリーの発着所はワクチン接種会場となっていた。

山梨◆八ヶ岳/「育てられない女」家庭菜園を始めました【八ヶ岳スタッフ・日々の暮らしより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年10月21日

4月に下の娘が県外に出て、5人で始まった移住生活が、とうとう夫と二人になってしまいました。

子供の送迎に費やされていた時間が突如空白になり、子育ての終わりのあっけなさを思い知った春でした。

何を思ったか夫が庭に小さな畑を作り、初心者向けの野菜の種を買ってきました。

枝豆、えごま、バジルを蒔き、移住12年ついに畑デビューを果たしました。

実は私、サボテンを枯らしたことがあり、数々の観葉植物も残念な最期を迎えさせてしまった「育てられない女」です。

再犯が心配されましたが、今回はなんとか我が家の食卓に上ることができました。

枝豆がなかなか膨らまない心配、えごまは料理の腕が追い付かず、活用しきれなかったという後悔、調子に乗って植えたズッキーニは中指くらいの上品な大きさにしかならなかったという失望。

1畳ほどの畑で様々な感情と向きあう事ができました(大げさ)。

ゆるい家庭菜園、来年は愛してやまない「モロッコいんげん」を育ててみたいと思っています。(八ヶ岳事務所 原 きみえ)