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宮城◆加美町/鉤形(クランク)街道と薬莱(ヤクライ)富士【いくぞ東北!所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年11月17日

▲加美町の音楽の殿堂・バッハホール。

江戸時代元禄期に松尾芭蕉(1644年~1694年)が陸奥国府(みちのくこくふ)から出羽国へ奥の細道を行脚した仙台出羽街道(現在の国道47号線)はその当時整備されたばかりの、いわば新品の街道だった。くに境の「尿前(しとまえ)の関」は随一の難所ではあったものの、霜月初めまではくに境・鳴子(なるこ)の一級の景勝地として旅人の疲れを湯治場で逗留して癒すにはふさわしい場所だったに違いない。

その一本南側を走る街道が今回の舞台となる中羽前(うぜん)街道なのだ(現347号線)。このルートを使って出羽の大石田河港経由尾花沢から仙台へ向けて北前船による上方物の着物や松前物(北海道)の昆布・海産物などの交易が江戸時代を通じて頻繁に行われてきたのであった。加美町は内陸にあって日本海と太平洋を結ぶ交通の要衝地であったのだ。

当時仙台藩の関所はくに境に夏場だけ軽井沢番所が置かれただけだったが、ここが主要街道であった痕跡が実はいまもなお残っている。347号線を車で行けばすぐにわかる。ひと言でいえば走りにくい。出入りがしにくい。なぜなら町中を走る国道が鉤形なのだ。

こうした事例は山梨県甲府市の国道411号線にも見られる。武田信玄の時代以降に作られた街道筋で、ここも鉤形になっておりいまも大型バスがすれ違うのが難儀する隘路(あいろ)となっている。以前山梨学院大学の法学部の招きで空き家活用術の話をしに行った時に車で通ったことがあり、その時わたしはへんに感心した覚えがある。

▲加美町小野田支所。

▲鳴瀬川が街道と平行に流れる。

さて加美町小野田支所あたりは番所の代わりにこうした隘路、そして街道とほぼ平行に流れる鳴瀬川沿いの一角に伊達家重臣として知られる奥山家に代々仕えた松本家の旧家も建っている。

18世紀半ばの建築時期と見られるこの武家の住まいは手斧がけの柱と梁、竈のある土間と執務と住居を分けた民家のひとつであり、侍屋敷としてもかなり古い時代の遺構。真壁と大壁の使い分けも見事だ。現在では国指定の重要文化財であり質実剛健な構えの中に粋な内装をのぞかせて一見の価値がある(見学は無料)。

▲松本家旧家

▲竈の土間。

▲奥座敷。

この通りと川の両方向に目を光らせる立地はさすがとしか言いようがない。さらにその当時から鳴瀬川の河川が切り開いた肥沃な平野部は周辺地域屈指の穀倉地帯として発展していく。まさに仙台の奥座敷として隣接の岩出山(いわでやま)と共に現在も名を成している。

▲旧道にある公衆電話ボックス。

さらに、国道347号線を左に折れて山に向かっていく。その正面にあるのが薬莱山(やくらいさん)(標高552メートル)だ。その麓はスキー場となっている。地元では「薬莱富士」と呼ばれている。私が行ったその日は天気も悪く霧に霞んでいた。

▲整備された加美町の圃場。加美町は豊かな自然環境の中で世界農業遺産「大崎耕土」に指定されている。

その景色はどことなく富士五湖の本栖湖から静岡県の朝霧高原・まかいの牧場へと向かう西富士道路を走っているような錯覚がしたのが不思議であった。

▲やくらいガーデン。

温泉、地ビールそして「やくらいガーデン」(入園料800円)。高原にふさわしいリゾートアイテムが満載だ。ここなら一日中楽しめそうだ。特にやくらいガーデンは春先から11月まで営業していて、広大な敷地内にはバラ園やハーブガーデン、レストランもある。春の水仙と菜の花、夏のバラ、盛夏のころのひまわり、秋はケイトウ、サルビア、バーベナのじゅうたんが敷き詰められている。

加美町は中新田町(なかにいだまち)のバッハホールと山付きの別荘地だけではなかった。今回の取材では旧街道筋と農業遺産である耕土、そして薬莱山リゾート地と多様な顔を見ることができた一日だった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

山梨◆八ヶ岳/立冬の候、11月の八ヶ岳事務所【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2022年11月8日

▲日を浴びて甲斐駒ヶ岳の輪郭が浮かびあがる。(山梨県北杜市)

北杜市は秋のさかりを迎えています。10月終わりから11月中頃にかけて山々が刻々とその表情を変えていきます。

北杜市では桜前線が標高の低いところから高いところへと駆け上がるように時期を変えて進みましたが、秋の紅葉の見ごろも標高に大きく左右され、山の上部から下部へと駆け降りるように進んでいきます。

▲青空の下、紅葉を見上げる。(山梨県北杜市)

地元に住んでいても、紅葉の見ごろをキャッチするのは中々難しいところ。見頃まであと少しかなと思っていて、次に訪れると葉っぱが落ちてしまっているということもしばしば。

紅葉の美しさは刹那的、だからこそ毎年惹かれるのでしょうか。本原稿の作成にあたり、昨年の写真を見返してみると、自然の表情にハッとさせられる、印象的な景色のものが結構ありました。

11月でも前半と後半では植物や木々の表情が大きく変わります。そしてその表情の変わるタイミングというのか、移り変わる瞬間、物事の移り行く過程が哀愁を、美しさを感じさせ、印象的な景色となるのではないでしょうか。

物事の移り変わるタイミング、昼と夜、黄昏時、現世と常世、生と死。季節が移り替わる秋のこの時期、少し感傷的に物事が見えてしまう。

▲夕暮れの空に八ヶ岳。田んぼに静けさが漂う。(山梨県北杜市)

天候も安定しやすいこの時期、ドライブついでに秋の景色を写真におさめてはいかがでしょうか。夕暮れ時の八ヶ岳の山並みは特におすすめです。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

【八ヶ岳事務所エリアの物件】
八ヶ岳南麓エリア・・・北杜市高根町、北杜市長坂町、北杜市大泉町、北杜市小淵沢町
韮崎・茅ヶ岳エリア・・・北杜市須玉町、北杜市明野町、韮崎市、甲斐市
武川・白州エリア・・・北杜市白州町、北杜市武川町

宮城◆仙台/船岡周五郎の樅(もみ)ノ木は残っていた【いくぞ東北!所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年10月24日

▲船岡城址公園。

春まだ浅い3月の末に仙南地域の物件調査ともう一つの目的があり仙台市中心から4号線を福島方面へ南下したことがあった。10日ほど前の地震がいまだ話題にもなっていたときだ。

長町(ながまち)を過ぎ名取市に入る。左折すれば仙台空港へ通じている。さらにその先岩沼市に入り6号線と交差しながら白石川(しろいしがわ)沿いを行けば、巨大な製パン工場が現れる。そこは花の町で知られる柴田町(しばたまち)だ。54平方キロとこじんまりとした町に3万7千人ほどが暮らしている。町の花は「さくら」。白石川沿いの8キロにも及ぶ花回廊は圧巻だ。そして町の木は「もみの木」。

白石川、東北本線、阿武隈鉄道に囲まれた川の右岸は城下町の風情がいまも色濃く漂っている。目線の先にあるのが今回の目的地の一つである船岡城址公園だ。遠い記憶の彼方にあって、いまもどこかで気にかかるその場所はわたしのすぐ目の前にあった。

1970年(昭和45)は大阪で大規模な博覧会が開かれていて、特にアメリカの宇宙飛行士が月面から持ち帰ったという「月の石」を一眼見ようと連日超満員の活況をみせていた。

私たち小学生はマットの上で飛び跳ねたりしながらアポロ11号から月に降り立ったアームストロング船長のまねごとを繰り返していたように思う。

▲東北本線船岡駅

▲船岡駅前のホテル

地元の鉄道会社に勤務していた父はもうほとんど家にも帰らず、会社と万博会場を往復していた。その父がたまの休みにうちに帰ったときに見ていたのが、その年NHKで放送されていた大河ドラマ「樅ノ木は残った」であった。徳川4代将軍家綱の治世、仙台藩62万石を揺るがしたいわゆる伊達騒動を描いた作品で原作は山本周五郎。主人公は伊達藩船岡館主(たてぬし)原田甲斐宗輔。

中卒ですぐに働きに出たわたしの父は文学の素養もほとんどなかったと思われるがドラマの最終回に画面に向かって深く息を吐いていた。それはわたしがこの年までどこかで引きづってきた父の数少ない記憶でもあった。

山本周五郎は1967年(昭和42)2月14日(火)に63歳で急逝する。その最晩年の4年間を身近で身辺の世話をし原稿整理まで任されていた女性が、山梨県北杜市にいらっしゃる。齢80歳をゆうに超えたいまもすっきりとした姿勢でなぜかわたしのことを「恩人」だと言ってくださり、「(周五郎)先生のように肉中心の食事ではダメですよ。60を超えたらね」とアドバイスもされる。

その彼女が有隣堂の関係雑誌に周五郎の横浜・本牧にあった仕事場「間門園(まかどえん)」を引き払うまでのほぼ3ヶ月間にわたる日記を昨年12月号に寄稿している。「私は今、八ヶ岳山麓の小さな庵で山本周五郎先生の仕事場にありました品々を傍に暮らしています。」(「えりないと」2021 No.36)

▲船岡城址公園の周五郎文学碑(書はきん夫人による)。

2003年にDVD として発売された「樅ノ木は残った」総集編を観た後、わたしが「城址公園の文学碑はテーマ曲の映像に出てくる能面に似ていました」と電話をすると、彼女は少し喜んでくれたようだった。

▲「樅ノ木は残った」(新潮文庫)とDVD。

主役の原田甲斐を演じる役者の一徹に信念を貫きながらもどこか寂しげな表情は全編を貫いているが、先生はどう思っていたんでしょうかとのわたしの問いには、「自然は厳しいものだけれどそれだけではないんです。山に遊ぶことがなければこの小説はなかったと思いますね」とキッパリ言われる。

ある事件があって直木賞をはじめすべての文学賞を辞退した周五郎の評価はその後の読者にこそ委ねられた。そして周五郎の代表作の多くは50歳を過ぎてから生み出されている。

▲雪を抱いた遠くの山並みが蔵王連山。

東北の3月は春まだ浅く、川沿いの「ひと目千本桜」のつぼみは硬いままだった。これからわたしが向かうその先の蔵王連山もまだ雪深い。それでも大河ドラマの最終回に伊達家家臣で逆心とされた畑与右衛門の遺児・宇乃を演じた吉永小百合が、庭に残された樅ノ木に寄り添い抱きしめる姿に、わたしも一人息を漏らしていたのだった。

そして【「ながい坂」は僕の最高の作品だから五十を過ぎたら読むように。】「間門園日記」より

人が集いあうことが難しいいまの世の中においてこそ、ひとり静かに秋の夜長を過ごす時間を作ることも必要なのかもしれない。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

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船岡城址公園
所在地:宮城県柴田郡柴田町大字船岡館山95-1
アクセス:JR船岡駅下車 徒歩約15分
駐車場:あり
※詳細は柴田町HP(https://www.town.shibata.miyagi.jp/index.cfm/78,26972,151,html)まで

 

山梨◆八ヶ岳/清秋の候、10月の八ヶ岳事務所【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2022年10月10日

▲黄金色に輝く田んぼにトンボの姿。(山梨県北杜市)

10月初旬。北杜市では稲刈りの最盛期を迎えます。

黄金色の稲穂の間を、コンバインが駆けていく。5月に始まった田んぼの水はり、田植え、毎日の水の調整、週末毎の草刈り、傍から見ていても、稲を育てるという事は大変な作業ですね。

そして今年も田んぼの1サイクルが終わろうとしています。10月の中旬には八ヶ岳、南アルプスの山も冠雪となるでしょう。空気も澄んで、山を眺めるのに良い季節となります。

▲10月中旬。南アルプスがうっすらと雪化粧。(山梨県北杜市)

▲稲刈りの季節。コンバインが駆けていく。(山梨県北杜市)

皆さんご存じでしょうか、北杜市は知る人ぞ知る米どころなんです。

正直、私は移住するまで、北杜市の米というものを聞いたことがありませんでした。思い返せば「コシヒカリ」「あきたこまち」「ひとめぼれ」といった銘柄は気にしていても、どこの産地の米かを気にしていませんでした。

住み始めた当初も、田んぼがあるくらいの認識でした。ただ北杜市の食堂やドライブインで出てくる米(武川米が多かったでしょうか…)がとても甘くて、甘くて、ビックリしてしまいました。

その事を地元の方に話したところ、ご自分が褒められたように喜んでくれた記憶があります。こんな話も聞きました。「北杜市須玉町の米は、新潟魚沼産の米の在庫が少なくなると、魚沼産として市場に出されるのだと」。

これは都市伝説のようなもので、魚沼産に劣らず美味しいという話が誇張されたものだと思います。ただ、それくらい地元のお米への信頼というか、誇りがあるのだなと感じさせられたエピソードでした。

調べてみると、JA 梨北管内で栽培された「梨北米こしひかり」は、食味ランキングにおいて最高評価の「特A」を通算10回獲得しているそうです。そして平成20年には魚沼産こしひかりをおさえ、日本一美味しいお米にも選ばれたことも( ㈱米福HP より)。

食味ランキングとは(社)日本穀物検定協会が実施しているもので、専門家20名が毎年、お米の「外観・香り・味・粘り・硬さ・総合評価」で審査し、基準米とおおむね同等のものを「A’」、特に良好なものを「特A」、良好なものを「A」、やや劣るものを「B」、劣るものを「B’」として評価をするものだそうです。

こんなシビアな戦いが毎年行われていたのですね。私の方は、ここ3年程から顔見知りの農家さんからお米を買うようになりました。知っている人が作っているお米なので、なんでしょう安心感があるのは勿論、応援したくなる気持ちまで湧いてきます。

「梨北米こしひかり」のここ3年の結果は「A」の成績、「特A」からは遠ざかっているようですが、個人的には、それは何かの間違いなのでは?と言いたくなるくらい、北杜市のお米推しの今日この頃。北杜市においでの際は、是非、お土産にお米をお買い求めください。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

【八ヶ岳事務所エリアの物件】
八ヶ岳南麓エリア・・・北杜市高根町、北杜市長坂町、北杜市大泉町、北杜市小淵沢町
韮崎・茅ヶ岳エリア・・・北杜市須玉町、北杜市明野町、韮崎市、甲斐市
武川・白州エリア・・・北杜市白州町、北杜市武川町

長野◆青木村/信州青木村~里山暮らしのすすめ~【所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年10月1日

▲畑付きの住宅を案内する山本さん。

青木村に行くのは久しぶりだった。「上小(じょうしょう)」と呼ばれるこの地域は人の心をほぐしてくれる何かがあるようだ。

20年ほど前から当社とともに移住定住の仕事をされている地元生まれ地元育ちの山本さんの案内で、この7月に山梨から上信越自動車道上田菅平インターを抜けて訪れた。

山本さんの事務所はちょうど国宝「大法寺三重の塔」に枝分かれする場所にあり、国道143号線の青木村の入口にあたる。

「青木村は里山との距離感が良いでしょう」と山本さん。山があり川があり人が暮らしている。

地元のわからない事などを親身になって耳を傾ける姿勢が好印象だとは、田澤地区に移住された方々から聞く言葉だ。

以前別所温泉に秋の味覚を求めにきた時も感じたことだが、上小の人たちの気骨はもてなしの心意気にあるのかもしれない。畑で取れたてのかざらない野菜を走り回って食膳に並べていく。そして両手に抱えきれないほどの季節の野菜を土産に渡す。

山本さんは「物件見学の折にひとつ、野菜を植えて帰りませんか?」と見学者の方がたにも言うそうだ。時期になったころにまた収穫に来ていただく。そこには単なる見学者という一見さんから、地域へのかかわりを率先して進めていきたいと願う山本さんの移住コーディネーターとしての役割もあるようだ。

▲趣のある田沢温泉

田沢温泉近くにはそれこそ数十世帯の移住者がいらっしゃるという。犬の散歩で会ったイギリス人にも気さくに声をかけている。ここでは地元の方々と移住者との付かず離れずの関係が生まれている。

▲遠く浅間山の長く尾を引く稜線が素晴らしい。

近くの里山と遠くの浅間山、絵になる景色を求めてこれからも来村される皆さまにイチ押し物件を紹介できるよう、山本さんと二人三脚でやってまいります。(八ヶ岳事務所 中村健二)

🌸青木村の物件はこちらから

山梨◆北杜市ほか/甲斐適生活相談会【来てくれんけ甲斐路・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年9月25日

▲各ブースでの相談会の様子。

~3年ぶりに相談会が対面で行われました~

山梨への移住定住や二地域居住を官民共同でサポートする「甲斐適生活応援隊」による相談会が6月25日に東京有楽町の東京交通会館で行われました。

ここ2年間はオンラインのみでしたが、当日は感染予防対策をした上でのリアルな対面相談となりました(同時にオンラインの開催)。

以下その報告となります。

自治体からは甲府市や北杜市をはじめ韮崎市、甲州市、大月市、都留市、山梨暮らし支援センターなど。民間は不動産や建設会社でした。今回わたし的に驚いたことは自治体職員が一新されていたこと。これが意外にも新鮮な話題を提供できたようです。

「新しい住まいの見つけ方」というテーマで、限られた時間のため先輩移住者による体験談はやめました。その代わりに県の職員による移住に対する補助金(100万円の移住支援金)の話や設計事務所の二酸化炭素排出量の少し専門的な話が好評でジッと最後まで聞き入っておられる方々もいらっしゃいました。

▲各ブースでの相談会の様子。

ここで相談会にご参加された方々のことに触れてみます。対面とオンライン合わせて参加者は50名ほど。そのうち当日お越しになられた対面者は実に95パーセントが首都圏在住の方でした。そのほかは山梨、東北、関西の方。

年齢層では50代以上が5割弱でしたが30代40代の方も4割ほどいらっしゃいました。希望地域は過去圧倒的に北杜市(八ヶ岳南麓)でしたが、今回は半数ほど。中部横断道の開通により県南部の身延や南部も認知度が高まって来たほか、独自の取り組みによって学生と高齢者の町として成功している都留も人気が出ていたように感じました。

そして意外に知られていないのが甲府。子育て支援メニューも豊富な甲府(の賃貸)にとりあえず住んでその先を探すという選択もあるし、少し離れた郊外は緑も多く喧騒も少ない、そして駅にもスーパーにも出やすく図書館も多いなどのメリットを考えると、県都に住むのも良いのかも。

終了時間の午後5時まで各ブースが盛況だった今回の相談会でした。

▲わたしもお話させていただきました!

▲講演の様子

今回、実はわたしも話をさせていただく機会がありました。「アフターコロナでどう変わった?山梨移住事情」というテーマで、内容はおおむね次のとおり。

『山梨県とゆかりのある太宰治は、「富嶽百景」で書いている月見草のことがよく知られているが、もうひとつ粋な地形の話も残している。

゛甲府は「擂すりばち鉢の底」と評しているが、当たっていない。もっとハイカラである。シルクハットを倒(さかさま)にして、その帽子の底に、小さい小さい旗を立てた、それが甲府だと思えば、間違いない。(「新樹の言葉」より。1939年)″

帽子の底の甲府は標高250m、帽子の東側のつばである笹子トンネルは同800m、西のつばにあたる小淵沢インターでは900m。100m 上がると気温は0・65度下がり、盆地との気温差は5度前後開きがある。

兼好法師の言った夏を旨とする家の作り方をここでは冬を旨として考えたい。そして職場を変えることなく引越し感覚で家探しができるコロナ下では家族で移住を決断するには絶好のチャンスであろう。

ネット環境さえ整えば首都圏と比べて中古物件ははるかに安い。庭も広い。欲しいものは宅配で手に入る。伊豆や軽井沢の観光地へも渋滞なく行ける。図書館も空いている。

ご夫婦やおひとり様におかれては1アールの自家菜園を確保しよう。森の中に小さな小屋(タイニーハウス)を建て一人用サウナ、広めのベランダ、ペレットストーブとハンモックを用意して人とはあまり会わない暮らしを楽しむこともできる。』

最後に、今年第2回目の相談会は10月1日の土曜日午後1時15分から午後5時まで行います(感染状況により変更の可能性あり)。(八ヶ岳事務所 中村健二)

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※お問い合わせは、
山梨県二拠点居住推進課(055-223-1850)
または
ふるさと情報館八ヶ岳事務所(0551-46-2116)まで
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🌸山梨県の物件はこちらから

山梨◆八ヶ岳/新秋の候、9月の八ヶ岳事務所【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2022年9月1日

▲黄金色の田んぼ。(北杜市高根町)

9月に入ると北杜市では一足早く秋の雰囲気を感じるようになります。暑さから涼しさへと変わる月といえるでしょう。2021年の気象庁の記録を調べると、9月に入ると最高気温が30度を切ってきます。ただ、それよりも体感に大きく影響するのが、最低気温の変化でしょう。最低気温が20度を切り、日によっては15度、10度近くまで下がることも。

8月と同じ服装では過ごせない時間帯が多くなってきます。大変すごしやすい季節となりますが、同時に夏が終わってしまった寂しさも覚え、9月後半にはそろそろコタツを出そうかなんて思うことも。気温の変化には気を付けないといけない季節です。

■保険について

私的な事ですが、山岳保険の更新時期が近づいています。山岳保険は登山をする人にはポピュラーですが、一般的には余り知られてないかもしれません。登山を始めるときに、まずケチらずに購入しないといけないのが登山靴とレインウェア。次に速乾の衣類、登山リュック。専門のものを揃えると登山が快適になり、身体の負担が一気に軽くなります。

ただ、本当に大事なところは安全性の確保です。登山靴を使わなければ、足を捻って歩けなくなるかもしれません。レインウェアが無ければ、急な雨により、服が濡れ、急激に体温が奪われ、低体温症で動けなくなるかもしれません。街であれば、お店で一休みできるのですが、山の中ではそうはいきません。命を守るために、きちんとした道具を揃えていかないといけないのです。

そしてその次に出てくるのが山岳保険です。どんなに道具を揃えても、注意をしていても、強風や浮石でバランスを崩したり、足を滑らせて、ケガで歩けなくなったり、滑落してしまう事があるかもしれません。そんな時にお世話になってしまうのがヘリや救助隊による捜索です。

▲救助ヘリ。できればお世話にならないことが一番ですが、
万が一の緊急事態には心強い隊員の方々に感謝。

命をかけた大変な作業なので、救助隊の日当、宿泊費、ヘリ整備費と自然と費用も大きなものになります。YAMAP 登山保険のページによると、ヘリ捜索費用が約165万円、救助隊の費用が約45万円という試算が出ています。

無事に救助いただいても、日常生活に影響が出るほどの金額です。この捜索費用を補償してくれるのが山岳保険です。1泊2日など日にち単位でも契約できますが、私は1年間の契約で入っています。

加入しているのは、モンベルの野外活動保険というもので捜索救助費用が500万円まで。保険金額は年間3190円。捜索救助費用に目的を絞った割安なプランです。

事故にいつ出会うのかは誰にも分からない。登山を楽しむ上で、もしもの金銭的なリスクを低減してくれる、有難い保険です。
(八ヶ岳事務所 大久保武文)

▲雨の中の登山。そこに山がある限り・・・。(白駒池・丸山の苔の森)

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🌸ふるさと情報館では、八ヶ岳南麓に広域に広がる山梨県北杜市の物件は、物件数の多さ、地域の特色、アイデンティティを考慮し、馴染みのある町村名(旧町村)で表記しています。

【八ヶ岳事務所エリアの物件】
八ヶ岳南麓エリア・・・北杜市高根町、北杜市長坂町、北杜市大泉町、北杜市小淵沢町
韮崎・茅ヶ岳エリア・・・北杜市須玉町、北杜市明野町、韮崎市、甲斐市
武川・白州エリア・・・北杜市白州町、北杜市武川町

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静岡◆掛川~浜松/「井伊谷」の懐かしき夏休み ~ 井伊家とわたしの龍潭寺 ~【静岡生まれ山梨県人・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年8月17日

▲龍潭寺山門。1656年(明暦2年)建立。

7月号掲載の浜北区の物件からおよそ二十キロ西へ行くと、都田(みやこだ)テクノポリスの丘陵地帯を経て、都田川沿いに点在する古い集落に出る。

その一角は東海道や姫街道からも遠く離れた場所であるが、実は群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代は「駿河(するが・現静岡県)」、「信濃(しなの)・現長野県」、「甲斐・現山梨県」、「三河・現愛知県東部」を結ぶ交通の要衝地で、北遠地域随一の発展を見せた井伊谷(いいのや・旧引佐町)だ。

この地を治めた領主は「井伊家」である。古刹名刹も数多いが「井伊家」の菩提寺は本日の主舞台である龍潭寺(龍潭寺)。「井伊家」の初代は十一世紀初頭にまでさかのぼり、藤原氏の血を引くともいわれる井伊共保(いいともやす)公。地下水の豊かなこの地で生まれたのが「井伊」の謂れだが、母方の実家も実はここ「井伊谷」だった。

わたしは夏休みになると「井伊谷」に出かけ従兄弟たちと他愛もない遊びに没頭していた。そして母方の家は代々龍潭寺の檀家相談役を引き受けてきてもいたのだった。

▲龍潭寺の鴬張りの廊下。「盆帰省 逢うて走った 従兄弟らよ」

さて、井伊家十二代・道政の時代はちょうど南北朝にあたり、後醍醐天皇の皇子・宗良(むねなが)親王の元に馳せ参じ南朝方として挙兵したのである。そして駿河の雄・今川氏と対峙しことごとく敗れている。

わたしの父方の祖父は郷土史家でもあったので、宗良親王について本にまとめて出版していた。中学生のころ読んだ記憶はあるものの内容についてはよくわからなかったと思う。十年ほど前調べ物があって国立国会図書館に行ったおり、ふと気になって祖父の書いた本があるかもしれないな、と思い職員に調べていただいた。「苗字が違いますが?」と職員。「いろいろありまして」とわたし。

三十分ほどかけてその職員が見つけ出してくれたのはまごう事なきまさに祖父の書いた本だった。

戦国時代になると井伊家はさらに悲惨な道を歩むこととなる。今川義元の配下となって桶狭間に出兵したものの織田信長軍に壊滅的な打撃を被った。その後やって来たのが武田信玄と徳川家康。二十四代の直政(なおまさ・のちの彦根藩初代藩主)はまだ幼く井伊家は風前の灯であった。そこで一計を案じ実行したのが龍潭寺の南渓(なんけい)和尚だ。

▲龍潭寺に飾られている井伊家家系図。

直政を信州の禅寺に保護し、その間に井伊家を任せたのが次郎法師といい、テレビなどでは女城主といわれる直虎(なおとら)だった。ところで直虎のひいお爺さんにあたるのが二十代の直平で、直平の孫には家康の正室・築山殿(つきやまどの)がいる。直虎と築山殿とは親戚筋でもあった。

その築山殿と家康の嫡男・信康は信長の命により浜北から天竜川を越えた二俣城において幽閉され自刃している。直虎は徳政令により失脚し、龍潭寺で晩年を過ごした。成人した直政が家康のもとで徳川四天王と言われるのには旧武田軍の存在が大きかったといわれる。

▲二俣城址公園。元亀3年(1572年)10月に武田信玄を総大将とする武田勝頼軍の猛攻により落城。歴史に名高い三方ヶ原(12月)へと続き、徳川家康は生涯最大の敗北を喫した。現代においても過去最大の赤字を生んだ孫正義社長が、この敗北で描かせた肖像画を引合いに出した先日の会見は記憶に新しい。

武田家滅亡ののち、甲斐に入った家康は最強軍団を誇った山県(やまがた)衆を直政のもとにつけ「赤備え」の甲冑を施し、小牧長久手の戦いで功績を挙げたのだった。その後徳川の治世を二百六十年余に渡って下支えしてきた井伊家が幕末になって歴史に名を残すことになったのが、三十六代の直弼(なおすけ)だ。安政の大獄、桜田門外の変での当事者であった。

▲甲斐武田家の譜代家老衆・山県昌景は軍装を赤一色に統一し、周辺諸国より畏怖された。
「赤備え」の甲冑は真田信繁や井伊直政へと引き継がれた。

ここで井伊家の教訓があるとすれば次の三点が挙げられようか。

 一 南渓和尚のような実行できる知恵者がいること。

 二 大事なものは成長するまで隠しておくこと。

 三 前例によらずリリーフを立てられること。

最後に、井伊谷の石灰の岩山と龍潭寺の庭は折に触れて思い出す心の風景となっている。母無きいまも訪れてみたい場所の一つなのだ。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲龍潭寺の庭は小堀遠州(政一)作として知られる。真ん中に如来、左右に脇侍が控え、鶴亀の吉祥も描く。