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群馬◆甘楽町/物件ウォッチ誌上オンエアー (文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06: 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年1月25日

群馬県甘楽町(かんらまち)野菜畑を楽しむ家

今回は群馬県の南部に位置する「甘楽郡甘楽町」の物件の話。「甘」と「楽」を冠した市町村はわたしの調べた限りで、群馬県(邑楽郡)、愛知県(北設楽郡)、京都府(相楽郡)、東京都(千代田区有楽町)など「楽」はそれぞれ特徴のある地域が多い。それにしても「甘く楽しい」とは、わたし的には全国最高位に位置する市町村名であることだけは確かだ。

町域は58平方キロメートルで(ちょうど世田谷区と同規模)、人口は2019年の住民基本台帳によれば13、185人。地形的には南部の山間地(平均標高700メートル)、中央部の丘陵地(同300メートル)、北部の田園地帯(同115メートル)と起伏に富んでいる。山あり谷ありの変化に富んだ地形は私の好みとも一致している。

▲甘楽町役場。(上州の小京都とも呼ばれる小幡地区にある)

気候は内陸性で寒暖差が大きく冬場の日照時間は長い(2018年の1月の日照時間は192時間で月毎では最長)。こうした地域では農産物の良好な産地が多く滋味あふれる食べ物も多いと聞く。

▲立派な小幡の看板。

また、甘楽は高崎と富岡・下仁田を結ぶ交通の要衝地にあたり、町内を東西に走る下仁田街道(現国道254号線およびバイパス)のほか私鉄の上信電鉄がある。この上信電鉄は高崎と下仁田を27分あまりで結んでいるが、鉄道や物流の中心地・高崎駅では0(ゼロ)番線ホームが発着番線なのだ。訪問者にとってはゼロというのがなんとも言えずに良い。

わたしは東北出張の帰り道、上信越自動車道の吉井インターを降りて甘楽に向かったが、次の富岡インターともほぼ中間に位置するようだ。そして往時をしのぶ雰囲気を醸し出す甘楽パーキングにスマートインターが2023年3月にできる予定だという。このインターができれば交通アクセスが飛躍的に向上するのは間違いない。

▲上信越道甘楽パーキング上り。

約束の時間に物件現地で売主とお会いする。周辺はほどよく宅地が点在し、農地がその周りに配する。その中心には白倉神社が鎮座する。敷地は東側が河川、西側が県道に面していた。

▲白倉城は2つの山城の総称。甘楽ふれあいの丘には甘楽中学がある。

物件の第一印象は「よく手入れされているな」だった。農地の一角に「Jardin Potager」(ジャルダン・ポタジェ)の看板が目に止まった。フランス語でその意味するところは「野菜畑」なのだそうだが、ハーブなども多品種植えられていてその多様性が今風でもある。昔から一反(約300坪)という敷地の広さは、農家住宅の基本と言われてきた。母屋があり、離れがあり、納屋がある。そして地続きの目の前には菜園が広がっている。指し呼この間に完結できる田舎暮らしの理想形を絵に描いたような物件といえるのだ。

▲野菜畑の様子。

しかも本下水の受益者負担金は支払い済みであるので、工事をすれば下水も利用できる。さらに100メートルほどの場所には竹林があり、こちらも付属される(実は収録時パーソナリティーの残間さんが一番興味を示されたのがこの竹林です)。

毎年4月にはタケノコを思う存分味わうことができる。自給を目指す暮らしも良いだろうし、民家カフェなど営業物件としても一考に値する。

▲石積み付近が現地。山城の時代に設けられた擁壁と推定される。

わたしはその後西側の丘陵地にあるモダンな町立の中学校や文化会館を見て回ることができた。江戸時代の小幡藩のお城下は新旧がほどよく交わった甘く楽しい町として、これからも続いていくことだろう。

▲由緒ある白倉神社。

▲白倉氏居城跡。

駅伝の名門・東京農大二高の脇を通って高崎駅の繁華街に向かった。人づてによると群馬県人はうどん好きなのだという。秋田の稲庭うどん、香川の讃岐うどんとあわせて全国三大うどんと並び称されるという(異論はあると思いますが)、群馬の水沢うどんを食べることにした。

濃い目のつけ汁に合ったざるうどんはのど越しも良く品のある味だった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲ご当地「水沢うどん」。

山梨◆八ヶ岳/新年によせて~皆さんの座右の銘は何ですか?【所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年1月1日


「中村さんの座右の銘はなんですか?」
年末になるとこんな取材をされることがある。

「祖母が庭先で転んでこれから見舞いなので適当でいいですよ」ある年、そう応えておいたら後日こんな記事になって帰ってきた。

「中村氏の座右の銘は、七転び八起き」

 

中学の時の卒業文集でクラス一の秀才が受験に対する恐怖心こう表現していた。

「心に思い描く恐ろしさに比べたら目の前の恐怖などものの数ではない」

これはシェークスピアの『マクベス』の中の一節(第一幕第三場)で、英語表記では次のとおり。

「Present fears Are less than horrible imaginings」

その後彼は名の知れた企業に入り成功を収めたと聞く。うまく恐怖心を乗り越えたのだろうか。


私はと言えば、この一節は座右の銘ではないけれどもいつもどこかで引っかかっている言葉のひとつでもある。

遠州弁で「おそ(ん)がい」という言葉があって、生粋の横浜っ子と麻雀をしたときに、「遅くねーだろー」とよく言われた。でも君、それは違う。「怖い」とか「恐ろしい」といったニュアンス。「この牌を振り込むのは恐んがい!」

諺をひねって、仕事に臨むことがままある。「急がば走れ」とか、「石の上にも三日」とか、「親しき仲こそ礼儀あり」とか、「笑う門にはフグ来たる」など。

俳句をもじって、「裏を見せ表を見せて散る健二」
こうした自虐ネタは意外と処世上、有効な手立てにもなりうるような気がしないでもない。

古典も惹句的表現の宝庫。『徒然草』は齋藤孝教授がおっしゃっているように上達の心構えや気づきの技を説いた書であって、先達の教えに2021年の年末こそ耳を傾けたいところ。

さて、昨年もいろいろありましたが、これまであげた中にはわたしが座右の銘にしているものが実はひとつだけあります。

励み励まされの一年。

本年もどうぞよろしくお願い致します。(八ヶ岳事務所 中村 健二)

山梨◆富士川町(旧増穂町)/「富士」と「わたし」が目線を合わせる場所【来てくれんけ甲斐路・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年12月31日

▲富士山(北杜市高根町)

いつだったか、琵琶湖北岸のとある町で「十一面観音」を拝観したことがある。畳に座して平安初期作と伝えられるこのたおやかな仏像を仰ぎ見ていたのだ。

わたしにはおもて伏せの品のある柔和な表情と、腰をしなやかにひねるその立ち居姿がとても印象深かった。奈良興福寺の「国宝館」では「八部衆」を前にしばらく佇んでいる方も多いと聞く。そのとき人々は黙して対話をしているのではないか。そのためには対象との距離感はとても大事だといってもよい。

そんな話を思い出したのは、日銀の支店長が当社八ヶ岳事務所にわたしを訪ねたいとご連絡をいただいたことに始まる。その少し前、地元紙に中央道の須玉から韮崎にかけて見る富士山が素晴らしいとその支店長がインタビューされていた記事を見ていたわたしは、おこがましくも目の付け所が良い方だな、との印象を持っていたのだ。

たしかに江戸時代の浮世絵師ではないが浪裏(なみうら)や桶や橋のほか弁べざい才船ぶね、木挽(こびき)の間から見る富士のその構図には舌を巻くし、わたしの仕事にも直結するような居ながらにして富士山を望む物件を求める方々の気持ちは本当に良くわかるのだ。そして山梨県下には富士山の見どころとなるべきスポットも数多く存在する。

▲富士山(韮崎市穂坂町)

「わたしの好きな山梨側の富士といえば」

浮世絵のベロ藍の包みを広げるようにしてわたしは言った。

「富士川沿いの旧増穂町の平林地区なのです」

▲富士山(大月市初狩パーキング)

旧増穂町?そこは芥川賞作家の池田満寿夫氏が陶芸に勤しんだ登り窯や「赤石鉱泉」に続くつづら折れの山道がある山あいの里で、石積みの乾いた畑には柚子の木が植えられている。冬の味覚・柚子の産地なのである。

また改装された民家の茶屋で気の良いお姉さんが蕎麦だかおむすびを出して観光客を迎えていた。

▲富士山(甲府市湯村)

▲富士山(富士河口湖町・西湖)

「ごらん」とその指差す先を振り向くと、そこには富士が腰を据えてこちらを向いているではないか。その姿は裾野まで長く稜線が見えるわけでもないが、ちょうど目線の先が富士で、なんと「目を合わせられる」位置にあったのだ。

富士は大きくも小さくもなく、わたしともほどよい距離感だ。そしてそこに住まう人たちは、毎日畑仕事をしながら富士と対話しているのかも知れない。その日そんな話を支店長にさせていただいたのだった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲富士山(南部町万沢)

▲そしてこの富士山!(富士川町平林)

宮城◆蔵王/物件ウオッチ誌上オンエアー(文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06: 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年12月19日

▲ペンション外観。四季を通じて観光客の絶えないのがここ蔵王。

宮城県蔵王町 ペンション1900万円

このコーナーで営業物件を取り上げるのは初めてのことだと思う。「蔵王町」は言わずと知れた東北屈指の温泉リゾート地で、宮城県南に位置しており152平方キロメートルの町域に1万1千人が暮らす。「蔵王連峰」の東南側にひらけた地形で松川の河岸段丘が作り出した強固な岩盤の下から湧く良質の温泉が自慢だ。

コロナ前の2014年の町の観光協会資料によれば、年間の入り込み客数は177万人ほどだという。仙台市内からは約45キロで1時間もかからない。スキーや温泉、日帰りドライブ、グルメ、こけし土産のほか森林浴や健康増進など一年を通じて手軽なリゾート地として人気がある。

▲赤茶けた排水溝からは湯煙が立ち昇っている。

課題は地域の高齢化と若年層の流出だが、蔵王町は移住政策の取り組みにも積極的だ。ペンションオーナーも徐々にではあるが代替わりしているという。そのペンションの数は20件がリストアップされており、本物件はそのサイトでも上位にランクされている。場所は「蔵王の御釜」に行くエコーライン入口の分譲地の最奥にあり、雑木林のなかにたたずむ静かで落ち着いた環境も自慢のひとつだ。

オーナー夫妻はお隣の山形県のご出身。わたしが初めて蔵王の御釜に行ったのは実に40数年前の高校2年の秋だった。新幹線は当時まだ無く、「奥入瀬渓谷」から観光バスでひたすら南下し、寒さに震えながらみどり色の御釜を奇跡的に30秒ほど見ることができたのだった。

その後、一昨年の3月に今回とは別のペンションの売却相談のあとに訪れたのが2度目。このときはエコーラインがまだ冬季のため開通しておらずスキー場のところで引き返してきた。そして今回が3度目ということになった。

▲田園の先にある蔵王連山は黒い雲に覆われていた。

そのペンションのオーナーいわく、「エコーラインは積雪のため今日は通行止めよ。残念だったわね!」道路看板では「11月5日から封鎖」と案内が出ていた。もしかしたら、善良なる市民のために特別に開いているのではないか。まだ紅葉も始まったばかりだし、雪なんか積もるハズがない。そんな淡い期待を胸にわたしの四駆はヘアピンカーブをひたすら登る。

スキー場の先のゲートは閉まってはいなかった。どうだ、と内心ほくそ笑む。わたしのほかにも上がって来る車は多い。勇気をもらうようにわたしもさらに高みを目指す。するとどうだ。路肩には雪が積もり始めているではないか。

▲エコーライン入り口の大鳥居。

気温はまたたく間に2度まで下がった。氷点下までもわずかだ。キツいカーブを過ぎ、蔵王寺の先にはトイレ休憩できる駐車場があった。ゲートはここで閉ざされていた。

残念ながら今回はここまで。しかしながら、次々に登ってくる車が後をたたない。駐車場内にも積雪がある。午後になればさらに気温は低下する。ちょうどいまが潮時なのだ。

▲またしても御釜の展望台を前にしてU ターン。

それにしても多くの人が「行けるところまで行ってみたい!」という心理や気分はとても分かる気がした。これまで緊急事態で押さえつけられていた日常からいっきょに枷が外れたように、、、人々の情熱がそれこそ堰を切ったように溢れ出してきているのである。

「八ヶ岳」でも清里の先にJR最高地点という場所(標高1375メートル)があり、昔から根強い人気の観光スポットとなっている。そこに建つログハウスでボリューム満点の「そば定食」を出す飲食店がすごい。店の名前は「最高地点」。満月よりもその前の14番目の月が良いという歌もあるが、「ココがサイコー。最高地点に行ってきたよ!」というのは結構な土産話になるそうだ。

蔵王でゲートの前で雪だるまを作ったよ、というのは良い話のようにわたしには思えるし、なにほどか共感もしたのである。この蔵王物件の話は12月25日に放送される予定です。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

▲バイクで来ていたカップルは可愛いサイズの雪だるまをこしらえてくれた。

 

(文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06: 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

山梨◆甲斐・遠州/駿州往還から東海道へ【来てくれんけ甲斐路!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年12月8日

▲金谷の市街地を望む高台。その先、大井川がゆったりと流れ、今では橋が何本も架かっている。

「街道筋」といえば、わたしにとってなじみ深いのは静岡県浜名湖北岸の通称「姫街道(ひめかいどう)」だ。浜名湖の南側を通る「東海道」が本筋ならば、こちらの山側にある「姫街道」は脇筋であり横道である。「本坂通り」というのが正式名称で、一説には江戸後期篤姫様が通ったことで「姫街道」と呼ばれることとなったともいう。

この街道はわたしの生家の横を通っていて、いまではみかん畑の先の東名高速道路でみごとに分断されているのだが、吉田(愛知県豊橋市)と見附(静岡県磐田市)で東海道に合流している。ちなみにこの街道の関所は井伊直虎の時代に堀川城のあった入り江の北東側の気賀(きが)にあるのだが、陸奥の伊達藩が築き、芭蕉たちが大変な難儀をした尿前(しとまえ)の関とは様相がだいぶ異なっている。視界が開けはるか先まで見渡せるのだ。いまはそこに静岡県警細江警察署があり、スピード違反車両に眼を光らせている。

▲東海道金谷宿の石畳。

江戸時代に難儀したといえば東海道の大井川だ。橋を架けない川の西岸、川越し場が金谷(かなや)である。現在の大井川鐵道始発駅でその西側には金谷宿本陣跡や石畳が残り、往時の面影を色濃く伝える場所となっている。金谷宿は東海道五十三次の第24番目の宿場なのだ。その先は河岸段丘が続き、そこを登り切るといっきょに視界が開けた場所に出る。とてつもなく広い台地なのだ。そこにはなんと戦国時代に武田信玄亡き後、勝頼の命で築かれた「諏訪原城跡」がある。曲輪跡と丸馬出しがきれいな形でいまも残り、国指定の史跡となっているのだ。名前は勝頼が諏訪大明神を祀ったことに由来している。

その2年後に高天神城(たかてんじんじょう・掛川市)を攻略するための城として家康が攻め落とし、その名を「牧野原城」に改めた。この台地がある牧之原はいまでは全国有数の茶の産地として知られる。

▲諏訪原城跡の丸馬出し。

いちめんの茶畑のその上を着陸態勢に入った航空機が飛んで行った。「富士山静岡空港」である。富士山ブランドで国内はもとより中国大陸や韓国へも定期路線が就航している。9月の終わりまでは人の移動が制限され空港内はまばらで閑散としていた。売店や食べ物屋、案内スタッフも手持ち無沙汰の様子。やがては活気が戻ることを念じながら、いまを何とかやり過ごす踏ん張りどころだ。

▲富士山静岡空港は広大な丘陵地帯にあるが人影もまばら。

空港から旧国道1号線、そして静清バイパスを「清水港」へ。途中、丸子インターを通り過ぎた。この近くには同級生が嫁いだ料亭があって、推しも押されぬ女将として腕を奮っているという。見事な庭園が人気で、そこで四季折々の表情を愛でることができる。しかしながらこの一年あまり個人客はあるものの数十人が入れるお座敷は厳しい状態だと、7月のオンラインでは言っていた。

「駿河湾フェリー」の発着場はワクチン接種会場になっており警備が厳しかったが、「中部横断道の開通で山梨から取材に来ました」というと割りとすんなり通してくれた。フェリーは出たばかりで(どこまで行くのだろう)、職員も閉門を始めていた。わたしの姿を見るなり「早くしてよね!」と言わんばかりに急き立てるのだ。「(清水)東高のOB で大榎(おおえのき)と同じクラスだった」とでも言えばよかったかも知れない・・・。

中部横断道の開通により、海なし、空港なしの山梨県は念願の両者(港と空港)を活用できるメドがついたという。富士山観光や果樹の販路拡大、化粧品工場の稼働など、地元のシンクタンクはその経済効果を年間135億円と皮算用をはじく。是非とも実現させてほしいと思うが、今様「魚尻線(うおじりせん)」として新鮮な県産果樹や勝沼ワインなどが静岡からアジアへそして世界に少しでも広まっていければ良いと願ってもいる。

そして、ちょっと足を伸ばして古民家の人気スポット「葛城北丸(かつらぎきたのまる)」(袋井市)でゆっくり食事することも視野に入れたいところだ。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲井伊家の菩提寺「龍潭寺(りょうたんじ)」は浜松市北区引佐町にあるが、この写真は滋賀県彦根市の「龍潭寺」。

秋田◆仙北市/鱒の棲むところ ~ 田沢湖 ~【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年11月14日

今回は鱒(ます)の話である。

リチャード・ブローティガンの『アメリカの鱒釣り』(藤本和子訳)を初めて読んだのは、いまから40年ほども前の大学3年生の頃だったと思う。1984年に49歳で亡くなったこのアメリカ人作家はカウンターカルチャーやヒッピー文化のある種象徴として、60年代の終わりに爆発的ともいえるほど当時の若者に信奉されてきたが、その後70年代に入るとともに熱も冷めほとんど見向きもされなくなったという。

しかしながら、彼は何も同時代的なコミューン活動を描いたのではなく、60年代初期の詩人として心に浮かんだ心象風景(現実と幻想)を言葉にしていたのだ。なにせ一つの文章の中に二つも三つも比喩的表現が使われている。実直な読者を混乱させるのに十分な小説なのである。

▲『アメリカの鱒釣り』(1975年、初版は晶文社刊)と『西瓜糖の日々』※リンク先はamazon

わたしはといえば、特定な時代背景を意識して読まなかったおかげなのか、失われた鱒たちの哄笑(こうしょう)にも似た彼の文体に魅了され、表紙の写真のごとくサンフランシスコのワシントン広場にある銅像の前に立ちたいと、その当時思ったことを記憶している。

失われた鱒といえば、秋田県仙北市(せんぼくし)の田沢湖にしか棲息しないといわれ、湖の酸性化により絶滅したと考えられていた「クニマス」が、山梨県の富士五湖のひとつである西湖で、2010年に「再発見」されたというニュースが驚きをもって伝えられた。京都大学研究チームの中坊(なかぼう)教授が確認して、その後環境省のレッドリストでは「絶滅」から「野生絶滅」に指定変更をされたのだった。本家亡きあと、分家が興隆したかのようだ。田沢湖をふるさととするクニマスの卵が西湖に持ち込まれたのは戦前の1935年だという。

▲クニマス展示館(山梨県富士河口湖町)

▲水槽の中を泳ぐクニマスたち(山梨県富士河口湖町)

では西湖ではどうして絶滅しなかったのか。

水温4度前後で、2月3月の産卵期には水深30~40メートルあたりに着床しており、天敵の肉食魚も居なかったなど田沢湖と西湖は棲息環境が似ていたことが大きかったようである。いわゆる水が合ったのだ。

私が幼い頃から慣れ親しんできた浜名湖の水深(平均4.8メートル)など気にすることはこれまで一度もなかった。まして114キロに及ぶ周囲を一周することなど及びもつかない考えであった。

▲クニマス展示館のパネル。

▲夏の浜名湖は太陽の圧倒的な支配下に置かれる(東名高速道路浜名湖SA)。

ところがどうだ。前泊の盛岡から秋田内陸鉄道の主要駅阿仁合(あにあい)駅に行くと決まったときに、まずもってわたしの興味を引いたのは水深日本一の田沢湖(423メートル)であった。以前北海道の阿寒湖を舞台にした映画を観たのだが、わたしにとって森の中の湖というのは「神秘」であり「静寂」であった。そこでは弁証法的に「思索」の時間をもたらすものであったのだが、残念ながらそうした体験は浜名湖では好意的に言ってもまず、難しい(すみません)。

盛岡市の石川啄木の生家を過ぎ、国道46号線に入る。秋田新幹線と雫石川に並行して走る国道だ。ちなみに47号線は宮城県と山形県を結ぶあの鳴子峡を通る「奥のほそ道」国道。雫石川の作り出した肥沃な田園を、奥羽山脈に向かって今回もひたすら西へ。寄るべき「道の駅」もなく新幹線と交差して雫石町に着く。ここは1891年(明治24年)開設の「小岩井農場」があることでも有名。わたしはまだ行ったことがないが、設立に尽力された三人のお名前(小野、岩崎、井上)を取って名付けられた広大な農場だという。ちょうど東京の紀尾井町みたいなものか。

仙北市からは国道341号線に枝分かれして北上する。まっすぐ行けば小京都として名高い桜の名所「角館(かくのだて)だ。周囲を森に覆われた田沢湖は火山噴火によるカルデラ湖の一種だともいわれ穏やかな湖面をたたえる。周囲20キロほどの円形で湖畔にはキャンプ場も点在している。

わたしはゆっくりと湖を一周することができた。朝の清澄な空気を吸って、さあここから山越えである。目指すは鮎釣りのメッカ・阿仁合川だ。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

▲金色のたつこ像は秋の小雨の中で輝いていた。(秋田県仙北市田沢湖畔)

山梨◆甲府市/まぐろと甲州人の密なる関係【来てくれんけ甲斐路!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年10月27日

▲県立博物館。今年は信玄公生誕500年にあたり、平山優先生の記念講演会もあった。(わたしは抽選でハズレました)

「博物館」は地域の歴史とそこに暮らした人々のかけがえのない「遺産」である。

身近なところでも、北杜市の「郷土資料館」や隣町にある長野県富士見町の「井戸尻考古館」などはスタッフの腰を据えた取り組みが良く知られてもいるが、わたし的には「和算」の資料がものすごい岩手県一関市と「宿場町の変遷」を克明に伝える静岡県富士市の博物館が印象深い。

以前、「山梨県立博物館」で耳慣れぬ言葉を聞いたことがあった。魚にまつわる話だ。

山梨県人はいまも老若男女を問わずまぐろの赤身が本当に大好きなようだ。寿司屋に「赤身」、蕎麦屋に「鳥モツ」、である。かつて、駿河湾で捕れた新鮮な魚介類を内陸部まで運んでいた時代。生の魚を腐らずに移動できるそのギリギリのラインが「甲府」だというのである。このラインを「魚尻線(うおじりせん)」と呼ぶ。それはわたしが初めて聞いた言葉だった。

▲厳美渓に行く途中にある一関市立博物館。(岩手県一関市)

そのころの「江戸前寿司」はいまよりずっと大きかったという。そのネタである魚介類を酢漬けや塩漬けにすることもなく食することができたのだ。内陸部に生きる甲州人は逆説的に生のまぐろを食べることに徹底的にこだわってきたのである。そこには命をかけた決死の努力が見て取れる。いま、回転寿司も含めて寿司屋が静かに盛り上がっているのはこうした背景があるからかもしれない。個人的には甲府の「かんぴょう巻き」はとても美味だと思いますが。

また、県立博物館には近海で捕れたと思われる「サメの骨の標本」もあった。なんと「サメの解体ショー」が甲州商人や街道往来の旅人の面前で演じられていたらしいのだ。「勝沼の白ワイン」は和食に合うといわれるが、生魚を食べる文化が生んだといわれれば合点がいく。山梨県人恐るべし、である。

▲往時をしのぶ街道筋。(笛吹市八代町)

さて、駿河湾で捕れた魚介類はどのようなルートで魚尻線の「甲府」まで運ばれてきたのか。いま明らかになっているのが次の三つのルートである。

その1)沼津~御殿場~河口湖~芦川ルート
駿河湾の北東に位置する「沼津港」からは、富士山の東側を進む。御殿場を抜け富士五湖の東側を通り、鳥坂峠の難所を行き甲府盆地に入る。「新東名」と結ばれた現在の「東富士五湖道路」と「若彦トンネル」を行く。「鎌倉街道ルート」だ。

その2)吉原~富士宮~精進湖(しょうじこ)~左右口ルート
駿河湾の北に位置する「吉原」からは、富士山の西側を進む。大迫力の富士山を正面に浅間大社(せんげんたいしゃ)から北上し富士五湖の本栖湖、精進湖を通過し、左右口(うばぐち)へ下る。家康公が入甲した際にも使われていた。「中道往還ルート」だ。

その3)駿府~清水~南部~身延~鰍沢(かじかざわ)ルート
駿河湾の西に位置する「府内」からは、富士川を進む。急峻な山あいのわずかな河岸段丘のへりを通り、直線方向に北上する。和紙、硯、印房(いんぼう)、楮(こうぞ)、温泉など地場産業の盛んな地域で舟運も栄えた。これが「駿州往還ルート」だ。

▲道の駅「なんぶ」には人気の三色まぐろ丼のほか南部茶の試飲コーナーもある。

これらのルートからは生モノを傷ませない工夫が見てとれる。富士山の東西の両ルートは険しい山道なのだ。標高的には800~1000メートル近い。少しでも涼しい気象条件を選んで運ばれるが、そこは峠道である。特に夜間は人通リがあるわけでもなく夜警団を組んでの行脚にはリスクが潜む。夜道の明かりも少なく盗賊や追いはぎそして身の危険があったことは容易に推察される。命を賭したルートだったのだ。

この8月29日午後4時。「中部横断自動車道」の最後の13キロ余りが開通し、これで同南部区間が全線開通した。これまでより20 分ほど短縮され、静岡と甲府が90 分ほどで結ばれたのだ。それは富士川沿いの「駿州往還ルート」だった。

わたしはその日東海道・金谷宿と茶畑の台地にできた空港に出かけていた(11月号でそのことを書きます)

夕方清水インターから北上するわたしが見たものは・・・東名高速道路方面へ向かう引きも切らない車列であった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲現在の清水港。駿河湾フェリーの発着所はワクチン接種会場となっていた。

宮城◆大崎市~加美町・その2/おくのほそ道「尿前の関」とバッハホール【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年10月15日

▲偶然にいざなわれる、ここがあの「おくのほそ道」。

鳴子峡(なるこきょう)は「出羽仙台街道」の宮城県境にある。その名のとおり伊達藩(宮城)と出羽藩(山形)を結ぶ交通の要衝地だ。

当然戦国時代より警備は厳しく、街道の難所であるここ「鳴子峡」には伊達藩により関所が設けられていた。「尿前(しとまえ)の関」である。

偶然、「鳴子峡」からの戻り道、国道沿いに看板を見かけ、ここが「おくのほそ道の尿前か!」とわたしは初めて知ることができたのだった。

▲国道47号線沿いの看板。この看板に気づかなければ、この新しい出会いを得ることができなかった。

渓谷のスケールでは八ヶ岳をしのぐほどだ。江戸時代、芭蕉のこの東北行脚の中では難所中の難所、あの筆マメかつ健脚で鳴らす同行者・曾良(そら)ですら、この先、中山越えについては疲弊しきりで一言も書いてはいないといわれるほどの場所。それがここ「尿前」なのだ。

わたしはもう一度、国道47号線から108号線に入り、ナビで指し示す関所跡地へと車を走らせた。ガードをくぐり民家の建ち並んだ入り口の空き地に車を停めた。なにかしらその先は徒歩で行くべき気がしたからだ。

車を降りてあたりと見渡すと動物が2頭こちらを向いているではないか。一瞬身構えたがヤギが鎖に繋がれていたのだった。

▲ヤギと出くわす。いつの時代でも人間と寄り添う家畜たちは、つぶらな瞳で私に何かを伝えようとしている。

石畳で整備された道を山の方へと上がっていく。突然今度は家の軒下で休んでいるふたりの旅人がいた。恐る恐る「あのー、関所跡はこちらで良いのでしょうか?」と尋ねてみたが返事は無し。視力は中学生のころから悪くなる一方で、わたしはそこに座る人形に聞いていたのだった。

よくよく目を凝らしてみれば、その装束から芭蕉と曾良、である。誰がなぜそこに作って置いたかは不明だが、ここを同行二人が通行したのは間違いなさそうだ。

▲時空を超えて、私は芭蕉と曾良の魂に語りかけていたのではないだろうか、とすら思えてならない。

さらに隣の家には道路工事人の人形もあるではないか。こちらは現代風。おそらくはこの石畳は俺がこしらえたのだとでも言わんばかりに意気軒高だ。

そこから100メートルばかり上っていくと平坦な場所に出た。道はこの先も細く細く森の奥へと続いて行く。ここからは「中山越え」といわれる。

わたしはもはやこの先を断念し、視界の開けた平坦な場所を歩いてみた。碑文と芭蕉の像。関所が建っていた場所を思わせるような石積みが6段ほどあるのだ。

▲荘厳な山の中に、人々を隔絶する関所跡が今もここに。

330年以上経つが、その石積みには威厳があり今もって威圧感すら漂わせている。ここで芭蕉たちは関所のきつい取り調べに遭い、蚤やシラミの攻撃や馬の糞尿で夜も寝られず、ついにはこの先のハードな峡谷を越えて行くことになったのだ。

芭蕉たちがこの「尿前の関」にたどり着いたのは、元禄2年(1689年)の旧暦5月15日(新暦は7月1日)といわれる。この時代は富裕な町人の出現により、光琳や西鶴、近松などのいわゆる元禄文化が花開いたころでもあり、同15年には赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあったことでも知られる。

しかしその翌年、元禄地震といわれる巨大地震があり元号も「宝永」に改められている。一世を風靡した絢爛豪華な文化と生命を脅かす自然災害。そこに生きる人々の暮らし。われわれはこうした先人たちに学ぶべきことが多い。 俳人の長谷川櫂氏は、『おくのほそ道』を前半と後半、そして全体で4つの章に分類している。

「白河の関」までと「歌枕」を訪ねる前半、そして難行苦行したこの「尿前の関」以降の後半。「山寺の蝉」から「天の川」へ、そして市振(いちぶり)の遊女や曾良との別れ。150日といわれる長い旅の行程において、この後半こそ、旅を人生とする芭蕉の深遠な息づかいが聞こえる真骨頂なのだ。それを「かるみ」と表現する(『「奥の細道」をよむ』より)。

▲バッハホールのパイプオルガン。ひと度演奏が始まれば、神聖な音色が私の魂を貫くのだろう。

仙台に戻る途中、わたしは加美町(かみまち)中新田(なかにいだ)にあるという「バッハホール」をぜひ見たいと思った。ホールはワクチン接種会場としても使われているという。

ご多忙のスタッフに案内していただき、わたしは生まれて初めて、誰もいないホールの中央に据えられている圧倒的なパイプオルガンを見せていただいた。次回はぜひともこの音を生演奏で聴きたいと強く思わせるものであった。

「芭蕉の旋律」と「バッハホールのパイプオルガン」。今回はこのダブルキャストに恵まれた取材となったのだった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)