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山梨◆八ヶ岳/春和の候、3月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年3月1日

▲月明かりに照らされ、ぼんやりと浮き上がる八ヶ岳。

北杜市の夜は暗い。外灯があるのは、ほんの一部のエリアだけで、その他は真っ暗な闇に包まれます。ライトの光無しでは10m 先まで歩くのも難しい状況です。

都会の明るい夜に慣れた人には、歩きは勿論、車の運転も怖いと思うようです。そんな北杜市ですが、外灯も無い場所で、自分の影がはっきりと地面へ映る時があります。影を作りだすのは天空から降り注ぐ月明かり、満月の頃。暗闇の中で見る月は、とても明るく、力強ささえ感じます。

電灯が広まる前の時代には、この月を頼りに、村の若者たちは夜遊びをしたという文章を読んだことがあります。今とは生活に与える月の重みは大きく違ったのでしょうね。

さて石川賢治氏の「月光浴」という写真集をご存知でしょうか。満月の月明かりの下、屋久島、タヒチ、チベット、アフリカ等の世界の自然を撮影した連作の写真集です。月光の下で写し出される、木々や花、川、野生の動物。日中の力強さとは一転して、柔らかく、神秘的で、現実のような幻のような、見るだけで自然と心が落ち着いてきます。

▲闇夜の中で輝く、月の明かり。

そんな「月光浴」の景色を北杜市では身近に感じられる時があります。冬のこの時期は、月光の下、雪化粧をした山々が朧げに闇夜から浮かび上がる様を見ることが出来ます。北杜市の夜と言えば、満天の星空というイメージが強いですが、星が見えない満月の夜も良いものです。

お客様からのご質問で北杜市の積雪状況について聞かれることが良くあります。まずお伝えをするのは、雪国では無いということ。但し、全く雪が降らないわけでは無く、例年、3回程はくるぶし位までの積雪があります。注意点としては、主要な道路は行政の除雪車が入りますが、自宅前の道までは除雪がされない事が多いことです。

日当たりが良ければ直ぐに雪が解けるのですが、日陰の場合は雪が残りがちです。4輪駆動のSUV 車であれば雪かき無しで過ごせるかもしれませんが、年に数回は雪かきが発生すると思っていただくと良いでしょう。なお、積雪が無い場合でも、路面が凍ることがあるため、冬季はスノータイヤの装着が必須となります。

▲北杜市、冬のある日。標高により景色が大きく異なります。(標高1100m、甲斐大泉駅付近)

▲同日、標高760m、八ヶ岳事務所前付近のもの。

同じ市内でも、標高により降雪に大きな差が出ます。上の2枚の写真は今年の1月24日、関東でも降雪があった時の、北杜市2カ所の地点を写したものです。上は標高1100m 付近、大泉町の甲斐大泉駅の近く。下は高根町の標高760m 付近、ふるさと情報館・八ヶ岳事務所の前を写したものです。車で10分足らずの距離ですが、その景色は全く違っています。

雨だったものが、標高が上がるにつれ雪に変わる。標高1000m を越えると、積雪までは至らないが、雪がチラつくというシーンがグッと増えるように感じます。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

山梨◆甲府市/御書印帖と印伝栞 ~ その一 ~【いくぞ!甲州・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年2月19日

▲御書印帖(表紙)。

昨年三月一日より始まった「御書印プロジェクト」。それぞれの地域に根付く書店が参加しているのが特徴だ。その数は全国で二百二十五店(二〇二〇年十二月一四日現在)あるという。北海道の利尻島から沖縄県の浦添市まで全四十七都道府県にまたがり、参加書店は列島を縦断しているのだ。

たとえば、わたしが以前慣れ親しんだこともあった静岡県浜松市にある明治五年(一八七二)創業の谷島屋本店・連尺(れんじゃく)店も含まれている。「御書印帖」を入手するにはお目当ての書店に足を運んでいただき、発行手数料の二百円(税込)を払うこと。各店で発行している曜日や時間帯が異なるためHP 等で事前に確認することが必要かも知れない。

また、東京・荒川区の渡邉製本が装丁した特装版の「御書印帖」は二千円(消費税別途)。表紙は箔押しが目立つようにと「はいみどり色」のクロス仕様。サイドにベージュの細いゴムバンドを掛けている。見返しは「にぶ桃色」で春にふさわしく華やかな色合いが特徴だ。

▲特装版の御書印帖。

印刷会社に勤める学生時代の同級生によれば、和紙を使った伝統的な和を表す色がいま人気を集めているのだという。ざわめく世相のなかで何かしら心を落ち着かせるのかも知れない。 

山梨においてこの「御書印帖」を発行しているのは、甲府市貢川(くがわ)にある朗月堂(ろうげつどう)書店。甲府駅からも中央道甲府昭和インターからも車で数分のところ。建物は三棟あり参考書・漫画のA館、生活趣味のB館、新刊・専門書のC館に分かれている。創業は明治三十五年(一九〇二)というから、今年で百十九年になる山梨県内の老舗中の老舗店。北杜市白州町在住の冒険作家・樋口明雄さんの新刊もいち早く紹介している。しかもサイン入りで。

個人的には、戦後の昭和二十三年創業で真空管アンプの視聴会や無線講習会を運営してきた甲府市伊勢の丹沢(社名は丹澤)電機とともに気に入っている店だ。いま密にならずに静かに時間を過ごせる場所としては、わたし的にはこの両店はかなりおすすめだ。

さて、この「御書印帖」だが表紙を繰った一ページ目に朱のスタンプとともにご当地作家のひと言が添えられている。これがなかなか味わい深い。朗月堂書店では林真理子さん、ではなくわたしの好きな辻村深月さんの、『かがみの孤城』からの一節。こんな文章だ。

「~その鏡が日差しに照らされ、虹色に少し、輝いた。~」孤独な若者たちを虹のように結んでいく鏡の中の世界。書店員にとっても思い入れのある作家であり作品であるのだろう。毛書体の直筆文字で書かれている。辻村さんも書くスピードがものすごく早そうな作家ですね。

ちなみに岩手県盛岡市にある東山堂(とうさんどう)の御書印帖は石川啄木、ではなく宮沢賢治。「~永久の未完成 これ完成である。~」これは賢治が芸術について語った「農民芸術概論綱要」の中の一節だといいます。なお、「御書印店を訪れるにあたり、各地域の状況をふまえて慎重に行動してください。」と御書印プロジェクトのHP でも注意喚起をしているように、いまだ感染拡大を続ける新型ウイルス禍の状況においては、慎重に行動することを心がけていきたいとわたし自身これからも肝に銘じている所存。

では、もしこれから移動することがもう少し容易になれたならば行ってみたい書店はどこか? そしてその作家のひとことは?

わたしにとっては、京都であり、島根であり、愛媛であり、熊本であると思う。山梨県内では実は昨年十一月の終わりまで、もうひとつ県内書店の連携イベントがあった。それは「印伝栞」。書店をめぐる冒険譚は来月号でも引き続き書きますので、ぜひご覧になってみてください。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲朗月堂書店(甲府市貢川本町13-6、電話055-228-7356)

山梨◆明野町/空気が澄み渡り静か ~ 冬の北杜 ~【八ヶ岳スタッフ・暮らしの歳時記】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年2月7日

強い北風が吹き始めると、「いよいよ北杜も冬到来か…」と感じます。「八ヶ岳おろし」と呼ばれる強い北風は、冬の風物詩です。私が住む明野は特に風が強い所で、昔は風で窓ガラスが割れたとの噂を聞くほど。さすがにガラスは割れませんが、地中に埋められた物干し台が2度ほど倒れ驚きました。昼間は暖かな日も多いのですが、この風が吹くと体感気温がさらにマイナスとなり、初めての冬はかなりの重装備で外出してました。

しかし3年位経過した頃には寒さに体が慣れ、行きかう方と違和感のない服装になっている事に成長を感じました。風の影響を受けやすいのは、明るく開けた立地だから(南アルプスや八ヶ岳がきれいに望める)と言われます。林の中や、北側に小高い山があると防風の役割を担ってくれるそうです。

寒さが苦手な方は、標高と共に立地も意識されると良いかもしれません。とはいえ、冬の北杜は空気が澄み渡り静かで本当に綺麗。十二年暮らしていても見飽きない景色に、寒さを忘れ励まされる日々です。(八ヶ岳事務所 原 きみえ)

秋田◆大潟村/日本一低い大潟富士とジオパーク【いくぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年2月4日

▲寒風山から見た八郎潟方面。

右の親指を日本海に突き出したような男鹿半島。その付け根に位置する大潟村(おおがたむら)。周りを水路に囲まれそこだけ独立した島状の村である。

村の紹介記事によれば、周囲が少しだけ盛り上がった楕円型のお皿のようだと書かれている。村の幹線道路は直線で9.5kmもあり、その高低差はなんとわずか4mしかない。ふだん山の斜面に住んでいるわたしなどからしたら、永遠に続くとも思えるような、その先端がまったく見えてこない道路なのだ。往復するだけでハーフマラソンの距離にも匹敵しようかというのだから、気持ちの良いぐらい平らで真っ直ぐ。それがここ「大潟村」なのである。

「八郎潟(はちろうがた)」は湖水面積が22,000ヘクタールで琵琶湖に次ぐ広い湖のわりに、水深はわずか4.7メートルと浅い汽水湖だった。二千年前の地層からはヤマトシジミの化石が数多く発見されている。この八郎潟は1957年(昭和32年)から1966年(昭和41年)の間、国営の干拓が行われてきた。土地は農地(田、畑、牧草地)、水路、防風林、公衆用道路そして移住者のための宅地等に分けられた。食糧増産や地域の治水対策や防風対策、そして入植という定住者の受け入れ等地域活性化のために、高度成長期の日本が東北の一地域に巨額を投じた大事業であったのだ。

大潟村の歴史は1964年(同39年)から始まり、今年で村政57年の「新しい村」である。面積は170k㎡。いまは3,000人ほどが住む。こうした村の成り立ちによって土砂災害(特別)警戒区域の指定はないという(秋田地域振興局建設部)。もちろんそれで防災意識が減じられるわけではないけれども。入植は1967年(同42年)からで最終的には589名にのぼる移住者を村では受け入れてきた。新天地を求めて全国から600人近くの先人がこの村に移り住み暮らし始めたのだ。

▲入植者の区画。

その移住者の住まいを見る機会があった。それぞれの区画はかなり広いようだ。建物は軽トラや農機具の倉庫が住まいと一体となった現代風の曲がり家とでもいえるような住宅で、庭はすこぶる丁寧に維持されていた。要するにいまも移住者は健在でこの地にしっかりと根を降ろされている方々が多いのだ。

しかしこの村にも課題が多いようにも思える。休耕田が広がり高齢化率もある時期を境に急激に増加している。住民の足となる公共交通機関も脆弱だ。だから国家プロジェットはとは言いたくはないが、制度が劣化し始めたときには、予算をこれまでのようにかけられる体力はそう多くはない。それはこの村に限ったことでもないが。

しかしながら、とわたしは思う。休耕田には数多くの野鳥が飛来し、北帰行のときには空一面が渡り鳥で覆われる圧巻の景色が見られるという。山頂が海抜0mでその高さが3.776mの日本一低いといわれるユニークな「大潟富士」は、盛り土のモニュメントだが、なんなく登頂すればその頂(いただき)からはこの村の干拓地のあまりの広さをその目で実感することとなる。

▲「絶景の」大潟富士。

さらには「地下資源王国・秋田」の真骨頂である地層の特徴が見られるのが「男鹿半島・大潟ジオパーク」だ。日本海の拡大と収縮、気候変動における一連の環境変化を知る上でここはきわめて重要な場所だという(『フォッサマグナ』藤岡換太郎著、講談社ブルーバックス、2018年)。

また、肥沃な土壌から採れた廉価な野菜が数多く並ぶ「道の駅おおがた」は近隣だけでなく遠方から買いに来るほど固定客も多い店だ。売上高は半端ない。さらにはあの直線道路にはソメイヨシノと菜の花が植えられており、毎年ゴールデンウイーク前後には見ごろを迎える。県内では角館(かくのだて)のシダレ、横手の真人(まと)公園と並んで名所のひとつといわれる。

▲道の駅(手前)と干拓博物館(奥)。

道の駅・おおがた

また、わたしの関心事である「移住定住策」では次のような取り組みも。農業体験や村内見学、農家との触れ合いを通じて交流人口を増やし定住促進につなげていこうという戦略だ(「大潟村コミュニティ創生戦略 大潟村人口ビジョン」平成28年策定)。空き家バンク登録物件は昨年一件のみで、これからが正念場。掛け声だけではなく実際の物件が求められてきているのだ。この村の村民の英知を発揮していただきたいと思う。(八ヶ岳事務所 中村健二)

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〈移住相談窓口〉
大潟村役場総務企画課
〒010 -0494 秋田県南秋田郡大潟村字中央1番地1
電 話:0185 -45 -2111
FAX:0185 -45-2162
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山梨◆八ヶ岳/余寒の候、2月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年2月1日

▲南アルプスに黒い雲が覆いかぶさる。山頂は猛吹雪か。

八ヶ岳南麓では寒い日が続いています。年間を通して2月が寒さのピークとなります。2020年においては、北杜市大泉の気象観測所(標高867m)において、2月6日にマイナス10.6度、翌日の2月7日にマイナス11℃の最低気温を記録しております。この2日間が1年で最も寒い日となりました。

ここまで気温が下がる日はそんないに多くはないですが、それでも毎日の最低気温は氷点下を下まわる日が続きます。最低気温の話をすると、北杜市の冬はこんなに寒いのかと驚く方が多いのですが、実際に生活をしていると、そこまで深刻に感じません。一日の中で、一番寒い時間帯が朝方、多くの人が布団の中にいる時間であること。日中は晴れの日が多く、窓辺にいると太陽の暖かさを感じられます。

▲北杜市の大泉観測所の記録。気象庁ホームページより

上の図は、昨年2月のある一日の気温の変化を見たものですが、日の出の直後からみるみる気温が上がる様子が分かります。また、徒歩で出かける事が少なく、移動はもっぱら暖房の効いた車であることも都会との違いです。都内に住んでいた時は、電車の待ち時間のホームがやたら寒く感じたものです。北杜市では外にいる時間が少ないので、分厚いダウンジャケットもタンスの奥に仕舞われています。最低気温を気にする事も大切ですが、どんな生活スタイルで冬を過ごすかで北杜市の冬は寒くも暖かくもなりそうです。

▲雪化粧をした八ヶ岳の赤岳に朝日がさす。(北杜市大泉町)

北杜市では、冬の時期に多くの人がバードウォッチングを楽しんでいます。この寒い時には森の中に足を踏み入れ野鳥を探すのではなく、自宅のお庭に野鳥を招き入れるのが「八ヶ岳流」です。ホームセンターにはこの時期、野鳥用の餌や、餌台(バードフィーダー)が店頭に並びます。餌台は使用済みのペットボトルで気軽に作ることもできますが、お洒落な凝ったデザインのものも捨てがたい。リビングの窓から見えるお庭の一角に餌台を置けば、暖かい部屋の中から鳥を観察することが出来ます。

▲お庭にて。君の名は、ヤマガラ?

我が家でも昨シーズンから庭に置くようになりました。自分から外に出かけなくとも、様々な鳥たちが、代わる代わると庭を訪れてくれ、可愛らしく、時には賑やかに庭を飛び交う様は見ていて飽きません。鳥の種類によって餌の好みが別れるようです。みかんは「ヒヨドリ」や「メジロ」、ひまわりの種は「シジュウカラ」や「カワラヒワ」が好むそうです。

私は「野鳥のまき餌」という既製品を買って済ませています。ただ、どの鳥を庭に招き入れたいか、その為にどの餌を用意しようか、餌台の形状はどうしようかと考えるのも楽しそうです。鳥の生態に興味を持つことで、今は漫然と見ている鳥の名前も覚えられるのでは。冬の楽しみが、また一つ増えそうですね。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

▲北杜市のホームセンター。野鳥グッズが所狭し。

秋田◆男鹿市/横縞ジャージと角のない使者【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年1月28日

▲青々としたラグビーグラウンドへ。

常勝早稲田に対し小柄なウイング吉田義人選手(よしだよしひと)率いる明治フィフティーン。鍛え抜かれた両チームの選手たちが国立のフィールドを駆け回る。

一九九〇年前後は、わが国大学ラグビー界にあって黄金期ともいえる時代だった。ユーミンの歌とともにその大学ラグビー界を早稲田と明治が牽引していた。まさにその年に行われた関東大学ラグビー対抗戦の最終戦早稲田対明治の試合はチケットを持たないファンが国立競技場を取り囲むという騒ぎとなり、試合前から両チームに対し熱い視線が注がれていた。

結果は引き分け。ノーサイドの笛がフィールドに鳴り響くと一種異様な叫びが地響きのごとく沸き起こったことを記憶している。早稲田と引き分けた明治は翌年一月に行われた大学選手権で優勝し八回目となる大学日本一の座についたのだった。

東北地方では、ラグビーといえば「北の鉄人」で知られる岩手県釜石市のラグビーチームが有名だが、男たちのぶつかり合いに象徴される当時の現業を地域で支えてきた工業高校の存在も忘れてはならないだろう。黒沢尻工業、盛岡工業、そして秋田工業。男鹿東中学より進学し秋田工業で一年生からレギュラーだった吉田選手は、そこで全国制覇も達成した。明治の名将・北島監督は新入生時代から彼の抜きん出た素質を見抜いていたという。

▲「質実剛健」を校訓とする秋田工業高等学校。

この冬、大正時代から連綿と続く「秋工」の横縞のジャージが高校ラグビーの全国大会・花園行きを決めた。ちなみに当社秋田駐在の片山の奥様はこの高校の隣が実家だった。また、高校サッカーではみちのく岩手事務所の所長・佐々木の母校である遠野高校が全国大会の切符を手にした。(わたしも両校の活躍を両県の皆様とともに応援しています)

男鹿市(おがし)には有名な道の駅「オガーレ」がある。毎日新鮮な日本海の魚介類が入荷され、その場でさばいてもくれる。わたしは「しょっつる」をお土産に買った。

そこから山道を一時間ほどいくと「なまはげ」の発祥地ともいわれる真山(しんざん)神社に着く。山自体が御神体だといわれるスケールの大きな神社で、静謐(せいひつ)な境内には平日にもかかわらず、御朱印をいただきにきた人もチラホラ見受けられる。実はこの地区のなまはげには角(つの)がない。

大みそかの夜に一軒一軒を訪ねる彼らこそこの地区の守り神の使者だからだ。家の中に隠れた子供たちを探し出して荒々しく説教し、今年の厄払いと来るべき年も家族の無病息災を祈念する。どこの家でも丁重なおもてなしを受けて、凍りつくような夜道を彼らは帰っていくのだ。 (北東北担当 中村健二)

▲なまはげと家のあるじとの問答(「なまはげ館」にて)

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男鹿市への移住について
1 市の窓口:企画政策課移住定住促進班
電話0185-24-9122
2 オンライン移住相談(月曜から金曜日、10:00~17:00)
希望日の3日前までに申込。
3 移住支援補助金制度あり。
4 空き家バンクは売買物件の登録が多い(HP)
※直接登録業者へ問い合わせる仕組み。

http://www.city.oga.akita.jp/index.cfm/13,0,87,html

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山梨◆山中湖村/三島の湖の見せる文体【いくぞ!甲州・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年1月19日

▲三島文学館入口(山中湖村)。

佐藤秀明館長はその朝、地元紙に書いていた。

山中湖の三島文学館の展示室で、遺作となった『豊饒の海」の原稿を見ていると(中略)原稿用紙に力を入れて万年筆で彫ったような文字が連なっている

「山梨日日新聞」(二〇二〇年十一月二十五日)

同館長三代目となる佐藤秀明さんは、わたしが入学した大学を翌年卒業されている方でもある。万年筆で彫るとはどういうことか。わたしは三島由紀夫の自筆原稿を見てみたいと、そのとき強く思ったのだった。

山梨県では甲府盆地に周囲の山を越えずに接する地域を「国中(くになか)」、甲府盆地から山を越えていく地域を「郡内(ぐんない)」と呼ぶ。山越えの山中湖は郡内地域にあたっている。八ヶ岳南麓の北杜市からは富士北麓の山中湖村へ行くにはいくつかのルートがある。行程は約80キロあまりだ。

わたしはふと、「若彦(わかひこ)トンネル」を通ってみたいと思った。

国道20号線を小瀬(こせ)の先「蓬沢(よもぎさわ)交差点」で右折すると景色が一変する。集落を過ぎて御坂山系へと向かう県道は、いつのまにか畑の真ん中を走っている。

周囲にはぶどう棚と観光農園が現れてきた。その先は一面もも畑だ。「更埴のあんず、高遠のさくら、八代のもも」と呼ばれ、毎年三月中旬のほぼ同じ時期に見ごろとなる。

山梨長野両県をまたぐ大きな三角形をなすこのあたり一帯は、春の百花繚乱の場所として名高い。ゴルフ場を左に見ていくつかのヘアピンカーブを上り切ると、峠の鳥坂トンネルだ。トンネルを出るとそこは旧芦川村(あしがわむら)。五百人ほどが暮らし、地域おこしの里としても知られる。

▲日当たりの良い段々畑に石積みが続く(旧芦川村)。

段々畑の石垣造りは芦川ならではの景観といえる。目指す若彦トンネルはもうすぐ。この県道はかつて甲斐国と駿河国を結ぶ古道「若彦路」であったため、この名がつけられたという。いまは「国中」と「郡内」を結ぶ主要道路である。

若彦トンネル

標高が千メートルを超え、甲府盆地とは気温が五、六度下がったように感じた。長さ二千六百メートルの若彦トンネルを出ると一気に下り坂になる。そこはもう富士山のお膝元富士河口湖町だ。

この町に住もうとお考えの方には、湖も山も見えないこのあたりの高台をわたしならお勧めする。河口湖から忍野八海(おしのはっかい)を過ぎると目的地の山中湖村に入る。小学四年生の夏休み、父親に連れられて御殿場を経由してこの湖に来たときのことだ。湖畔には数多くの欧米人が水着姿で日光浴をしていた。日焼けした背中と腹、そしてサングラス。片手に持った缶。いまもなぜかそのことを鮮明に覚えている。日本人と思しき姿はそこにはなかった。

▲いまも山中湖にはレジャーボートが係留されている。

目指す文学館は、林を切り開いた閑静な場所にひっそりとたたずんでいた。三島は生きていれば九十五歳になる。入口で検温と連絡先を記入し展示室へ。

観てまわったものの、『豊饒の海』の直筆はなかった。

そのかわり、わたしが十代のころ慣れ親しんだこともあった『美しい星』の原稿がうず高く机上にあった。ブルーブラックの万年筆で二十字×二十行のマス目いっぱいに書かれた文字。もうみごととしか言いようのない端正な文字だ。

丁寧にゆったりと書かれている。それはあたかも演劇的な、見せて見られるような文体だ。

たとえば「行つてしまつた」と書くときの「つ」。雑誌編集者にもどうだと言わんばかりの筆圧を三島は見せつけている。いっぽう彼は昭和三十四(一九五九)年ごろからボディビルを始め肉体の改造をしていたという。鍛え上げられた肉体を惜しげもなくさらけ出し、カメラの前でポーズを取る。どうだと言わんばかりのその筋肉。見せて見られる肉体だ。

なるほどね・・・。三島にとってはそういう意味で、文体も肉体も自己のひとつも隠しごとのできない「正直さを映すことば」(佐藤氏)だったのかも知れない。

陽が落ち一気に寒さの増す文学館をわたしは後にした。(八ヶ岳事務所 中村健二)

三島由紀夫文学館

群馬◆安中市/物件ウォッチ誌上オンエアー (文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06: 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年1月13日

群馬の奥座敷 伸びやかな丘陵地帯の二棟の住宅

◆群馬県安中市(鷺宮)1400万円

今から三十数年前、信越本線を使って長野県へ仕事に向かっていたころのこと。高崎駅を過ぎ車窓に妙義山が見え始めると横川駅だ。到着するとしばし電車が止まる。これから碓氷峠の急こう配を登るために、「アプト式」と呼ばれる歯車型の車両を連結する作業を行う。

信越本線の難所中の難所で文字どおり一歩ずつ歯車をかみ合わせながら長野県側へと向かっていく。その時速は10㎞に満たないといわれた。 旅行者の多くはこの停車時間を利用してあるひとつの行動をとるのが常だった。

ホームに出た売り子や駅の売店を目指し、名物の駅弁をすばやく買っていく。これが「峠の釜めし」である。あるとき私のとなりに乗り合わせたワイドショーの司会者がいた。テレビで見るそのままの短髪とだみ声で「わたしはいつも買っていますョ」と誰彼となく話し始めた。軽井沢に向かうそのひとときを釜めしとともにいとおしそうに味わっているような印象であった。旅の速度は遅い方が良いのかもしれない。安中市とは、わたしにとってはそんな町であった。 

この物件は、高崎から西へ車で三十分ほどの距離にある。私は逆向きのコースで山梨県の国道141号線(清里ライン)から小海町の中部横断道を経由して上信越道下仁田インターで下車した。ひところと比べ、高速道路の車の数は格段に増えていた。このあたりの地域の特徴は散村(さんそん)と呼ばれ、耕地の中に点在する民家がつかず離れずに建っていることだといえる。かつて建築家の原広司氏が『集落の教え』のなかで展開した「離れて建つ」という論を思い起こさせもする。

その耕地は伸びやかな台地状の一面すべてを覆いつくしている。畑に植えられているのはコンニャクイモだ。物件はそうしたコンニャク畑の一隅にあった。のどかな丘陵地帯と日当たりの良い立地、集落からの距離感など、都市と農村を結びながら密を避けたこれからの暮らしを希望される方にふさわしいのではないだろうか。

いっぽう、この場所は都市計画の区域内(非線引区域)であるため、無秩序な開発行為はしづらく今後もこうした景観が確保・維持できるだろう。それは心強い話である。建物は二棟あるが、まず目につくのはその基礎と擁壁の堅牢さだ。がっちりと躯体を保持している。また、公営水道も苦労して引き込んだという。東京都内在住のオーナーはここで、自らの作品を展示するギャラリーと知人たちの作品を紹介するサロンを目指していたと聞く。そのためこの両方の建物の特徴は壁が多いということだ。

プロでなくとも自らの手仕事で作り出したパッチワークやコットン刺しゅうなどを壁掛けできる場所はここには豊富にある。そうした利用の仕方がこの物件では活きるのではないか。

そして二棟あるうちの手前一棟は賃貸に回すという手も考えられる。ここから1.4㎞ほどの所には親子が休日に校庭でキャッチボールをしている小学校もあるし、都市の喧騒を離れて家庭菜園を楽しんだり、登山や渓流釣りなどレジャーの拠点としても利用したいところ。

その後、隣接市の富岡市が誇る世界遺産「旧富岡製糸場」を見学した。わたしは子供のころから工場見学が好きで、お土産にパイが出るわけでもないがここでもじっくりと見て回ることができた。前日にこけら落としとなった建物では演劇が始まっており、密を避けるために人数制限をしていた。

日も暮れなずみ最後に磯部駅近くの土産物屋によって素朴な磯部焼を買い、「塩泉」として名高い磯部温泉(日帰り)に入って帰路についた。ちょっとした小旅行気分を味わうことができたのだった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

A棟内部

B棟内部