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山梨◆八ヶ岳/冬を間近にする今、今年もあと少し【八ヶ岳スタッフ・日々の業務より】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2020年12月7日


2020年も後半戦。年の初めには、あれをしよう、これをしようと目標とまではいかないものの、皮算用といいましょうか、気持ちも新たに色々考えたものですが、振り返ってみると、毎度のことながら出来たものの方が少ない状況です。

冬に向けての薪割は一向に進んでおらず、薪棚は制作途中のものが半年ほど庭に放置されています。錆びだらけの自転車も処分したいと思いながら、まだ庭にあります。コロナウイルスの影響で出来なかったものもありますね。

一番最たるものがオリンピックの観戦。チケットの入手は出来なかったものの、テレビで観戦できると思っていたものです。昨年より始めた登山も思うように行けませんでした。今年はテント泊で登山を楽しもうと、シーズン前にテント一式を購入しましたが、未だに実現しておりません。

冬を間近にする今、一度くらいは行きたいと、体力、時間に無理のないコースを検討しています。登山とは言えませんが最有力は尾瀬。鳩町峠から尾瀬ヶ原へと続くコースは距離も短く、高低差も少なくテント泊初心者には良さそうです。出来なかったことを振り返りつつ、今から出来ることに集中して年末へ進みたいと思います。(八ヶ岳事務所 大久保 武文)

山梨◆八ヶ岳/寒冷のみぎり・12月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2020年12月1日

▲北杜市の冬は積雪が少なく、晴天の日が続きます。

北杜市の冬は寒さが格段と厳しいと言われます。田舎の方はさらに田舎を見下すことがありますが、甲府の方はマイナスのイメージで北杜市の事を「山梨のシベリア」と呼んでいると聞いたことがあります。本当でしょうか。

「寒い環境は生活にはマイナスで良いことは無い」という感情を私も以前は持っていました。しかし、そんな思い込みを根底から覆したのが、星野道夫の本との出会いでした。アラスカを拠点とした写真家であり、エッセイストの星野道夫。アラスカの自然の動植物の気高さと美しさ、厳しい環境下での人々の営み、彼のその優しい眼差しで書かれる文体と写真に夢中になりました。

そして気づけば寒い環境がマイナスでは無く、自然の個性であり、魅力に感じるようになったのですから不思議なものです。実際に、北杜市に移住した多くの方が冬を好きになります。もしかしたら、四季を通じて冬が一番人気かもしれません。

北杜市の冬は寒さこそ厳しいものの、積雪も少なく、晴天の日が続きます。寒さが、空気を張り詰め、そして浄化をしていくような感覚。静けさの中、2000m 級の山々には雪がつもり、その陰影を深めていきます。寒いからこそ、日中の光の暖かさが愛おしく感じます。寒さが紡ぐ、冬の八ヶ岳の魅力が確かにそこに有るのだと思います。

▲落葉の先に富士山。普段は見えない山並みが見えることも。

さて、物件探しにおいては、北杜市で冬を過ごすかどうかで家の性能や価格に大きな違いが出てきます。別荘地等で低価格で販売されているものは、春から秋の利用を想定した家が多く、そういった家で寒い冬を越すのは難しいところです。一方で最近の高断熱、高気密の家であれば冬も大変快適に過ごすことが出来るようです。以前は少なかった標高が1200m を超える場所でご定住者が増えているのも、家の性能の向上によるものが大きいでしょう。見学の際は、売主が冬を過ごしているか確認をするのも良いでしょう。

目で見て分かりやすい仕様としては、窓ガラスがペアガラスかどうか。ペアガラスでないと過ごせないわけでは無いですが、一番熱が逃げると言われる窓の断熱性を高めてくれるものです。また窓枠はアルミ製のものより、樹脂や木の方が断熱性に優れています。窓を確認する際は、窓枠の素材にも目を向けても面白いですね。自分が冬も北杜市で過ごしたいのか?その答えを探しに冬の八ヶ岳南麓にお越しくださいませ。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

▲物件の見学時には窓にもご注目。ペアガラスか?素材は何か?

山梨◆甲府/物件ウォッチ誌上オンエアー (文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06 : 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年11月27日

▲甲府市貢川にある県立文学館。併設してミレーなどのバルビゾン派が一堂に会する県立美術館もある。

本11月号も番組収録で取り上げた物件がこのコーナーに登場する前に決まってしまいましたので、またしても作家の直筆原稿の話しをします。今回は、山梨県立文学館で開催された(11/23まで)の『まるごと林真理子展』を見てきた感想です。

林さんは小学生のころつぎのような作文を書いている。

「わたしが 大きく なったら どうわを かく人に なりたいな」

縦十字、横十行の大きなマス目の原稿用紙に、ハネとトメがしっかりした文字を鉛筆で書きつづっている。堂々とした筆圧の文字。わたしが担任でも大きな花丸を与えたくなるほどだ。

また当時、林さんは児童劇の台本も書かれておられたようで、キャスティングも自分で決めている。色白のお姫さまは〇〇ちゃん。ちょっと意地の悪いオオカミは●●くん。などと林さんは湧き出でてくるアイデアを書き留めるため、記録しておくため、彼女の鉛筆は走り続け、走り続けて止まるところを知らぬようなのだ。

それが夢見る少女の空想から出たものにしろ、人を配置し動かしていくことは物語の醍醐味であり、もしかしたら困難が待ち受けるこの世の中においてさえパラダイスを夢見ることができる少年少女たちだけの特権なのかもしれない、と思えてくる。トトロと同じように、いつでも会えるとは限らないけれども。

こうした文字の並びを見てわたしはその昔、幼なじみの女の子が、より紐で綴じた藁半紙に黒の鉛筆と両端が赤と青の色鉛筆を使って、飽くことなく書いていたことを、頭のどこかで突然思い出した。ものすごく早いのだ。書くスピードが、である。

当時、近所に住むその幼なじみは、学校や帰り道であったことなどを次から次へと端正な文字でその半紙に書いていく。彼女が一枚目を書いたらわたしたちは二人で声を合わせて読んでいく。それが済んだら二枚目に取り掛かる。書き終わったらまた声に出して読む。一時間もすれば勉強部屋に使われていた仏間の六帖間は半紙に覆い尽くされてしまうのだ。きれいな文字を書く人は書くスピードも早い。これが幼いわたしが彼女から学んだことだった。

林さんはその後、マーケティングアイデアの束をひとつの箱に入れ、凝縮した言葉を紡ぎだすコピーライティングの世界へ。そして作家への挑戦。直木賞受賞からいまの現在に至るまで、彼女の書くための武器、それは「手書き」ということだ。

手書きにこだわりすべて原稿は濃いインクの万年筆で書かれている。縦二十字、横二十行の一枚四百字詰め原稿用紙をうず高く机上に積み上げていく。それはまさに力づくで言葉をねじ伏せているようにも思える。

行間を読み込ませることよりも、どこかから舞い降りてくる言葉をすばやく手書きしながら文章を記録していくことの方に林さんは興味があるのかもしれない。速記に近い技だ。

明治大学の齋藤孝教授は、そうした行為を「書き殴ると思考が加速する」とおっしゃる(『思考中毒になる!』(2020年))。淀みのない文章の連続性は読者を楽しませ、作者を喜ばせる。

それは幼いころから林さんが、読者をいま居るところからはるか彼方の地平へ連れていくこと、それを童話をはじめ校内作文や台本を書くことで、書き続けることで学んで行ったのではないか。枯れ野も花咲く野に変えていくことができるのだということを。

直筆原稿とはげにも恐ろしきものかな、なのである。(八ヶ岳事務所 中村健二)

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まるごと林真理子展
会期:2020年11月23日まで  開館時間:09 : 00~17 : 00
(11/2、11/4は休館)
料金:600円(一般)
会場:山梨県立文学館  甲府市貢川1-5-35
電話055-235-8080
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岩手◆花巻市/千円札と感染症 ~ 宮沢トシさんのこと ~【いくぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年11月25日

学生時代、広告マーケティング部に所属するゼミのメンバーがいた。『宣伝会議』を片手に著名なコピーライターや新進気鋭の作家の話をしながら、初代ウオークマンを聴き、夏休みを利用してアメリカ西海岸にショートステイをする。ドン・ヘンリーは1969年からスピリッツは置いていないと歌っていた。そんな時代だ。

同級生は当時の若者の最先端を走り続けているようにわたしには思えた。いわゆる貧乏学生には憧れの生き方を地で実践していたのだ。あるとき桜台駅近くの彼の下宿で酒を飲んでいると、入社の決まった広告代理店の試験問題を彼は口にした。試験論文の課題は「千円」。伊藤博文から夏目漱石へと肖像が変わることが話題にもなっていたころだ。

「そうしたお札のことを書いた奴らは全部落とされたんだ」と彼。

「で、きみはなにを書いたんだい?」わたしは尋ねる。

「いいかい、中村ね。大事なのはお札の話しではなく、ボードリヤールが提唱してきたその記号論的な価値であって、ケインズが言う深層構造においては、、、」。まあ、その時代における貨幣価値と商品とのバランスが大事だということのようだ。

その後、広告業界の大海原に漕ぎ出した彼は、現在無事定年延長を迎えたと聞く。

▲ 第158回直木賞受賞作『銀河鉄道の父』。2018年刊。

amazonへ

2024年に新札が発行されるという。千円札の新しい顔になるのは北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)。まさかなにかを予見していたわけでもなかろうが、日本の細菌学の父とも言われる。ペスト菌を発見したとされ、世界で初めて破傷風菌の培養に成功するなど、感染症医学の世界的権威として知られている方だ。

ペリーが来航した前年幕末の1853年(嘉永7)に生まれ、満州事変勃発の1931年(昭和6)にお亡くなりになっている。山梨県韮崎市出身で2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智(おおむらさとし)先生もその教え子のおひとりだ。虫や小動物が媒介する感染症は今も昔も人類にとって大きな難敵となっている。

宮沢賢治には夭折した二つ下の妹がいる。名前はトシ。その妹への「永訣(えいけつ)の朝」には(あめゆじゆとてちてけんじや)(「雨雪を取ってきて、賢治さん」とでも訳すのか)という括弧書きのフレーズが繰り返し出てくるが、花巻の晩秋の、雪のようにすきとおった雨が賢治の心象風景と重なっているかのようだ。

それにも増して生前トシが、花巻の実家で病に伏せていた祖父に宛てた手紙を、わたしは『銀河鉄道の父』の中で初めて知った。聡明なトシの淡々と語る言葉の力勁(ちからづよさ)は柔らかな愛情に満ちている。

「おじいちゃん、今日のいちにち云いわけのような心持ちはなかった?」などと。この点では賢治よりもすごいのだ(とわたしは感じた)。

そのトシは今から百年前に世界的な大流行を起こした感染症にも罹っていたという。しかしながら賢治が完璧なまでの予防策をとったおかげで花巻へ帰省することができた。そして教鞭を取るまでに回復したが1922(大正11)年11月27日に結核により永眠する。24歳だった(磯田道史著『感染症の日本史』2020年)。

『注文の多い料理店』は、そのトシが賢治にいつも勧めていた童話作家としてのなりわいが大成していくみごとな結実であったのだった。(北東北担当 中村健二)

「宮沢賢治記念館」(岩手県花巻市矢沢第1地割1−36)

岩手◆奥州市/遠き山に日は落ちて【いくぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年11月9日

▲伸びやかな風県の種山ヶ原。

種山ヶ原(たねやまがはら)の作詞家・賢治十代の頃、林間学校で愛知県の山奥に行った。到着するやいなや十六歳の少年たちはステンレス製の洗面台の蛇口から勢いよくほとばしる山の水を手や顔に受けると「ばか冷たいにぃー」(遠州弁では「ばか」は共感を伴う強調の接頭語)とあちこちで歓声をあげたのだった。そして夕暮れとともに体育教師が「とおきぃやぁまにーひぃはおちてぇー」と戦慄をおぼえる旋律でがなり立てる。

遠い昔の平和な時代だったのだろう。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でことのほか印象深いのが、ジョバンニたちの銀河鉄道に乗りあわせてきた姉弟が「新世界交響楽だわ」とそっとつぶやくシーン。漆黒の地平線のかなたからそれは鳴り響き、矢羽を立てて汽車を追いかけてくる先住民(インディアン)の姿。この壮大な風景の下地は賢治が憧れ続けたアメリカ大陸だといわれる。

「新世界交響楽」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」で1893(明治26)年に作曲された。その後1922(大正11)年に弟子の音楽家が第2楽章「ラルゴ」の主題となる旋律から「Goin’Home」(家路)を作詞、日本では1946(昭和21)年に堀内敬三氏(慶応の応援歌「若き血」や「蒲田行進曲」などを作詞)が「遠き山に日は落ちて」を作詞している。いまもなお夏の夕暮れが似合う歌詞だ。

鳥取県の文化政策課ではこの歌詞を「鳥取県西部の童謡・唱歌百景」の中にリストアップしており、旧中山町(現在の西伯郡大山町(さいはくぐんだいせんちょう))にある一息坂峠(ひといきさかとうげ)を紹介している。遠き山とは大山か。

▲又三郎が風を呼んでいるかのようだ。

北上山地のひとつである通称「物見山(ものみさん)」(標高871m)を山頂とした種山ヶ原(たねやまがはら)は、本誌7月号のふるさと発でみちのく岩手事務所の佐々木が書いたように、奥州市、住田町(すみたちょう)、遠野市にまたがる高山植物と星空観察で知られた高原地帯である。初秋の乾いた風は高原を北から南へ吹き流し、季節が深まればより強く吹き付ける場所でもある。

賢治の『風の又三郎』のモチーフにもなった花巻の子らが元気よく遊ぶ風景にも重なる。賢治はこの場所の名を取り「種山ヶ原」という題名で「新世界より」の旋律に歌詞をつけて歌っていたという。本家「Goin’Home」が世に出たわずか2年後の、関東大震災の翌年1924(大正13)年のこと。賢治は無類のクラシックマニアでもあったのだ。

しかしながらこの時期花巻においてレコード(青盤)と蓄音機を入手できるのは相当な家業の隆盛があってこそだともいえる。※動画共有サービスで視聴可。賢治の歌詞は次のとおり。

“春はまだきの朱雲(あけぐも)をアルペン農(のう)の汗(あせ)に燃縄(もしなわ)と菩提樹皮にうちよそひ風とひかりにちかいせり 四月は風のかぐはしく雲かげ原を超えくれば雪融けの草をわたる繞めぐる八谷(やたに)に霹靂(へきれき)のいしぶみしげきおのづから種山ヶ原に燃ゆる火のなかばは  雲に鎖とざさる 四月は風のかぐはしく雲かげ原を超えくれば雪融けの草をわたる ”(ちくま書房『宮沢賢治全集』第3巻より)
*ルビは中村。

んー、歌の歌詞では堀内氏の方が断然いいですね。現在、この種山ヶ原は賢治ゆかりの景勝地「イーハトーブの風景地」として国の名勝地に指定されている。(北東北担当 中村健二)

▲刈田に一群の蓑笠があらわる(奥州市江刺梁川。2019年10月撮影)

山梨◆八ヶ岳/深秋のみぎり・11月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2020年11月7日

▲北杜市から日帰りの距離、大菩薩峠からの眺め。

旧暦で、季節を表す目安として考案された「二十四節気」。「冬至」を中心として1年を24等分したものだそうで、11月7日頃を「立冬(りっとう)」、11月22日頃を「小雪(しょうせつ)」と表します。11月の初旬に冬が始まり、後半には雪がちらつくというところでしょうか。

図表は北杜市(大泉)の10月から12月の気温の変化を示したものです。気象庁のデータにより作成しました。10月から年末にかけて坂を転がり落ちるように最高、最低気温がどんどん下がっている様子が分かります。11月に入ると最高気温は20度をきりはじめます。20度という気温は肌寒さを感じ始める気温でしょうか。厚手の物を羽織ったり、暖房が欲しくなる時期ですね。

▲ 北杜市大泉の2019年10~12月の気温(気象庁のデータより作成)

最低気温に目を向けると、11月の後半からは0度を下まわるようになります。冬の期間、別荘の場合は水道管や給湯器の中の水を抜いておく「水抜き」の作業が必要となります。水は凍るとその体積が10%も増えるそうで、凍結による水道管の破損を防止するために行うものです。その「水抜き」の開始時期として12月の初旬に実施する方が多いのですが、ちょうど最低気温が氷点下になる時期と合致しています。皆さん、最低気温の変化に敏感になって冬を迎えていることが分かります。因みに、定住の場合は、日常的に水道管に水が流れ、給湯器を使い、暖房により家が暖まるため、基本的に「水抜き」をする必要はありません。別荘利用の方は必須の作業です。

▲北杜市長坂町小荒間。イチョウの木の紅葉が美しい。

さて、11月の北杜市は紅葉が見頃を迎えます。山々の木々が様々に葉の色を変え、我々の目を楽しませてくれます。年によって黄色が綺麗だったり、赤色が綺麗だったりと、その年の気候によって引き立つ色が変わります。今年の紅葉はどうなるでしょうか。楽しみですね。11月は新そばの時期でもありますね。湧き水の豊富な土地柄からでしょうか、北杜市には実にたくさんのお蕎麦屋があります。新そばが各店舗に出そろうこの時期に食べ比べをするのも一興でしょう。秋の八ヶ岳も魅力あふれた季節です。是非、お出かけください。(八ヶ岳事務所 大久保 武文)

▲三分一湧水のお蕎麦。

静岡◆浜松市/北区三ヶ日町育ち ~ 物件ウォッチ誌上オンエアー【文化放送「大人ファンクラブ」より】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月31日

▲大福寺のある福長は歴史も古い丘陵地帯ののどかな里だ。

今回は番組収録後、紹介した物件が成約となってしまったため、先日法事で一年半ぶりに帰省した三ヶ日の話しをします。

そこはいまもむかしもわたしの生まれ故郷です(この先書くこともないと思うので)。高校生のころまでエアコンは無かった。舘山寺(かんざんじ)で土産物屋をやっている高校時代の同級生の家で、エアコン付きの部屋に通されたときに「ばか涼しいじゃん」と話していたぐらいだ。わたしのひと夏の経験だった。

ところがどうだ!今夏8月17日の午後になんと41・1度という日本歴代最高と並ぶ気温を記録した。それが天竜や佐久間などの風の抜けづらい遠州の奥まった地域ではなく、浜松市の中心部だという。朝の7時過ぎからジリジリとうなぎ上りに気温が上がっていき午前中から猛暑状態に。原因は層厚十キロといわれる背の高い高気圧の下降気流が旧引佐郡(いなさぐん)の後背地にある山脈を越えて吹き下ろしてきたため、風下の浜松で気温がいっきょに上昇したといわれる(フェーン現象のこと)。

さて、三ヶ日のみかんの話しだ。甥の嫁さんのご両親は北遠五山の名刹のひとつ大福寺のおひざ元・福長(ふくなが)という集落でみかんの専業農家をしている。昭和50年代から赤土の土壌を活かした開墾が進められ、産地の中の産地といわれるこのあたり一帯のだんだん畑を多数所有している数少ない専業農家だ。

生活様式の変化や海外からの輸入など消費の減少と農地の集約化に伴い、ここ三ヶ日においても専業農家数は2002年には農家全体の二割弱三百戸を割ってしまっている。その出荷先はJA みっかび(三ヶ日町農協)だ。全国の農協のなかでも注目を浴びるこの農協は、令和二年現在2684人の組合員を擁しみかんだけでなくスーパーや冠婚葬祭など地域の末端までその裾野を広げる町の巨大基幹産業なのである(中日ドラゴンズのサイン会もやっていたし、都はるみの公演も後援していた)。

そのトップの井口義朗組合長は中学校の同級生だ。責任産地として販売額100億円を目指すため、古くなった西天王(にしてんのう)の選果場を柑橘類としては日本最大級に拡張して見学コースも作るとのこと。昔から部活の主将として活躍してきた人の今後の目の覚めるような躍進を祈っています。

▲堤防釣りのメッカ瀬戸。『男はつらいよ』のエンディングにも使われた。

幻の獣である「鵺(ぬえ)」伝説のある猪鼻湖(いのはなこ)の胴先(どうさき)海岸(周辺には鵺代(ぬえしろ)や尾奈(おな)などの地名も残る)を埋め立てて造った三ヶ日中学校の外山昭博校長も同級生のおひとり。全校生徒数315人(2019年)とわれわれのころと比べたら半数にも満たない生徒数だが、昨今の社会情勢のなかで苦労の絶えない舵取りはさぞ大変だと思う。われわれの時代の教師たるや本当にひどいものだったが、野球部の外野手としてチームを鼓舞してきた人望の厚い人なら、この禍を生徒たちとともに乗り越える活躍をしてくれるものと信じています。

子供たちの遊び場だったコウモリの飛び交う宇う志しのマンガン鉱のほら穴は現在封鎖されていて覗けないものの、そこに通じる入口に湖を望むしゃれた喫茶店ができたと教えてくれたのは、二級下の三ヶ日町観光協会の中村健二会長だ。わたしと同姓同名で静岡銀行横の肉屋の御曹司でもある。遺産的な価値も少なく、明るいのがとりえの三ヶ日の観光資源のなかにあって、地域の情報を発信し続ける精力的で行動力もある魅力的な人物だ。

▲おんな城主・直虎、大河ドラマでお馴染み、井伊谷にある龍潭寺。

さて、最後にこの地域に移住を考えている方々への情報を少しばかり。個人的に気に入っているのは三ヶ日では上神明(かみしんめい)や岡本、細江(ほそえ)では気賀(きが)の四ツ角や寸座(すんざ)の山付き、引佐では井伊谷(いいのや)や横尾、浜松では三方原(みかたばら)。

そして注目していただいきたいのが浜名湖の西に広がる湖西市(こさいし)。ここは浜松市の市政に組みせずにそのままの市政を貫いた市でもあり、ものづくりの地場産業や商業施設も充実した東海道随一の関所を擁する市で、県境にも位置しているため愛知県の豊橋や渥美半島へも出やすい場所にあたる。そのなかでもおすすめは岩盤の厚い湖西連峰が西に広がる麓の町で、天浜線(てんはません)駅にも近い神座(かんざ)あたり。地価は三方原>湖西>細江>三ヶ日>引佐といったところでしょうか。また、自治体の洪水ハザードマップはかならずご確認ください。(八ヶ岳事務所 中村健二)

(文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06 : 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

湖西市はここ!

山梨◆甲府/山梨の太宰のしあわせな手紙から【いくぞ!甲州・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月26日

▲噴水の美しい県立文学館の建物。

甲府市貢川(くがわ)にある山梨県立文学館でこの夏開催されていた常設展では、太宰治が友人・高田英之助宛にしたためた一通の手紙が本邦初公開されていた。

太宰はご存知のように1939(昭和14)年1月に入籍している。仲人を依頼した井伏鱒二にはこれまでの自堕落な暮らしから足を洗うという「結婚誓約書」を書き送り、井伏の自宅で結婚式を挙げた。その後しばらくは甲府で平穏で安定した新婚生活を送っている。まさにその当時の手紙だ。

差出名は本名の「修治」ではなく「治」である。「須美子さんの指示に、愛の願ひに、従つてもらひたい。これは、私からのお願ひでもある。」と病気療養のため許嫁の斉藤須美子と別居生活を送る英之助に百か日ぐらい過ぎたらすみやかに君たち夫婦も同居してもらいたいと、太宰がその手紙では本気で書いているのだ!

その用紙には赤い縦罫線が引かれ、その罫線の間に文章がキッチリと2行ずつ書かれている。流れるような筆さばきで、軽やか。いかにも健康的な筆致であり筆圧だ。『富嶽百景』を執筆していたころのことである。

その後三鷹と甲府で空襲に遭い、故郷の津軽に疎開し終戦を迎えたのちの太宰には、こうした感情は最後まで起こらなかったのではないか。それとともに素行はさらにひどくなり玉川上水での入水の終焉を迎えるまでそれは続いていくが、しかしながら太宰の筆による世界の切り取り方は最期までどこかに軽やかさを残しているとも、わたしには思える。

▲初公開、文字はその人がその場所に存在したことの証。息づかいが聞こえてくる。

わたしが学生のころ、日本の近代文学研究で知られる小田切進先生(1924年~1992年)の授業で、高見順や伊藤整らとともにその設立に尽力された目黒区駒場にある日本近代文学館にご一緒させていただいたことがあった。そこで初めて作家の直筆原稿を見させていただく機会を得た。本となった活字ではない、著者直筆の文字の連なり。にじんだ万年筆の筆の強さに驚くとともに書かれたときの気分や体調などもぼんやりとではあるが目の前に浮かんでくる気がしたのだった。

一人の作家の原稿を飽きもせずケース越しに見て回り、ほかの作家との相違を位相としてみずからのなかで位置付けていく。まるでいくつかの地層を丹念に調べ上げそのときの暮らしぶりを導きだしながら、これからのありようを想像し創造していく考古学的手法に、それは似ていたのかもしれない。そのとき以来「筆圧考古学」なるものがわたしの中に芽生え今日まで続いているといったら言い過ぎか。

現在も、仕事上さまざまな文書を日々受け取りながらもそうして身につけた「考古学」的訓練のおかげで、直筆だけではなくメール受信にもたとえば相手方の体調面の良し悪しが読み取れるときがある。「早いもので、中村さんにご紹介していただいた物件に家を建てて来年二十年になります。」という書き出しで始まるメールにもこれまで良い暮らしをされてきたのだと、その方の充実した日々がなんのてらいもなく迫力を持って伝わってくるのである。

あるご縁で最期まで山本周五郎の付き人をされていたご婦人にそんな話をしたところ、その年の誕生日プレゼントに湯のみ茶碗をいただいた。煙草とお茶好きの周五郎が生前愛したなんの変哲もない湯のみ茶碗と同じものであるらしい。なんの変哲もない紙の箱に入れられ、我が家の茶箪笥にいまもしまい込まれている。ときどきは南部鉄瓶で入れた煎茶でも飲みたいものだと考えているが、その方は茶箪笥から「これからももっと精進せよ!」とあの眼光でわたしをにらみ続けているのだ。(八ヶ岳事務所・中村健二)

▲南部鉄瓶で煎茶を飲みたいものだが、、、私には鋭い眼光が