▲高館義経堂(たかだちよしつねどう)から見た北上川と束稲山(たばしねやま)
高校時代の古典の恩師は、無類の『おくのほそ道』ファンだった。芭蕉一行が白河の関を越え、松島に至るくだりは口角に泡を飛ばすごとく熱く語っていた。まるで自身の新婚旅行先でもあるかのように。
『おくのほそ道』はその行程において三つの関・白河(しらかわ)、尿前(しとまえ)、市振(いちふり)を越えるが、旅のハイライトはやはりなんといっても恩師の話ではないが、白河の関を越えたみちのくの歌枕(和歌の名所)にこそあるといってもいい。
そのなかでも、奥州藤原氏三代の栄華を誇る中尊寺は「七宝(しっぽう)散りうせ」るも、その金色堂はそこだけ梅雨時の雨も降り残しているという、将来へ向けた希望を光堂の句に託した翁の思いが伝わってくる。
では、その後はどうか。尿前の関(現在の宮城県鳴子町・なるこちょう)からは旅の後半になるとともに、芭蕉晩年の思いがより深くより遠くに実は広がっていくのだ。俳人の長谷川櫂(かい)氏は旅の前半を連句の初折(しょおり)とし、その後半を名残ごりの折とした。そして後半の尿前から市振を「宇宙の旅」(表)、市振から大垣を「人間界の旅」(裏)と分類している。
暑き日を海にいれたり最上川
壮大な天の川を詠んだ芭蕉だが、市振の関(現在の新潟県西頚城郡(にしくびきぐん)青海町(おうみまち))を過ぎた旅の最終盤では人びととの別れがその旅の骨子となって行く。たとえば、唯一フィクションだといわれる市振の場面が描かれた後の次の句だ。
一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月
江戸時代には歌舞伎となって人口に膾炙(かいしゃ)していた『曽我物語(そがものがたり)』の虎御前とリンクするように、遊女や知己との別れは芭蕉をして『おくのほそ道』を単なる紀行文ではない、人として人生を賭けた物語へと昇華していく。わたしは実はこの「萩はぎ」も「月つき」も遊女の名前だと思っており、個人的には芭蕉名句の一つに挙げたいくらいだ。しかもその月は仙台市宮や城野に浮かぶ満月ではなく、作家の黒井千次(くろいせんじ)が『たまらん坂』(1995年刊)で引用した忌野清志郎が歌う唇のように薄い三日月なのだ。
こうしてお伊勢参りを望む遊女を振り切り、加賀では若年の俳人とも会えず、その後同行二人(どうぎょうににん)の曾良(そら)とも別れてしまう。それが『おくのほそ道』の真骨頂なのである。
蓋ふたと身みに別れてもなお希望を抱いてやまない、枯野を行く自身の旅がそこからまた始まるのだ。 そんなことをかつて芭蕉も歩いたであろう平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)から毛越寺(もうつうじ)に向かう参道で、久しぶりの物件取材の折に感じたのであった。(北東北担当 中村健二)
▲毛越寺(もうつうじ)の境内にある芭蕉句碑。





▲真田氏本城跡から菅平方面を望む。
▲真田の湯でも赤備えの甲冑武者がお出迎え。






▲夏の夕暮れ時。八ヶ岳のシルエット。(北杜市高根町)
▲大泉(北杜市)と府中(東京都)の気温の比較。
▲緑のカーテンの中をドライブ。泉ラインの様子。(北杜市大泉町)
▲山の中の涼やかな山道。(長野県・白駒の池の近く)
▲コロナ禍でも自然の営みは続く。(北杜市大泉町)
▲「萩の月」はその素朴な包装も有名。
▲私は凍らせた後冷蔵庫で8時間ほど寝かせ「半氷菓」として食べました。
▲「夜のお菓子」うなぎパイ。
▲7月の田んぼの様子。田植えから1か月と少し。柔らかいグリーンが芝生のよう。(北杜市高根町)
▲八ヶ岳南麓の涼しい夕暮れ時。エアコン不要で快適な夜を過ごせる。(北杜市高根町)
(※写真はイメージです。ちなみに井筒屋さんの重箱は紅色!)
▲木々をぬける風が気持ちよい、木陰の小道。(北杜市大泉町)
▲昭和レトロを感じさせる外観・室内。

