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岩手◆一関市・奥州市/北東北物件探しの旅 ~ 吉里吉里国から人首へ ~【行くぞ北東北!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所・中村健二

2020年4月30日

▲骨寺村は中尊寺のかつての荘園がいまも残る場所。

吉里吉里国(きりきりこく)から人首(ひとかべ)へ

東北本線を走る車両が仙台を過ぎ、岩手との県境にさしかかると、突然東北弁が車内放送から流れ始めた。吉里吉里国が日本国から独立した瞬間だった。作家井上ひさしが描いた『吉里吉里人』(1981年刊)の冒頭だ。売れない三文作家の主人公・古橋と名前が同じだったわたしは、我がことのように井上の流れるような筆致と展開に引き込まれていったことを記憶している。

新幹線一ノ関駅あたりは北上川が作り出した肥沃な流域に広大な農地が広がり、それが途切れた西の山裾(やますそ)には平泉の世界遺産構成群が千年の都を静かに伝えている。十七世紀の終わりには松尾芭蕉も中尊寺を訪れ光堂の名句を残した。

東の山裾は桜の名所で西行法師が京に模すると絶賛した束稲山(たばしねやま)が横たわる。現代の「はやぶさ」は平均時速二百五十キロ以上の高速で移動していく。巻き上がる旋風によって吉里吉里人が話す流暢な東北弁はかき消され、それが入る余地はもはや無いようにもみえる。

地形的には奥羽山脈の東側では「くりこま高原」などの高山がそびえているため、それを乗り越えてくる雪は骨寺村や厳美渓ぐらいまでか。極端な標高差があるわけではないが、低山が広がる花巻市と比較するとこのあたりの降雪量は少なめだという。ことに今年の冬はまったくと言っていいほど雪はない。個人的には残念だ。

さて、遠野で用事を済ませたのち、もう一つの目的地である奥州市(おうしゅうし)江刺米里(えさしよねさと)へ向かった。関東在住の方が田舎暮らしをしたいと十数年前に都内の業者から購入した物件の売却相談があり、所有者の了解のもと今日はその物件の現況確認をする日だった。住所は特定できる。が、衛星写真では建物らしきものは写っていない。嫌な予感がした。

川に沿って県道水沢米里線を南下していくと右手に緑青色の山肌と、その手前には無人と思われる砕石工場が威容な姿をあらわしていた。さらに県道を進むと、川を過ぎたとたん急カーブが出現し、その両脇に歴史の重みを感じさせる町並みが突然姿をあらわした。旧街道筋に入ったのだ。

▲人首地区入口の急カーブ。

▲賢治が旅館から見たような町並みが残る。

そこは「人首(ひとかべ)」と言われる地区でその名前に思わずたじろいでしまう。平安時代の「蝦夷(えにし)」伝説が息づく町と言われ、江戸期の伊達藩時代には街道の御番所もあった。明治期に入ると坂本龍馬のいとこが日本で初めてロシア正教の教えを駐在する役人に説いた。そしてビザンチン様式のハイカラな教会も建てられたという(しかし昭和8年の大火で焼失)。歴史的に見ても国内外の交流が盛んに行われてきた宿場町だ。

そして宮沢賢治もここを二度訪れている。最初は盛岡高等農林学校在学中の1917(大正6)年のことだ。地質調査で初めて江刺を訪問している。先ほどわたしも見た青い山肌もきっとご覧になり調査されたはずだ。

二度目は花巻で教壇に立っていた1924(同13)年。過酷な地質調査のため、自身の寿命があと15年だと知己にこぼしたあとのこと。この時は遠野側から峠越えをし、詩も創作している。一泊の旅。この日賢治の逗留した「菊慶旅館」は2011年に起きた東日本大震災で大打撃を受けてしまう。六つあった客室の天井の一部が崩落するなど建物は大きく損壊し、岩手県知事も宿泊したという名門旅館は廃業を余儀なくされてしまった。そして多くの方々に惜しまれつつ昨年秋に取り壊された。

▲街道筋に建つ趣のある洋風の家。

人首で味わった高揚感を体のどこかに残しながらさらに南下。無人の小学校を過ぎ「チェーン着脱場」の標識にさしかかると、道路脇の雪がいちだんと増え始めた。目指す物件はもうすぐだ。

急な坂道を登っていくと数軒の集落があった。軒の深い民家がほどよく点在している。岩手の奥座敷に位置し農家民宿でもできそうな築百年を超えるほどのどっしりとした民家群だ。

携帯電話の衛星写真が指し示す物件の場所は雪に埋もれた道なき道の先だ。どうやら幅一メートルほどのこの道らしきところを行けば、売却相談を受けた物件にたどり着けるだろう。そう見当をつけて雪道での歩き方が下手なわたしは雪に足を取られながらゆっくりと一歩ずつ進む。百メートルほど行くと山から湧き出てきた水の流れがあった。そこが里と山の境のようだ。その境目に三軒の「家」が並んで建っていた。目指した物件はそのうちの一軒だった。

東北電力の古びた郵便物の住所地が所有者から教えられた所在地と一致したのだ。そこでわたしの見たものは、無残にも屋根が落ち、いたるところにカビが生えてしまった「家」であった。かつて人の住まいであったものがいわば「廃墟」と化していたのである。

時の過ぎ行くにまかせて人の手が入らずに朽ちつつあったのだ。放置され続けながらも風雪に耐えてきた「家」は、近い将来には確実に自然に帰す運命にあった。雪の中でたたずむ三軒は寄り添いながらその日を静かに待ち続けているようでもあった。

今回は、吉里吉里国も賢治の旅館も物件もいずれもタスキを引き継ぐことなく、わたしの中では残念ながら終わりを告げてしまった。こんなこともある。これが初めてでもないし最後でもないのだから。(北東北担当 中村 健二)

▲雪の中で育つタラノ木。

岩手◆奥州/束稲山の麓にある母禮の屋敷跡とは?【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/佐々木 泰文

2020年4月13日

▲のどかな山里の一角にある。

平泉の向かい側に見える束稲山(たばしねやま)山麓、奥州市前沢町生母(せいぼ)という地域で「伝母禮屋敷跡」の案内板を見つけました。これは、彼の古の東北の雄・アテルイと共闘した闘士・母禮(モライもしくはモレ)の屋敷跡だと言うのです。

この奥州を藤原三代が栄華を極めた平泉の向かい側に広がる土地は、それから遡ること二百有余年、時代にして延命八年から二十一年にかけて約13年間、京の中央政権から蝦夷征伐の命を受けた征夷大将軍が率いる五万もの兵力を迎え討ち、奮戦した伝説の日髙見国のアテルイとモレが活躍した土地なのでした。

一時は勝利したものの、中央政権から度重なる東征の戦は、次第に豊かな奥州の土地を荒廃させて、疲弊してくる様を憂いた両雄は、自分たちが出頭する事で、この奥州の民たちの安寧を約して、名将・坂上田村麻呂の軍門に下って京に護送されたのでした。

田村麻呂はその両雄の志に感銘して、助命を嘆願したのですが、残念ながら権力者達に受け入れられずに、処刑されました。しかし、その両雄の生き様は、その後の奥州の兵(つわもの)どもに引き継がれて、奥州藤原時代へと繋がって来た歴史を思うと、思わず屋敷跡に向かって手を合わせずにはいられない心境でした。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

▲奥州市前沢の案内看板。

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岩手◆遠野/奥州市水沢公園散策記【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/佐々木 泰文

2020年3月11日

▲江戸時代後期に活躍した蘭学者・高野長英(1804年生まれ)の記念館。

岩手の立春のころは、一年で一番寒く雪におおわれている風景ですが、今年は雪も積もらず、温かい日が続いています。そんな中で小春日和とも言えそうな暖かさに誘われて、奥州市の物件案内の帰り、水沢公園を散策しましたら歴史の重みに感激しました。

先ずは公園内にある「高野長英記念館」を見学し、日本史の教科書に出て来るような幕末の先覚者に出くわしました。水沢生まれの彼は、江戸、長崎と極貧・苦学し、かのシーボルトの「鳴滝塾(なるたきじゅく)」に学び、鎖国時代の国の行く末を憂えて、開国に向けた「日本の夜明け」を提唱。医学、天文学、兵書と、外国書の翻訳や医業をしていく中で、幕府による激しい弾圧をうけ、投獄、脱獄、逃亡生活の果てに自害する破天荒な生涯を送りました。

▲東京都知事を務めた後藤新平公の銅像(1857年生まれ)約125年前に流行した疫病対策、水際作戦の責任者として伝染病の拡大を阻止した人物。

明治になるとそれらの功績が認められて「正四位」を没後に追贈されています。江戸時代に、この北東北の水沢から、長崎まで勉学に行き、国の夜明けの必要性を著書『夢物語』で提言するパワーの源は、何だったのかと、不思議でなりません。※日本漂流民を乗せて渡来したアメリカ船モリソン号をめぐる幕府の対外政策を批判した著作。『戊戌夢物語』とも。

この公園には、他に内閣総理大臣を務めて、二・二六事件で凶弾に倒れた齋藤實(さいとうまこと)公や国鉄総裁、東京都知事を務めた後藤新平公の銅像があります。時間のある時にお寄りいただきたいものです。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

高野長英記念館(岩手県奥州市水沢中上野町1−9)