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山梨◆八ヶ岳/新年によせて~縁を結ぶ【所長・新年のご挨拶】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2024年1月1日

▲今年もどうぞよろしくお願いいたします。

「この夏の星に向けて、皆が、今、空を見上げる」(辻村深月)。

2023年は5月以降それまでのコロナ呪縛から解放されたかのように人々の動きが各方面で強まった年であった。

そんなおり7月の週末に東京有楽町で山梨への移住組織である「山梨甲斐適生活相談会」がリアルで開催された。実に3年ぶりのことである。

私は4月からその会を運営する「富士の国やまなし移住・定住交流推進協議会」の「移住・定住推進部会長」に任命頂き、相談会でご登壇いただく小学校の校長先生に事前の挨拶を兼ねて県庁職員とともに甲府市内の学校を2校訪ねる機会があった。

そのうちの1校ではひととおりの打ち合わせを済ませると、校長先生のご案内で校内を見て回ることができた。

現在、山梨県の公立では25人学級を推進しているが、この私立小学校ではひとクラスあたり2人の教師が受け持っているようだ。

教室を仕切る廊下はなく(通路はあります)、向かい側に先生方のブースがあり教師も児童たちに見られる位置にあるのが面白かった。

授業参観する親であったころを懐かしく思い出していたのだが、笛吹川の河岸段丘をモチーフに社会科の授業をしていると思ったら算数の話しであったとか、書道の授業では孔子の「子曰く」の論語を50文字近く書き連ねる児童もいたりして、いやはや実に感動したひとときであった。

同行した職員から卒業生の話が出たときに校長先生は「今年の大河ドラマに出ている『リヒトくん』知っていますか?」と尋ねられた。

徳川家康四天王のひとり井伊直政(菩提寺は静岡県浜松市の龍潭寺(りょうたんじ) で私もほんの少しご縁のある方)役で出ていた小柄で魅力的な役者だ。彼は小学生の時に入学してきたという。

山梨において徳川と北条の最後の激戦地が現在の北杜市須玉町。その「獅子吼城(ししくじょう) 」の地で終戦に奔走したのが直政であってその意味でも彼は最適役といえた。

戦なき世を目指しつつ、この2024年も皆様にとって素晴らしい一年になりますように。(代表取締役 中村 健二)

静岡◆掛川~浜松/「井伊谷」の懐かしき夏休み ~ 井伊家とわたしの龍潭寺 ~【静岡生まれ山梨県人・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年8月17日

▲龍潭寺山門。1656年(明暦2年)建立。

7月号掲載の浜北区の物件からおよそ二十キロ西へ行くと、都田(みやこだ)テクノポリスの丘陵地帯を経て、都田川沿いに点在する古い集落に出る。

その一角は東海道や姫街道からも遠く離れた場所であるが、実は群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の戦国時代は「駿河(するが・現静岡県)」、「信濃(しなの)・現長野県」、「甲斐・現山梨県」、「三河・現愛知県東部」を結ぶ交通の要衝地で、北遠地域随一の発展を見せた井伊谷(いいのや・旧引佐町)だ。

この地を治めた領主は「井伊家」である。古刹名刹も数多いが「井伊家」の菩提寺は本日の主舞台である龍潭寺(龍潭寺)。「井伊家」の初代は十一世紀初頭にまでさかのぼり、藤原氏の血を引くともいわれる井伊共保(いいともやす)公。地下水の豊かなこの地で生まれたのが「井伊」の謂れだが、母方の実家も実はここ「井伊谷」だった。

わたしは夏休みになると「井伊谷」に出かけ従兄弟たちと他愛もない遊びに没頭していた。そして母方の家は代々龍潭寺の檀家相談役を引き受けてきてもいたのだった。

▲龍潭寺の鴬張りの廊下。「盆帰省 逢うて走った 従兄弟らよ」

さて、井伊家十二代・道政の時代はちょうど南北朝にあたり、後醍醐天皇の皇子・宗良(むねなが)親王の元に馳せ参じ南朝方として挙兵したのである。そして駿河の雄・今川氏と対峙しことごとく敗れている。

わたしの父方の祖父は郷土史家でもあったので、宗良親王について本にまとめて出版していた。中学生のころ読んだ記憶はあるものの内容についてはよくわからなかったと思う。十年ほど前調べ物があって国立国会図書館に行ったおり、ふと気になって祖父の書いた本があるかもしれないな、と思い職員に調べていただいた。「苗字が違いますが?」と職員。「いろいろありまして」とわたし。

三十分ほどかけてその職員が見つけ出してくれたのはまごう事なきまさに祖父の書いた本だった。

戦国時代になると井伊家はさらに悲惨な道を歩むこととなる。今川義元の配下となって桶狭間に出兵したものの織田信長軍に壊滅的な打撃を被った。その後やって来たのが武田信玄と徳川家康。二十四代の直政(なおまさ・のちの彦根藩初代藩主)はまだ幼く井伊家は風前の灯であった。そこで一計を案じ実行したのが龍潭寺の南渓(なんけい)和尚だ。

▲龍潭寺に飾られている井伊家家系図。

直政を信州の禅寺に保護し、その間に井伊家を任せたのが次郎法師といい、テレビなどでは女城主といわれる直虎(なおとら)だった。ところで直虎のひいお爺さんにあたるのが二十代の直平で、直平の孫には家康の正室・築山殿(つきやまどの)がいる。直虎と築山殿とは親戚筋でもあった。

その築山殿と家康の嫡男・信康は信長の命により浜北から天竜川を越えた二俣城において幽閉され自刃している。直虎は徳政令により失脚し、龍潭寺で晩年を過ごした。成人した直政が家康のもとで徳川四天王と言われるのには旧武田軍の存在が大きかったといわれる。

▲二俣城址公園。元亀3年(1572年)10月に武田信玄を総大将とする武田勝頼軍の猛攻により落城。歴史に名高い三方ヶ原(12月)へと続き、徳川家康は生涯最大の敗北を喫した。現代においても過去最大の赤字を生んだ孫正義社長が、この敗北で描かせた肖像画を引合いに出した先日の会見は記憶に新しい。

武田家滅亡ののち、甲斐に入った家康は最強軍団を誇った山県(やまがた)衆を直政のもとにつけ「赤備え」の甲冑を施し、小牧長久手の戦いで功績を挙げたのだった。その後徳川の治世を二百六十年余に渡って下支えしてきた井伊家が幕末になって歴史に名を残すことになったのが、三十六代の直弼(なおすけ)だ。安政の大獄、桜田門外の変での当事者であった。

▲甲斐武田家の譜代家老衆・山県昌景は軍装を赤一色に統一し、周辺諸国より畏怖された。
「赤備え」の甲冑は真田信繁や井伊直政へと引き継がれた。

ここで井伊家の教訓があるとすれば次の三点が挙げられようか。

 一 南渓和尚のような実行できる知恵者がいること。

 二 大事なものは成長するまで隠しておくこと。

 三 前例によらずリリーフを立てられること。

最後に、井伊谷の石灰の岩山と龍潭寺の庭は折に触れて思い出す心の風景となっている。母無きいまも訪れてみたい場所の一つなのだ。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲龍潭寺の庭は小堀遠州(政一)作として知られる。真ん中に如来、左右に脇侍が控え、鶴亀の吉祥も描く。

静岡◆浜松/大河ドラマ『おんな城主 直虎』~今年は浜松に注目!【所長中村・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2017年1月19日

中村龍潭寺
大河ドラマ『おんな城主 直虎』が始まりました。現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷(読み方/いなさちょういいのや)では昨年からこの話題で持ちきりでした。

直虎は徳川家康の家臣・井伊直政の育ての親にあたります。家を継ぐべき男子がことごとく亡くなってしまうという一大事。許婚となった亀之丞(のちの直親)、そして鶴丸(のちの小野正次)との悲劇的な関係。男子名に改めお家を守り通した、戦国時代を生き抜いた女性の一代記です。

井伊家一覧

その主な舞台となる井伊谷地区の入口にある龍潭寺(りょうたんじ)は私の母方が檀家衆となった菩提寺であることから、私も大いに関心を持ってドラマを観ています。

1701中村-02      ▲梅の匂い薫る我が菩提寺哉・・・。

臨済宗の古刹で小堀遠州(こぼりえんしゅう/古田織部に学んだ戦国期の茶人で遠州流茶道の祖。建築や造園にも才能を発揮。)が作った庭園が有名ですが、歩くと鳥の声のように鳴るうぐいす張りの長い廊下が私は好きでした。そこは今でも小学生たちが夏休みに入ると雑巾がけをしているそうです。

龍潭寺庭園       ▲豪華・豪胆な中に繊細さが見受けられるのが遠州流。

知り合いの静岡県庁職員によると「中村さんは山梨県民ですが、静岡県人ですよ!」と言われています。さてどうでしょうか?

(八ヶ岳事務所 中村 健二)

中村後姿