「花の中三トリオ」と言われた山口百恵、森昌子、桜田淳子がことし還暦を迎えます。
同級の私もそう考えると感慨ひとしおです。この45年間っていったいなんなのだろう・・・。
玉音放送も聞いたと言われる我が家にあった真空管ラジオに興味を持ち理系の高校に進学。でも「つま恋のコンサート」には高校生だから行けず。大江健三郎やカフカに興味を持ってしまい大学は文系に。電波でしか見聞きしたことがない「東京」でのあこがれの暮らしがそこから始まりました。
人より長い学生生活を送っていた年の夏から半年、長野県南牧村で住み込みの援農。そこで“初めての八ヶ岳体験”。ゼミの後輩女子が飛び入りで居候したため地域の大問題に。菊池さんその節は大変なご迷惑をおかけしました(恥)。
就職先は東京・京橋にあった印刷会社。「ワープロ」が出現した年でもあります。ここを一年で辞め、早稲田にあった設計事務所へ転職。ここは地方都市の駅前等の再開発事業のコンサル会社で、山梨、長野、群馬、宮城などへ出かける機会が増えました。
私のような20代の若造が地域の老練な経営者に対してエラそうなことを言うので、ホントに仕事的にイジメられました。小淵沢駅の「丸政の駅弁」が出張時の救い。これが“二度目の八ヶ岳体験”。
バブル前夜。7年いた設計事務所だったが倒産の憂き目にあいました。私は渋谷の広告会社に転職しそこで妻と出会い結婚。「岩木山から滑落」した経験を持つ彼女は山歩きが趣味で、長女を連れて清里の知人「別荘」によく行きました。これが“三度目の八ヶ岳体験”。
バブルがはじけ、この広告会社も倒産。当時は無名で、鳴かず飛ばず?の「ふるさと情報館」を求人広告で見つけたのは、あの「阪神淡路大震災の年」で、初出勤の日は「地下鉄サリン事件」のあった一週間後のこと。世の中的にも暗雲垂れ込める中での再出発でした。その後家族とともに、この八ヶ岳に移住したのは「長野オリンピック」の前年。
この45年間の私の生きようは、「理系」と「文系」の間をさまよいながら、どうにかやってきたみたいです。そして、いつもスターティング・オーバーのきっかけになったのが「八ヶ岳」だとは、できすぎでしょうか?
人は偶然の出会いに翻弄されながらもそこにこそ生きることの意味を見出すのかも知れません・・・私は今また「理系」に興味を持ち始めています。
例えばこんな速算を。√6.25=2.5。
(八ヶ岳事務所 中村 健二)