秋田城は創建から250年くらいまで存続したことは何とかわかるが、それ以降の800年くらいはどこにあるのかも分からなかったが、1812(文化9)年に菅江真澄(すがえ ますみ)が旅日記『菅江真澄旅日記』の中の『水の面影』のところで『続日本紀』に書いている秋田城はここではないかと現在の秋田城跡の場所を述べている。
この菅江真澄は私も秋田に来て初めて知ったのですが、すごい方と云えます。
何がすごいかと云いますと、三河(岡崎という説)を30才で出発し、信州を経て秋田から岩手、宮城、青森、北海道をめぐり歩き48才から亡くなる76才までを秋田ですごしました。
この間、秋田の領内をくまなく歩き、今の県内すべての市町村に足跡をしるしています。(県内の400カ所に真澄の足跡の標柱がある)
真澄は、生まれ故郷や家族、経歴など自分自身のことをあまり人に語ったりしなかったために人物像はちょっと謎めいていますが、国学、本草学、歌学などを学んでいたようで、なぜ北国への旅に出たのかもよく分かっていません。
ただし、どんな階層の人にも分け隔てなく接し、歌を詠み、薬をつくる心得があったため、旅のゆく先々ではどこでもこころよく迎えられそこにしばらく滞在していたようです。
酒はあまり飲まず食べ物の好き嫌いもいわず、常に節制した生活を心がけていたとも言われています。
唯一残っている肖像画も実に穏やかな好々爺と云えます。(つづく)(秋田駐在 片山保)