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東京◆本部/物件見学に出掛ける際は…【本部スタッフ・日々の業務より】

この記事の投稿者: 総務

2025年5月6日

▲季節の移ろいが早い昨今ですが、余裕を持った行動計画を心がけたいです。

外出が楽しみな季節になりました。

とはいえ、四季のある国、日本のはずがいつのまにか、冬と夏だけの国になってしまったようです。

昨日までは肌寒いなぁと思っていたのに、今日は半袖でも汗がでる。そんな天気にびっくりです。

私の思い出の中では、季節はもっとゆっくり巡っていたように思えるのですが、今はなんでも強烈に変化していく気がします。薫風は何処に?

とはいえ気候が良くなれば、外出したくなるのも人情です。

すっかり定着した大型連休のこの季節、「ついでに物件見学を」というお気持ち、よくわかります。

ただ、名所旧跡、観光地に限らず、思いもかけない場所が渋滞になり、「見学のお約束をしましたがたどりつけなくて」というお声を聞きます。

いろいろ計画を詰め込まず、自然に親しむ、人と会う事を一つ一つ楽しまれてはいかがでしょうか。

ご見学は人込みが落ち着いてから、周囲の環境がよく見られる時期にぜひいらして下さい。(本部 杉田 玲子)

山梨◆本部/八ヶ岳に行ってきました【本部スタッフ・日々の業務より】

この記事の投稿者: 総務

2025年4月21日

▲青い空に映える八ヶ岳。

久しぶりで八ヶ岳を訪れました。

先日「ふるさと情報館」では数年ぶりに八ヶ岳で会議を行いました。普段、東京本部に居ついている私が山梨を訪れるのは十年ぶりです。

当日は気持ちのいい晴れ空で、真っ青な空に富士山、八ヶ岳の山々がくっきりと映えていました。「これこれ」と思わず声が出ます。

いつも八ヶ岳に来るたびに八ヶ岳の山の名前って?と思っていたので八ヶ岳山岳ガイド協会のホームページで調べてみました。

北八ヶ岳が「剣ヶ峰」「北横岳」「縞枯山しまがれやま」「稲子岳」「中山」「天狗岳」「根石岳ねいしだけ」「箕冠山みかぶりやま」。

南八ヶ岳は「硫黄岳」「峰ノ松目みねのまつめ」「赤岩の頭」「横岳」「赤岳」「中岳」「阿弥陀岳」「権現岳」「編笠山あみがさやま」。

不明な私は、北と南の二種類があることさえ知りませんでした。

独特な山の名前を見るだけでなんだかわくわくしてきます。今度は山ごとの物語について興味がわいてきました。

会議の方も活発な議論があり有意義でした。美しい自然に囲まれた場所で行う話し合いは新しい発想も湧いてくるようで、お勧めです。

会議後は、八ヶ岳スタッフに美味しいカフェに連れて行ってもらい大満足。見た目も味も最高のケーキを堪能致しました。

会議の成果を生かして、がんばろう!と、山に元気をもらいました。(本部 杉田玲子)

東京◆本部/オニヤンマの虫よけ【本部スタッフ・日々の業務より】

この記事の投稿者: 総務

2024年10月4日

▲虫をもって虫を制する。

暑い夏もようやく終わりを迎え、やっと涼風が吹き始めました。

昨今は今までにない異常気象が続いています。私も大雨で冠水した道路を歩き怖い思いをしました。皆様もどうぞお気をつけ下さい。

暑い日が続く中、私が気になったのは「虫」。

苦手な人も多いと思いますが、猛暑なら虫もバテて出てこないかと願いましたが、当たり前ですが元気に活動しています。

そんな話をしていたら、「オニヤンマ」の虫よけという存在を教えてもらいました。

知っている人には常識らしいのですが、私はその存在を初めて知りました。ネット検索してみると、リアルな商品が続々と出てきます。

なんでも「オニヤンマ」はアブやブヨ、スズメバチの天敵なのだそうです。我が家の物干し場にもスズメバチが巣を作ろうとしたことがあるので、これは耳より情報。

身につけて使っても良しという事で、早速試してみよう!と思ったのですが、よく見るとこの商品とてもリアル。情けない事にリアルすぎて、いまだ購入できていません。(本部 杉田 玲子)

東京◆本部/いざ、オンライン見学へ【本部スタッフ・日々の業務より】

この記事の投稿者: 総務

2023年8月5日

▲今年も暑い夏が来た!!(写真はイメージです)

自由行動が出来る夏がやってきました!

夏休みを満喫するも良し、田舎暮らしを実現するために現地に足を運んでみるのもいかがでしょうか。

とはいえ、昨今の夏は尋常ではない暑さです。「現地に行く前に物件の様子を見てみたい」という方に。画像での物件紹介についてご説明させて下さい。(画像のご用意がある物件は一部です。)

弊社ホームページ画面の【都道府県から探す】(県を一覧で掲載している箇所)の下部にある【グルッと360°オンライン見学 ヴァーチャル内覧公開中】をクリックしてみてください。

右上の検索欄にお探しの物件番号をいれて検索し、右端の写真をクリックすればご覧になれます。(写真の上をクリックしてください。「物件ページへ」だと資料へのご案内になります)検索しても画像が出てこない場合は、画像のご用意がありません。

現在50~60件程の物件の画像を掲載しています。ご興味がある方はぜひご覧ください。

使い勝手などまだまだ工夫すべき箇所がありますがより快適になりますようこれからも頑張っていきます。(本部 杉田 玲子)

▲いざ、オンライン見学へ!!

 

東京◆本部/師走を迎え思うこと【本部スタッフ・日々の業務より】

この記事の投稿者: 総務

2022年12月5日

▲師走の街中のイメージ。華やかですが、仕事納めや大掃除など何かと忙しい時期ですね。

師走の声を聞くと、ちゃんと始末しなければと忙しい気持ちになります。

何かやり残した事はないか、ちゃんと年末までに目途をつけないと‼という思いでパタパタと気ばかりあせります。

大掃除、仕事納め、新年を迎える準備等々。コロナが生活の一部となり、旅行や飲食も解禁となりました。用心しながらもコロナ前の生活習慣がだんだんと戻ってきたようです。

一方、仕事の方法や暮らし方の手段として、一ヵ所集中型の都会生活から『田舎暮らし』が選択肢として選びやすくなりました。テレワークもすっかり認知度が広がりました。

ひと昔前にくらべると「田舎暮らし」は、肯定的に受けとめられる時代となりました。

私共が発行している『月刊ふるさとネットワーク』が、新たに田舎暮らしに興味を持たれた方、今まで田舎暮らしを十分楽しんでいた方、いろいろな方のお役に立つようにと思いを込めて、気を引き締めて新年をむかえたいと思います。

▲少し早いですが、来年もどうぞよろしくお願い致します!

これからもどうぞよろしくお願い申し上げます。(本部 杉田 玲子)

『月刊ふるさとネットワーク』見本誌請求

《田園からの風》 ”自然を求め続けた画家”

この記事の投稿者: 総務

2014年10月10日

八ヶ岳南麓の日野春小学校は、少子化の影響で町内の4つの小学校がひとつに統合され、廃校となった。今年春、その遊休校舎が社会福祉と地域の交流施設、山岳画家の美術館として再出発した。

 

五感を研ぎ澄ますために山に登る

 

自然を愛し、自然を求め続けた画家。犬塚勉は、全く無名の画家だった。

1949年生まれ。東京の多摩で育ち、東京学芸大学で美術を学び、美術教師として子どもたちを教えながら、山や丘の風景を描き続けた。五感を研ぎ澄ますために本格的な登山に挑戦し、身体で浴びる自然の息吹そのものを緻密な筆遣いで描いた。森・山・切り株・ブナ・渓谷などをモチーフとした写実的な風景画。

「『感動ある絵を描くこと』、この他には何も望むものはない」と、常々奥さんの陽子さんに語っていた。

1988年9月23日早朝、陽子さんに「いってくるよ」と、寝室のドアを細く開け、すまなさそうな笑顔を残して谷川岳に出かけた。谷川連峰赤谷川から平標山へ向かう途中、悪天候のため遭難。尾根に出たところで力尽きて永眠。帰らぬ人となった。享年38歳。

2008年没後20年に、多くの友人たちによって長野県東御市の小さな美術館で開らかれた展覧会は、静かな話題を呼び、来会者が多くの言葉を残した。

「緻密な絵の中に、風、せせらぎ、香り…、目に見えないものが描かれているようです」「大地の暖かさを感じ、すべてが生きているのだと感じます」。

翌年NHKの日曜美術館「私は自然になりたい」で紹介され、犬塚勉の絵画が広く世に知られるようになった。その後、NHKプロモーションの企画で、東京、京都、広島と各地で巡回個展が開催され、多くの人々を魅了した。

 

緻密に描かれた草木

土の匂い、生命の感動が伝わる

 

犬塚勉の作品のひとつに、「梅雨の晴れ間」がある(本誌目次写真)。どこにもある自然の風景であるが、入念に表した画面からは雨上がりの土の匂いまで伝わってくる。草木の葉、花弁や葉脈まで一つひとつが緻密に描かれている。湿気を含んだ草が光を浴びながら柔らかな色味を放っている。木陰の小さなドクダミやシロつめ草も雨に洗われていきいきしている。作品を見ていると、自分がその風景の中にいるかのような不思議な感覚になる。

ひとつ一つの植物を克明に描く超リアリズムの技法は、写真では表現できない質感を生み出し生命の感動が伝わってくる。

作品「縦走路」(本誌目次写真)は、南アルプス北岳の尾根から尾根への縦走路で大小の小石が克明に描かれている。ひとつとして同じ形の小石はなく、密度が高く山の雰囲気をよく伝えている。

 

南アルプスの麓で暮らす夢

 

犬塚勉の美術展が日野春小学校で実現したきっかけは、たまたま同じ学校で教えていた元同僚が定年退職後、八ヶ岳に移り住み、日野春小活用の取り組みをしていたからである。

描かれたものはすべて、陽子さんにより大切に保管されてきた。200点余りの作品、60冊にのぼるスケッチブックのほか、克明に記録された制作ノートなどが残る。陽子さんは、その保管場所と展示場所を探していたのである。

「犬塚は南アルプスの麓に住み制作することが夢でした。北岳からの帰途、ふと立ち寄った日野春の景観と里の静けさに深く感動し、『日野春はいいところだよ』と何度となく繰り返しておりました」と語る。

制作ノートには、その思いが記されている。

・僕と陽子と愛息嶺と悠との4人暮らし。南アルプスを仰ぎ見つつ彼方に八ヶ岳を臨み、朝な夕なにその雄姿を愛でる。(1985年8月)

・その土地に溶け込んだ生活の中から、その土地の心を描く。土を耕し作物を育てる人、都会でいつか自然に還ろうと思っているすべての人に喜ばれる、そんな絵を描きたい。(1987年8月)

・日野春の丘に居を構え、ほんとうの風景を描く生活に至るためにはどうすればよいのか。(1986年2月)

・絵を見るためには街へ出なければならない。そこがおかしい。絵が見たければ田舎へ来いというあり方。地方の廃校、校舎を使っての個展。(1987年7月)

陽子さんは、「ほんとうに不思議な縁です。二人が求めてやまなかった夢がこんな形で実現できるなんて……」と語る。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”新たな移動の時代の始まり”

この記事の投稿者: 総務

2014年9月10日

少子高齢化・人口減少化社会の中で、全国のほとんどの県(東京や大阪を除いた)や市町村で都会からの移住者を受け入れて地域を活性化させようという定住促進事業が取り組まれている。この十年で都会の人を受け入れる施策も大きく進んだ。

地元の人々も都会から来る人に対して好意的で、以前の「来たり者」「よそ者」としてあまり歓迎されていなかった時代と比べると隔世の感がある。

そしてまた各地に出かけてみると、都会から来た多くの人々に出会う。

 

都会からの人で活気を取り戻す

 

鳥取県倉吉市に先ごろ出かけた。江戸時代の城下町で、堀割が流れ赤い瓦に白壁土蔵の立ち並ぶ古い街並み。20数年前に訪れたときは、人影が少なくすっかり衰退した町であった。

昭和40〜50年代の高度経済成長期には、倉吉に限らず地方の古い街並みは、どこも同じような状況にあった。

それが今回出かけてみると、活気のある街に変身しているのである。古い土蔵や昔の町屋を再生し、骨董や工芸品店、カフェやレストランなど、数多くの店があり、多くの観光客で賑わっている。

立ち寄ったフレッシュジュースのカフェは、埼玉からやって来た若い女性が経営。都会から移り住んだ人のお店が多い。地元の商工会も、空き家を利用して「お試し店舗」を月額5千円で1年間貸して自立への手助けをしている。

 

復活した長野市善光寺門前町

 

長野市善光寺は、昔は門前町として栄えた町だった。路地を入ると土蔵や多くの古民家が立ち並ぶが、空き家が増えて、衰退した町となっていた。昭和の末の頃である。

その町が近年、土蔵や古民家を再生した新しい店が増えて、活気を取り戻し多くの人々が訪れる町となった。

その復活の一翼を担ったのが、倉石智典さん(41歳)の空き店舗の仲介・再生事業である。

倉石さんはもともと長野市生まれ。東京の大学を卒業して都市計画事務所等に勤めていたがふるさとにUターン。「昔の賑わいのある町にしたい」と、門前町に会社を設立。空き家の所有者に働きかけて、新しい店舗として貸すことを勧める。家賃は月額5万円程度、修復費用は借り手が負担する条件。所有者は「いずれ取り壊さなければ」と考えている人も多く、10軒に1〜2軒程度しか了解が得られない。建物が登記されておらず、所有者が分からないことも多い。

こうして集めた空き店舗の見学会を毎月1回開催。ウェブサイトで告知する。見学会の参加者は20〜30歳代が多く、毎回20人ほどが参加する。県外からの参加者が半数を超え大都市圏からも多いという。

工芸品店、工房、雑貨店、アトリエ、カフェなど店舗に合わせてお店をデザイン。専門家である倉石さんに再生工事を依頼するが、入居者自身が自分好みに壁塗りや修復が可能なのも魅力となっている。

この5年間で倉石さんが手助けして新たに生まれた店舗は60軒になる。

寂れていた町も、一旦プラスに回転し始めると、そのムーブメントがどんどん拡大していく。

 

村役場職員の6割が都会から

 

「日本でいちばん小さな村」として知られた愛知県北設楽郡富山村。長野と静岡に県境を接し、山々と佐久間ダム湖に挟まれた急峻な地にあり、人口219人。平成17年に隣村の豊根村と合併し、ミニ村の座を高知県大川村に譲った。

南北朝時代に源氏の落人が隠れ住んだといわれるだけに、ほとんど平坦地はなく、民家は急斜面に石垣を築きその上に建つ。

合併する少し前、その村を訪ねた。民宿に宿泊した朝、役場を訪問する途中、10名ほどの若いお母さんたちと保育園児がバスを待っていた。村営住宅に暮らす人たちで、一見して都会から来た人たちと分かる。

役場の総務課長の話によれば、村内の子どもたちは、佐久間ダム湖を渡り飯田線で静岡県浜松市の高校に通う。ほとんどが卒業後は都会に出て戻って来ない。役場や森林組合、社会福祉施設などで人材募集しても村内出身者の応募はない。首都圏や名古屋市からの応募者で定員をはるかに超える。「今や。役場の職員の6割が都会から来た人たちです」。

この辺境な地は、都の人がつくったといわれるが、700年の時代を経て、また新たな移動の時代が始まったといえる。

地方の活性化は、移り住んだ都会の人が原動力となっている場合も多い。

大都市では、ひとりの人間の存在は小さいが、地方ではひとりの人間の重みが違うのである。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)

《田園からの風》 ”「同じところに住み続ける」ということ”

この記事の投稿者: 総務

2014年8月7日

それぞれの地域に歴史あり文化あり

日本は稲作農耕文化の国で、農村では人々は祖先伝来の土地を耕し続け、同じ場所に暮らしてきたと思われがちである。しかしそれは、いつの時代からであろうか。

田舎に出かけると、一見すると同じような農村風景であっても、それぞれの地域に歴史があり文化があり、それらに触れることが多い。

近隣同士の集落でも、集落によってその成り立ちが違い、風習が異なる場合がある。

山梨県芦川村(笛吹市)は、富士五湖と甲府盆地との山あいにあり、深い渓谷沿いに茅葺民家が点在する村である。川下から川上に4つの集落があるが、冠婚葬祭の風習がそれぞれ異なる。一番川下の集落では、棺桶は丸棺で膝を折り曲げて座姿で納棺される。川上の集落はいずれも寝棺であるがその形に違いがあるという。ここには落人伝説があり、それぞれここに移り住んだ年代やどこからやって来たかによる違いからであろう。

 移動する人々

「日本人が同じところに住み続けるようになったのは、徳川幕府が安定した江戸時代になってからである。それ以前は人々はあちこちと移動していた」と、昭和の民俗学者の宮本常一はいう。彼は戦前、戦後の日本の農山漁村をくまなく訪ね歩き、『忘れられた日本人』『村里を行く』『日本文化の形成』など多くの著書を残している。

平家落人伝説は日本の山村いたるところにあるが、なにも平家だけでなく、さまざまな戦いに敗れて落ち延びた人々によってつくられた山村はたいへん多い。

そして昔は、集落の人口が増えて生産力が伴わなくなると、”分村“といって村を分けたという。村の一部の人々が新天地を求めて他に移り住むのである。ちょうどミツバチが分蜂(巣分かれ)するのと同じである。

分村してできた村は「親村」の慣習や習俗を引き継いでおり、周辺の集落とは異なる。

愛知県北設楽郡東栄町には、鬼が出て夜を徹して舞う”奥三河の花祭“として知られる伝統芸能がある。

毎年11月から3月初旬の土曜日、11の集落で順次盛大に行われる。その祭りを見た後、東栄町のある集落を訪ねたことがある。

「じつはこの集落には、花祭はないんです」と、お会いした地元の人の話。花祭ではなく、子ども歌舞伎があるのだという。その集落の名は「下田」といい、言い伝えによれば、伊豆下田から越してきた集落という。下田には子ども歌舞伎があり、それがここに伝わった。

時代は分からぬが、分村して数百キロも離れたこの地に、どのようにして辿り着いたのだろう。しかもそれは少人数ではなく、子ども歌舞伎が演じられるほどの集団として。

昔の人々の生きてゆくたくましさに敬服するばかりである。

 今も残る中世の面影

農山村に行き、地元の長老の話を聞けば、日本の中世の歴史がどこにも転がっている。

ふるさと情報館八ヶ岳事務所から近い長坂下条は70戸ほどの集落である。集落のはずれの林の中に、地元で「長閑屋敷」と呼ばれる場所がある。武田信玄の24武将のひとり長坂長閑の屋敷跡という。この集落の世帯の苗字は、三井、相吉、植松の姓が多い。「昔、三井城、相吉城があった」という。それは長閑よりももっと以前の、この集落ができたころにやってきた人の屋敷跡であろう。

長野県下條村は、天竜川沿いの山間地にあるが、その村名は室町時代のはじめ甲斐の国の下條郷(現・韮崎市下條)からこの地に入った下條氏一族に由来するといわれる。長坂下条もこの下條郷からやってきたのかも知れない。

都市から田舎へ新たな動き

江戸時代徳川幕府は、こうして生まれた村々に年貢米を共同責任で供出させ財政を確立した。そのために農民の定着を図ったのである。

江戸時代末期の日本の人口は3千万人、ほとんどが農村にいた。明治維新の近代以降、人々は徐々に都市へと移り住み、戦後高度経済成長に伴い、大都市への一極集中が急速に進み都市に人口の7割が集中するようになった。

経済成長のみを追う都市の極度の肥大化はさまざまな矛盾をもたらし、都市が快適な生活空間でなくなり、自然豊かな農山村が見直されるようになった。

そして近年、都市から田舎へと新たな動きが始まっている。

(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)