新たな再出発
小学校が消えていく。
いま全国各地で、少子化の影響で明治初期に尋常小学校として発足した歴史ある小学校の廃校が進行している。
桜が満開となった4月10日、旧日野春小学校は新たな再出発の日となった。
昨年、山梨県北杜市長坂町にあった4つの小学校がひとつに統合された。廃校となった旧日野春小学校は、公募の結果、地元の社会福祉法人が借り受けた。障害者自立支援施設として、さらには地域の人々の交流施設、山岳画家の美術館として複合的な活用がされることになった。
私たちの「八ヶ岳ふるさと倶楽部」(本誌を通して八ヶ岳に移り住む人々のゆるやかなネットワークの会)も、理科教室を借り受けて「いつでも気軽に利用できるサロン」として第一歩を踏み出すこととなり、甲斐駒ケ岳を望む広い校庭で「桜の花をめでる会」を催したのである。
福祉法人事務局長の坂本ちづ子さんは、「ここを拠点に、地域の人々と一緒にNPO法人『野はらファーム』を設立し、遊休農地を利用した有機野菜づくり、味噌や果実ジュースなどの食品加工、直売所やそれを通した都会との交流などもしてゆきたい」と抱負を語る。。
学校制度と町村の歴史的推移
日本の学校制度は、町村の歴史的推移と連動してきた。
江戸時代、日本には7万余の「むら」(現在の集落の大字)があった。明治になり一町村に一つの尋常小学校を創るために「むら」が合併し1万5千の町村が誕生した。「明治の町村制」である。そして戦後、一つの新制中学校を創るため「昭和の町村合併」が行われ約3千5百の市町村となった。そして「平成の市町村大合併」は。少子化に即応した小学校の統廃合を図ることも目的の一つであった。
小学校の廃校は、単に校舎や校庭の施設が無くなることにとどまらない。小学校は、誰にとっても子どもの頃の「心の原風景」であり、幼なじみの友達や地域の大人たちとの出会いと繋がりの広場であった。小学校は単なる建物ではなく、小学校区というコミュニティ空間の精神的な中核を成している。廃校はそれが契機となって、地域コミュニティの衰退崩壊に繋がりかねない。
日野春小学校は、明治時代に旧日野春村の人々が土地と労力を出しあって、子どもたちのために、地域でも最も景観のよい高台に建てられた。昭和の町村合併で長坂町に、平成の市町村大合併で広域の市に移管された。もともと地元の人々が創った学校なのに、市の意向だけで売却処分されかねない状況となった。地元の人々はそのことを快しとせず、廃校後は地域づくりのために活用することを強く望んだ。その結果、同じく廃校となった2校に先駆けて活用策が実現したのである。
コミュニティが地域の活力を生み出す
日野春小学校の近くに八幡神社がある。夏祭りには、その神楽殿でその年7歳となった女の子による「稚児の舞い」が奉納される。男の子による「子ども相撲」とともに、江戸時代から続く伝統行事で、都会に出た人々も帰郷して賑やかな夏の夜となる。
田舎には、豊かな自然とともに、よく耕された田や畑、五穀豊穣を願う神社の祭り、そこで暮らす人々が織りなす長い歴史と文化がある。小学校も地域の子どもたちの”共同の子育て“の場としての役割を果たしてきた。
そうしたコミュニティが地域の活力を生み出してきたのである。
祭りの復活が地域を復興させる
2004年10月23日の新潟県中越地震で山古志村は、壊滅的な被害を受け全村民離村を余儀なくされた。村の再興は不可能で閉村とさえ言われたが、やがて村は息を吹き返す。
私の所属するNPO日本民家再生協会では、地震直後から現地に支援隊を派遣し救援活動に取り組んだ。傾いて危険家屋として赤紙の貼られた古民家の診断と再生相談活動を行う。そんな中、倒壊した小さな観音堂を再興するため、カンパと資材を集め大工さんを派遣した。その観音堂は、集落の人々にとっては、春と秋の祭りの大切な場所だったのである。集落の家々よりいち早く再建された観音堂では、さっそく春祭りが開催され、村に帰ろうかどうかと迷っていた人々を大きく励ますことになった。
山古志村では、重要無形文化財の「牛の角突き」(闘牛)の復活も村再興の大きなエネルギーとなった。
今回の東日本大震災でも、地域に伝わる伝統的な祭りの復活が地域の人々を大きく励ましている。
農村には、地域が育んだ豊かな文化がある。田舎で暮らしてみると、誰もが実感することである。
(ふるさと情報館 佐藤 彰啓)