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岩手◆奥州市/遠き山に日は落ちて【いくぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年11月9日

▲伸びやかな風県の種山ヶ原。

種山ヶ原(たねやまがはら)の作詞家・賢治十代の頃、林間学校で愛知県の山奥に行った。到着するやいなや十六歳の少年たちはステンレス製の洗面台の蛇口から勢いよくほとばしる山の水を手や顔に受けると「ばか冷たいにぃー」(遠州弁では「ばか」は共感を伴う強調の接頭語)とあちこちで歓声をあげたのだった。そして夕暮れとともに体育教師が「とおきぃやぁまにーひぃはおちてぇー」と戦慄をおぼえる旋律でがなり立てる。

遠い昔の平和な時代だったのだろう。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でことのほか印象深いのが、ジョバンニたちの銀河鉄道に乗りあわせてきた姉弟が「新世界交響楽だわ」とそっとつぶやくシーン。漆黒の地平線のかなたからそれは鳴り響き、矢羽を立てて汽車を追いかけてくる先住民(インディアン)の姿。この壮大な風景の下地は賢治が憧れ続けたアメリカ大陸だといわれる。

「新世界交響楽」は、ドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」で1893(明治26)年に作曲された。その後1922(大正11)年に弟子の音楽家が第2楽章「ラルゴ」の主題となる旋律から「Goin’Home」(家路)を作詞、日本では1946(昭和21)年に堀内敬三氏(慶応の応援歌「若き血」や「蒲田行進曲」などを作詞)が「遠き山に日は落ちて」を作詞している。いまもなお夏の夕暮れが似合う歌詞だ。

鳥取県の文化政策課ではこの歌詞を「鳥取県西部の童謡・唱歌百景」の中にリストアップしており、旧中山町(現在の西伯郡大山町(さいはくぐんだいせんちょう))にある一息坂峠(ひといきさかとうげ)を紹介している。遠き山とは大山か。

▲又三郎が風を呼んでいるかのようだ。

北上山地のひとつである通称「物見山(ものみさん)」(標高871m)を山頂とした種山ヶ原(たねやまがはら)は、本誌7月号のふるさと発でみちのく岩手事務所の佐々木が書いたように、奥州市、住田町(すみたちょう)、遠野市にまたがる高山植物と星空観察で知られた高原地帯である。初秋の乾いた風は高原を北から南へ吹き流し、季節が深まればより強く吹き付ける場所でもある。

賢治の『風の又三郎』のモチーフにもなった花巻の子らが元気よく遊ぶ風景にも重なる。賢治はこの場所の名を取り「種山ヶ原」という題名で「新世界より」の旋律に歌詞をつけて歌っていたという。本家「Goin’Home」が世に出たわずか2年後の、関東大震災の翌年1924(大正13)年のこと。賢治は無類のクラシックマニアでもあったのだ。

しかしながらこの時期花巻においてレコード(青盤)と蓄音機を入手できるのは相当な家業の隆盛があってこそだともいえる。※動画共有サービスで視聴可。賢治の歌詞は次のとおり。

“春はまだきの朱雲(あけぐも)をアルペン農(のう)の汗(あせ)に燃縄(もしなわ)と菩提樹皮にうちよそひ風とひかりにちかいせり 四月は風のかぐはしく雲かげ原を超えくれば雪融けの草をわたる繞めぐる八谷(やたに)に霹靂(へきれき)のいしぶみしげきおのづから種山ヶ原に燃ゆる火のなかばは  雲に鎖とざさる 四月は風のかぐはしく雲かげ原を超えくれば雪融けの草をわたる ”(ちくま書房『宮沢賢治全集』第3巻より)
*ルビは中村。

んー、歌の歌詞では堀内氏の方が断然いいですね。現在、この種山ヶ原は賢治ゆかりの景勝地「イーハトーブの風景地」として国の名勝地に指定されている。(北東北担当 中村健二)

▲刈田に一群の蓑笠があらわる(奥州市江刺梁川。2019年10月撮影)

山梨◆八ヶ岳/深秋のみぎり・11月のお知らせ【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2020年11月7日

▲北杜市から日帰りの距離、大菩薩峠からの眺め。

旧暦で、季節を表す目安として考案された「二十四節気」。「冬至」を中心として1年を24等分したものだそうで、11月7日頃を「立冬(りっとう)」、11月22日頃を「小雪(しょうせつ)」と表します。11月の初旬に冬が始まり、後半には雪がちらつくというところでしょうか。

図表は北杜市(大泉)の10月から12月の気温の変化を示したものです。気象庁のデータにより作成しました。10月から年末にかけて坂を転がり落ちるように最高、最低気温がどんどん下がっている様子が分かります。11月に入ると最高気温は20度をきりはじめます。20度という気温は肌寒さを感じ始める気温でしょうか。厚手の物を羽織ったり、暖房が欲しくなる時期ですね。

▲ 北杜市大泉の2019年10~12月の気温(気象庁のデータより作成)

最低気温に目を向けると、11月の後半からは0度を下まわるようになります。冬の期間、別荘の場合は水道管や給湯器の中の水を抜いておく「水抜き」の作業が必要となります。水は凍るとその体積が10%も増えるそうで、凍結による水道管の破損を防止するために行うものです。その「水抜き」の開始時期として12月の初旬に実施する方が多いのですが、ちょうど最低気温が氷点下になる時期と合致しています。皆さん、最低気温の変化に敏感になって冬を迎えていることが分かります。因みに、定住の場合は、日常的に水道管に水が流れ、給湯器を使い、暖房により家が暖まるため、基本的に「水抜き」をする必要はありません。別荘利用の方は必須の作業です。

▲北杜市長坂町小荒間。イチョウの木の紅葉が美しい。

さて、11月の北杜市は紅葉が見頃を迎えます。山々の木々が様々に葉の色を変え、我々の目を楽しませてくれます。年によって黄色が綺麗だったり、赤色が綺麗だったりと、その年の気候によって引き立つ色が変わります。今年の紅葉はどうなるでしょうか。楽しみですね。11月は新そばの時期でもありますね。湧き水の豊富な土地柄からでしょうか、北杜市には実にたくさんのお蕎麦屋があります。新そばが各店舗に出そろうこの時期に食べ比べをするのも一興でしょう。秋の八ヶ岳も魅力あふれた季節です。是非、お出かけください。(八ヶ岳事務所 大久保 武文)

▲三分一湧水のお蕎麦。

静岡◆浜松市/北区三ヶ日町育ち ~ 物件ウォッチ誌上オンエアー【文化放送「大人ファンクラブ」より】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月31日

▲大福寺のある福長は歴史も古い丘陵地帯ののどかな里だ。

今回は番組収録後、紹介した物件が成約となってしまったため、先日法事で一年半ぶりに帰省した三ヶ日の話しをします。

そこはいまもむかしもわたしの生まれ故郷です(この先書くこともないと思うので)。高校生のころまでエアコンは無かった。舘山寺(かんざんじ)で土産物屋をやっている高校時代の同級生の家で、エアコン付きの部屋に通されたときに「ばか涼しいじゃん」と話していたぐらいだ。わたしのひと夏の経験だった。

ところがどうだ!今夏8月17日の午後になんと41・1度という日本歴代最高と並ぶ気温を記録した。それが天竜や佐久間などの風の抜けづらい遠州の奥まった地域ではなく、浜松市の中心部だという。朝の7時過ぎからジリジリとうなぎ上りに気温が上がっていき午前中から猛暑状態に。原因は層厚十キロといわれる背の高い高気圧の下降気流が旧引佐郡(いなさぐん)の後背地にある山脈を越えて吹き下ろしてきたため、風下の浜松で気温がいっきょに上昇したといわれる(フェーン現象のこと)。

さて、三ヶ日のみかんの話しだ。甥の嫁さんのご両親は北遠五山の名刹のひとつ大福寺のおひざ元・福長(ふくなが)という集落でみかんの専業農家をしている。昭和50年代から赤土の土壌を活かした開墾が進められ、産地の中の産地といわれるこのあたり一帯のだんだん畑を多数所有している数少ない専業農家だ。

生活様式の変化や海外からの輸入など消費の減少と農地の集約化に伴い、ここ三ヶ日においても専業農家数は2002年には農家全体の二割弱三百戸を割ってしまっている。その出荷先はJA みっかび(三ヶ日町農協)だ。全国の農協のなかでも注目を浴びるこの農協は、令和二年現在2684人の組合員を擁しみかんだけでなくスーパーや冠婚葬祭など地域の末端までその裾野を広げる町の巨大基幹産業なのである(中日ドラゴンズのサイン会もやっていたし、都はるみの公演も後援していた)。

そのトップの井口義朗組合長は中学校の同級生だ。責任産地として販売額100億円を目指すため、古くなった西天王(にしてんのう)の選果場を柑橘類としては日本最大級に拡張して見学コースも作るとのこと。昔から部活の主将として活躍してきた人の今後の目の覚めるような躍進を祈っています。

▲堤防釣りのメッカ瀬戸。『男はつらいよ』のエンディングにも使われた。

幻の獣である「鵺(ぬえ)」伝説のある猪鼻湖(いのはなこ)の胴先(どうさき)海岸(周辺には鵺代(ぬえしろ)や尾奈(おな)などの地名も残る)を埋め立てて造った三ヶ日中学校の外山昭博校長も同級生のおひとり。全校生徒数315人(2019年)とわれわれのころと比べたら半数にも満たない生徒数だが、昨今の社会情勢のなかで苦労の絶えない舵取りはさぞ大変だと思う。われわれの時代の教師たるや本当にひどいものだったが、野球部の外野手としてチームを鼓舞してきた人望の厚い人なら、この禍を生徒たちとともに乗り越える活躍をしてくれるものと信じています。

子供たちの遊び場だったコウモリの飛び交う宇う志しのマンガン鉱のほら穴は現在封鎖されていて覗けないものの、そこに通じる入口に湖を望むしゃれた喫茶店ができたと教えてくれたのは、二級下の三ヶ日町観光協会の中村健二会長だ。わたしと同姓同名で静岡銀行横の肉屋の御曹司でもある。遺産的な価値も少なく、明るいのがとりえの三ヶ日の観光資源のなかにあって、地域の情報を発信し続ける精力的で行動力もある魅力的な人物だ。

▲おんな城主・直虎、大河ドラマでお馴染み、井伊谷にある龍潭寺。

さて、最後にこの地域に移住を考えている方々への情報を少しばかり。個人的に気に入っているのは三ヶ日では上神明(かみしんめい)や岡本、細江(ほそえ)では気賀(きが)の四ツ角や寸座(すんざ)の山付き、引佐では井伊谷(いいのや)や横尾、浜松では三方原(みかたばら)。

そして注目していただいきたいのが浜名湖の西に広がる湖西市(こさいし)。ここは浜松市の市政に組みせずにそのままの市政を貫いた市でもあり、ものづくりの地場産業や商業施設も充実した東海道随一の関所を擁する市で、県境にも位置しているため愛知県の豊橋や渥美半島へも出やすい場所にあたる。そのなかでもおすすめは岩盤の厚い湖西連峰が西に広がる麓の町で、天浜線(てんはません)駅にも近い神座(かんざ)あたり。地価は三方原>湖西>細江>三ヶ日>引佐といったところでしょうか。また、自治体の洪水ハザードマップはかならずご確認ください。(八ヶ岳事務所 中村健二)

(文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06 : 25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

湖西市はここ!

山梨◆甲府/山梨の太宰のしあわせな手紙から【いくぞ!甲州・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月26日

▲噴水の美しい県立文学館の建物。

甲府市貢川(くがわ)にある山梨県立文学館でこの夏開催されていた常設展では、太宰治が友人・高田英之助宛にしたためた一通の手紙が本邦初公開されていた。

太宰はご存知のように1939(昭和14)年1月に入籍している。仲人を依頼した井伏鱒二にはこれまでの自堕落な暮らしから足を洗うという「結婚誓約書」を書き送り、井伏の自宅で結婚式を挙げた。その後しばらくは甲府で平穏で安定した新婚生活を送っている。まさにその当時の手紙だ。

差出名は本名の「修治」ではなく「治」である。「須美子さんの指示に、愛の願ひに、従つてもらひたい。これは、私からのお願ひでもある。」と病気療養のため許嫁の斉藤須美子と別居生活を送る英之助に百か日ぐらい過ぎたらすみやかに君たち夫婦も同居してもらいたいと、太宰がその手紙では本気で書いているのだ!

その用紙には赤い縦罫線が引かれ、その罫線の間に文章がキッチリと2行ずつ書かれている。流れるような筆さばきで、軽やか。いかにも健康的な筆致であり筆圧だ。『富嶽百景』を執筆していたころのことである。

その後三鷹と甲府で空襲に遭い、故郷の津軽に疎開し終戦を迎えたのちの太宰には、こうした感情は最後まで起こらなかったのではないか。それとともに素行はさらにひどくなり玉川上水での入水の終焉を迎えるまでそれは続いていくが、しかしながら太宰の筆による世界の切り取り方は最期までどこかに軽やかさを残しているとも、わたしには思える。

▲初公開、文字はその人がその場所に存在したことの証。息づかいが聞こえてくる。

わたしが学生のころ、日本の近代文学研究で知られる小田切進先生(1924年~1992年)の授業で、高見順や伊藤整らとともにその設立に尽力された目黒区駒場にある日本近代文学館にご一緒させていただいたことがあった。そこで初めて作家の直筆原稿を見させていただく機会を得た。本となった活字ではない、著者直筆の文字の連なり。にじんだ万年筆の筆の強さに驚くとともに書かれたときの気分や体調などもぼんやりとではあるが目の前に浮かんでくる気がしたのだった。

一人の作家の原稿を飽きもせずケース越しに見て回り、ほかの作家との相違を位相としてみずからのなかで位置付けていく。まるでいくつかの地層を丹念に調べ上げそのときの暮らしぶりを導きだしながら、これからのありようを想像し創造していく考古学的手法に、それは似ていたのかもしれない。そのとき以来「筆圧考古学」なるものがわたしの中に芽生え今日まで続いているといったら言い過ぎか。

現在も、仕事上さまざまな文書を日々受け取りながらもそうして身につけた「考古学」的訓練のおかげで、直筆だけではなくメール受信にもたとえば相手方の体調面の良し悪しが読み取れるときがある。「早いもので、中村さんにご紹介していただいた物件に家を建てて来年二十年になります。」という書き出しで始まるメールにもこれまで良い暮らしをされてきたのだと、その方の充実した日々がなんのてらいもなく迫力を持って伝わってくるのである。

あるご縁で最期まで山本周五郎の付き人をされていたご婦人にそんな話をしたところ、その年の誕生日プレゼントに湯のみ茶碗をいただいた。煙草とお茶好きの周五郎が生前愛したなんの変哲もない湯のみ茶碗と同じものであるらしい。なんの変哲もない紙の箱に入れられ、我が家の茶箪笥にいまもしまい込まれている。ときどきは南部鉄瓶で入れた煎茶でも飲みたいものだと考えているが、その方は茶箪笥から「これからももっと精進せよ!」とあの眼光でわたしをにらみ続けているのだ。(八ヶ岳事務所・中村健二)

▲南部鉄瓶で煎茶を飲みたいものだが、、、私には鋭い眼光が

 

 

北東北◆秋田/物件ウォッチ誌上オンエアー【文化放送「大人ファンクラブ」より】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年10月4日

「秋田県」というと思い浮かべるものってなんでしょう?

「秋田こまち」に「比内地鶏」、「稲庭うどん」、「いぶりがっこ」などの食べ物。「武家屋敷」と「桜の町・角館(かくのだて)」、深さが日本一の「田沢湖」と花火競技会で知られる「大曲(おおまがり)」。古くから北前船で賑わった「土崎港(つちざきこう)」や男鹿半島の「ナマハゲ」。そして「秋田美人」や「秋田犬」などなど・・・。

実はもう一つ、秋田県を代表するのが「地下資源の宝庫」だということをご存知でしょうか?

秋田内陸縦貫鉄道(総延長は94・2㎞)角館駅と鷹ノ巣駅を結ぶ第三セクターの鉄道沿い、「またぎの里」としても知られる「阿仁(あに)」地区では、明治期にすでにドイツ人技師を招いた鉱山開発が進められていました。そのゲストハウスの洋館はなんと東京銀座の鹿鳴館(ろくめいかん)よりも古く、国の重要文化財にも指定されています。

▲秋田大学「鉱業博物館」の展示施設。

秋田大学の前身「秋田鉱山専門学校」が明治43年に開校していて、「鉱山学部」もありました。(平成10年に工学資源学部に改組)その研究成果でもある「鉱業博物館」は見ごたえ十分です。有名なアニメ映画に出てくる「飛行石」とおぼしき美しい鉱石も展示されています。

さて、物件は秋田市内から北へ行った場所。この物件の地名にもある「黒川」とはかつてこの近くで原油が採掘された名残です。また「金足」とは明治22年に近隣12村が合併してできた「金足村」のことで、甲子園でも活躍したこの名を冠した高校生たちの活躍はまだ記憶に新しいところです。周辺はのどかな山里で周辺には10数軒ほどの集落が点在しています。

歴史をひもとくと、なんとこの地は江戸時代より交通の要衝地として開かれていた地域で、関東地方相模の豪族三浦氏の流れを汲んだ三浦氏が村の肝煎(きもいり・庄屋)を代々務めていた場所です。この居館は保存状態も良くて国の重要文化財に最近指定されました。

▲三浦氏館跡。

そこから1㎞ほど先の田園地帯にこの物件(16416N)が建っています。微に入り細部にこだわった作りは必見です。大工さんが自宅としてかつて建てた家で、米蔵もあり敷地内ではほぼ100坪ほどの広さの菜園用地もあります。

詳細は『月刊ふるさとネットワーク』9月号に掲載していますので、どうぞご覧ください。現況は空き家で室内はきれいに片づけられています。(北東北担当 中村健二)

▲敷地西側には広い菜園用地がある。

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物件ウォッチ誌上オンエアー (文化放送「大人ファンクラブ」毎週土曜日06:25 より。中村の放送回は毎月第4週目)

山梨◆八ヶ岳/仲秋のみぎり・10月のお知らせ【八ヶ岳南麓・高根の里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2020年10月1日

▲赤く染まったもみじ。(北杜市大泉町)

10月を迎えた八ヶ岳。田んぼを見ると、先月までは日差しを受け黄金色に輝いていた稲穂がすっかりと刈り取られています。同時に春に田んぼに水を溜めてから、代掻(しろかき)、田植え、稲穂へと至る過程で見られた、カエルやアメンボ、サギ、スズメ等の多くの虫や鳥たちの賑わいも無くなり、どこか物悲しさが漂います。

一方で田んぼから山の方へ目を向けると、緑から赤や黄色へと色鮮やかに変貌を遂げる木々の葉が目を楽しませてくれます。紅葉の開始時期は、清里などの標高が高いところで10月後半ぐらいからでしょうか。そして昨年の私の記録を見ると10月22日に南アルプスの冠雪を確認しています。甲斐駒ヶ岳、鳳凰三山の登頂付近にうっすらと積もった雪が、山の輪郭をはっきりとさせ、夏山とは全く違う雰囲気を醸し出します。優しさから厳しさ、近寄りがたさといったものでしょうか。夏の生命力あふれる景色とは、また違う魅力的な景色と出会える八ヶ岳の10月です。

▲稲刈りが終わった田んぼ。(北杜市高根町)

◆心がつながる応援券

以前は「安心・安全」や「エコ」というキーワードの中で使われた「地産地消」という言葉が、地域経済を回すキーワードとして注目されています。北杜市では現在、道端の至る所で黄色い「のぼり旗」を見ることができます。

同一デザインのこの旗は、北杜市が発行した商品券が使えるお店の目印。コロナ禍の経済対策で北杜市民一人当たりに3万円の商品券が配られました。商品券が使えるのは北杜市内の登録店舗。スーパー、飲食店、コンビニといった日常的なものから、自動車整備、工務店などあらゆる業種で使えます。

キーワードは北杜市内のお店。病院でも使えます。色々な場所で商品券が使われるように商品券にはある制限がかかっています。3万円の内、スーパーやホームセンターなどの大型店で使えるのは1万円のみ。美容室、クリーニング等の小売店は2万円まで。そして最大の3万円まで使えるのは観光業です。飲食店、宿泊、レジャー体験などで、観光が盛んな北杜市の産業を反映した結果でしょうか。

因みに8下旬の時点で登録されている飲食店は271軒。こんなにお店があったのかと驚きました。この商品券をきっかけに地域での外食が増えた、初めてのお店に入ったという声を聴きます。地域のお店で楽しむという流れは商品券を使い終わった後も続きそうです。身近な地域を知ることで「地産地消」が進む良い例になりそうですね。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

▲昨年の初冠雪?甲斐駒ヶ岳山頂の様子。(北杜市白州町)

岩手◆平泉町/ひとつ家やの萩と月 ~『おくのほそ道』を行く【いくぞ北東北!所長随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年9月13日

▲高館義経堂(たかだちよしつねどう)から見た北上川と束稲山(たばしねやま)

高校時代の古典の恩師は、無類の『おくのほそ道』ファンだった。芭蕉一行が白河の関を越え、松島に至るくだりは口角に泡を飛ばすごとく熱く語っていた。まるで自身の新婚旅行先でもあるかのように。

『おくのほそ道』はその行程において三つの関・白河(しらかわ)、尿前(しとまえ)、市振(いちふり)を越えるが、旅のハイライトはやはりなんといっても恩師の話ではないが、白河の関を越えたみちのくの歌枕(和歌の名所)にこそあるといってもいい。

そのなかでも、奥州藤原氏三代の栄華を誇る中尊寺は「七宝(しっぽう)散りうせ」るも、その金色堂はそこだけ梅雨時の雨も降り残しているという、将来へ向けた希望を光堂の句に託した翁の思いが伝わってくる。

では、その後はどうか。尿前の関(現在の宮城県鳴子町・なるこちょう)からは旅の後半になるとともに、芭蕉晩年の思いがより深くより遠くに実は広がっていくのだ。俳人の長谷川櫂(かい)氏は旅の前半を連句の初折(しょおり)とし、その後半を名残ごりの折とした。そして後半の尿前から市振を「宇宙の旅」(表)、市振から大垣を「人間界の旅」(裏)と分類している。

暑き日を海にいれたり最上川

壮大な天の川を詠んだ芭蕉だが、市振の関(現在の新潟県西頚城郡(にしくびきぐん)青海町(おうみまち))を過ぎた旅の最終盤では人びととの別れがその旅の骨子となって行く。たとえば、唯一フィクションだといわれる市振の場面が描かれた後の次の句だ。

一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

江戸時代には歌舞伎となって人口に膾炙(かいしゃ)していた『曽我物語(そがものがたり)』の虎御前とリンクするように、遊女や知己との別れは芭蕉をして『おくのほそ道』を単なる紀行文ではない、人として人生を賭けた物語へと昇華していく。わたしは実はこの「萩はぎ」も「月つき」も遊女の名前だと思っており、個人的には芭蕉名句の一つに挙げたいくらいだ。しかもその月は仙台市宮や城野に浮かぶ満月ではなく、作家の黒井千次(くろいせんじ)が『たまらん坂』(1995年刊)で引用した忌野清志郎が歌う唇のように薄い三日月なのだ。

こうしてお伊勢参りを望む遊女を振り切り、加賀では若年の俳人とも会えず、その後同行二人(どうぎょうににん)の曾良(そら)とも別れてしまう。それが『おくのほそ道』の真骨頂なのである。

蓋ふたと身みに別れてもなお希望を抱いてやまない、枯野を行く自身の旅がそこからまた始まるのだ。 そんなことをかつて芭蕉も歩いたであろう平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)から毛越寺(もうつうじ)に向かう参道で、久しぶりの物件取材の折に感じたのであった。(北東北担当 中村健二)

▲毛越寺(もうつうじ)の境内にある芭蕉句碑。

山梨◆八ヶ岳/処暑のみぎり・9月のお知らせ【八ヶ岳南麓・高根の里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2020年9月1日

▲北杜市高根町。9月下旬の稲刈りの様子。

稲穂が揺れ、稲刈りの時期まであと少し。季節は変わり実りの秋が廻ってきました。さて、この文章は8月上旬に書いているのですが、市内において県外ナンバーの車が増えてきたように感じます。一度は減った観光客が戻ってきたようです。7月の4連休では中央道が込み合い、案内の待ち合わせに間に合わないとの連絡も。

国土交通省の交通量のデータから、人の流れの大きな変化が読み取れます。図は中央道の「相模湖~上野原」間の交通量を示したものです。車両は小型車(軽・二輪・普通車)、縦軸が交通量、横軸は日付。土日の他、GWの祝日と7月の4連休を抽出しました。こちらを見ると4月、5月にいかに人の流れが減少したか分かります。ここまでの落ち込みを年初に予測できた人はいないでしょう。

▲出典:国土交通省HP(全国・主要都市圏における高速道路・主要国道の主な区間の交通量増減)の値を使用。

その交通量が回復をしてきたのは6月20日の週から。6月27日は一時的に昨年を越えています。その後は昨年には及ばないながらも、ある程度の交通量を保っています。今後の交通量はどのように変化するでしょうか。観光業では海外から国内、遠方より近場がトレンドとのこと。社会全体を体に例えると人の流れは血流。感染を防ぎながら、血流を戻し、健康な体(社会)に戻れる日が早く来ることを願います。

◆温泉で新しい生活様式を体験

コロナ禍での生活が続いています。マスクを着ける日常がノーマルで、常に人との距離を気にし、レジの前にはビニールの幕。そんな状況ですが久しぶりに市内の温泉に行ってきました。

以前は仕事後などに気軽に立ち寄っていましたが、しばらくは疎遠に。今回訪れたのは小淵沢道の駅の「延命の湯」。久々の温泉は新しい生活様式そのものでした。以下、訪れた際の流れです。

1)入口で手の消毒をする。これはどこでもお馴染みですね。
2)次に体温のチェック。非接触の体温計を額に向けて計測。なんだが額がムズムズします。
3)連絡先(住所・氏名・電話番号)を記入する。書くのは代表者だけ。これも以前は無かった取り組みです。
4)脱衣かごを受付で受け取る。以前は更衣室に置いてあったものです。使用後は受付まで返却します。
5)更衣室に入ると、かごを置く棚の一部に×マークがされていました。隣との距離を保つためのものです。鍵付きロッカーは全て使用が出来ませんでした。窓は全開で風通しが良くなっていました。
6)さて肝心の浴室ですが、以前との違いは、窓が全開になっていることでしょうか。サウナは近々再開と書いてあったようですが、密閉した空間なので近寄りませんでした。

入浴したのは平日のお昼前。浴室はガラガラで、私を含めてお客は3名。距離を保ちながら過ごすことができました。一度の入浴者数に上限を設けているそうで、休日など込み合う時は入場制限がかかることも予想されます。

また休憩の大広間は封鎖されていました。入浴後に昼寝したり、テレビを見たり、会話を楽しんだりといったことは、しばらくお預けとなります。そんな新しい生活様式に沿った温泉体験でしたが、以前と変わらずに気持ち良いものでした。自然の中で木々の揺らめき、風を感じながら、広々した湯につかり、体の芯から暖かくなる。これは自宅で味わえないもの。一方で温泉の運営側としては大変な労力で頭が下がる思いでした。コロナ対策と経済活動の両立と言われるが、まさに最前線の努力を見た気がしました。(八ヶ岳事務所 大久保武文)