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岩手◆平泉町/ひとつ家やの萩と月 ~『おくのほそ道』を行く【いくぞ北東北!所長随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年9月13日

▲高館義経堂(たかだちよしつねどう)から見た北上川と束稲山(たばしねやま)

高校時代の古典の恩師は、無類の『おくのほそ道』ファンだった。芭蕉一行が白河の関を越え、松島に至るくだりは口角に泡を飛ばすごとく熱く語っていた。まるで自身の新婚旅行先でもあるかのように。

『おくのほそ道』はその行程において三つの関・白河(しらかわ)、尿前(しとまえ)、市振(いちふり)を越えるが、旅のハイライトはやはりなんといっても恩師の話ではないが、白河の関を越えたみちのくの歌枕(和歌の名所)にこそあるといってもいい。

そのなかでも、奥州藤原氏三代の栄華を誇る中尊寺は「七宝(しっぽう)散りうせ」るも、その金色堂はそこだけ梅雨時の雨も降り残しているという、将来へ向けた希望を光堂の句に託した翁の思いが伝わってくる。

では、その後はどうか。尿前の関(現在の宮城県鳴子町・なるこちょう)からは旅の後半になるとともに、芭蕉晩年の思いがより深くより遠くに実は広がっていくのだ。俳人の長谷川櫂(かい)氏は旅の前半を連句の初折(しょおり)とし、その後半を名残ごりの折とした。そして後半の尿前から市振を「宇宙の旅」(表)、市振から大垣を「人間界の旅」(裏)と分類している。

暑き日を海にいれたり最上川

壮大な天の川を詠んだ芭蕉だが、市振の関(現在の新潟県西頚城郡(にしくびきぐん)青海町(おうみまち))を過ぎた旅の最終盤では人びととの別れがその旅の骨子となって行く。たとえば、唯一フィクションだといわれる市振の場面が描かれた後の次の句だ。

一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

江戸時代には歌舞伎となって人口に膾炙(かいしゃ)していた『曽我物語(そがものがたり)』の虎御前とリンクするように、遊女や知己との別れは芭蕉をして『おくのほそ道』を単なる紀行文ではない、人として人生を賭けた物語へと昇華していく。わたしは実はこの「萩はぎ」も「月つき」も遊女の名前だと思っており、個人的には芭蕉名句の一つに挙げたいくらいだ。しかもその月は仙台市宮や城野に浮かぶ満月ではなく、作家の黒井千次(くろいせんじ)が『たまらん坂』(1995年刊)で引用した忌野清志郎が歌う唇のように薄い三日月なのだ。

こうしてお伊勢参りを望む遊女を振り切り、加賀では若年の俳人とも会えず、その後同行二人(どうぎょうににん)の曾良(そら)とも別れてしまう。それが『おくのほそ道』の真骨頂なのである。

蓋ふたと身みに別れてもなお希望を抱いてやまない、枯野を行く自身の旅がそこからまた始まるのだ。 そんなことをかつて芭蕉も歩いたであろう平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)から毛越寺(もうつうじ)に向かう参道で、久しぶりの物件取材の折に感じたのであった。(北東北担当 中村健二)

▲毛越寺(もうつうじ)の境内にある芭蕉句碑。