学生時代、広告マーケティング部に所属するゼミのメンバーがいた。『宣伝会議』を片手に著名なコピーライターや新進気鋭の作家の話をしながら、初代ウオークマンを聴き、夏休みを利用してアメリカ西海岸にショートステイをする。ドン・ヘンリーは1969年からスピリッツは置いていないと歌っていた。そんな時代だ。
同級生は当時の若者の最先端を走り続けているようにわたしには思えた。いわゆる貧乏学生には憧れの生き方を地で実践していたのだ。あるとき桜台駅近くの彼の下宿で酒を飲んでいると、入社の決まった広告代理店の試験問題を彼は口にした。試験論文の課題は「千円」。伊藤博文から夏目漱石へと肖像が変わることが話題にもなっていたころだ。
「そうしたお札のことを書いた奴らは全部落とされたんだ」と彼。
「で、きみはなにを書いたんだい?」わたしは尋ねる。
「いいかい、中村ね。大事なのはお札の話しではなく、ボードリヤールが提唱してきたその記号論的な価値であって、ケインズが言う深層構造においては、、、」。まあ、その時代における貨幣価値と商品とのバランスが大事だということのようだ。
その後、広告業界の大海原に漕ぎ出した彼は、現在無事定年延長を迎えたと聞く。
2024年に新札が発行されるという。千円札の新しい顔になるのは北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)。まさかなにかを予見していたわけでもなかろうが、日本の細菌学の父とも言われる。ペスト菌を発見したとされ、世界で初めて破傷風菌の培養に成功するなど、感染症医学の世界的権威として知られている方だ。
ペリーが来航した前年幕末の1853年(嘉永7)に生まれ、満州事変勃発の1931年(昭和6)にお亡くなりになっている。山梨県韮崎市出身で2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智(おおむらさとし)先生もその教え子のおひとりだ。虫や小動物が媒介する感染症は今も昔も人類にとって大きな難敵となっている。
宮沢賢治には夭折した二つ下の妹がいる。名前はトシ。その妹への「永訣(えいけつ)の朝」には(あめゆじゆとてちてけんじや)(「雨雪を取ってきて、賢治さん」とでも訳すのか)という括弧書きのフレーズが繰り返し出てくるが、花巻の晩秋の、雪のようにすきとおった雨が賢治の心象風景と重なっているかのようだ。
それにも増して生前トシが、花巻の実家で病に伏せていた祖父に宛てた手紙を、わたしは『銀河鉄道の父』の中で初めて知った。聡明なトシの淡々と語る言葉の力勁(ちからづよさ)は柔らかな愛情に満ちている。
「おじいちゃん、今日のいちにち云いわけのような心持ちはなかった?」などと。この点では賢治よりもすごいのだ(とわたしは感じた)。
そのトシは今から百年前に世界的な大流行を起こした感染症にも罹っていたという。しかしながら賢治が完璧なまでの予防策をとったおかげで花巻へ帰省することができた。そして教鞭を取るまでに回復したが1922(大正11)年11月27日に結核により永眠する。24歳だった(磯田道史著『感染症の日本史』2020年)。
『注文の多い料理店』は、そのトシが賢治にいつも勧めていた童話作家としてのなりわいが大成していくみごとな結実であったのだった。(北東北担当 中村健二)
「宮沢賢治記念館」(岩手県花巻市矢沢第1地割1−36)