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岩手◆盛岡/ふるさとの山はありがたきかな【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年8月20日

▲岩山公園より見た日本百名山・岩手山。

「南部片富士」と言われる「岩手山」(標高2038m)の優雅な風景を、久々に撮影できました。盛岡市は、旧盛岡南部藩のお膝元で、当みちのく岩手事務所のある遠野南部家の御本家にあたるところです。

盛岡バイパスの北側に盛岡市街を一望できる「岩山公園」があり、動物園、遊園地、ゴルフ場、そして展望台が有ります。その近くには「啄木茶屋」と称するお土産屋と展望レストランがあり、西方向に別名「岩鷲山」(がんじゅさん)が右峯は綺麗な溶岩流跡のスロープを、左峰は奥羽山脈の山々に繋がる威厳さを示した優美な姿を見ながら、憩いの時間を過ごせます。

▲啄木の歌をしみじみ味わえる「啄木茶屋」

現在は盛岡市になっていますが、市内北部に位置する旧渋民村(しぶたみむら)。渋民を挟んで向かい合って見えるのは「姫神山(ひめかみさん)」(標高1123m)で、喩えには「岩手山」が夫で「姫神山」は妻の夫婦山だとも言われてます。

渋民村は、岩手の歌人石川啄木の故郷として有名です。啄木の「ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山はありがたきかな」(歌集『一握の砂』)との一首は、この岩手山、姫神山を回想しての言葉なのかもしれません。盛岡にお越しの際は、是非この公園にお寄りください。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

啄木茶屋のある岩山公園

渋民運動公園より岩手山(西)と姫神山(東)

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岩手◆遠野/北行ロマン ~ 種山高原を越えまして【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年7月25日

▲高原ロッジ「星座の森」の敷地にある像。

岩手県南中央部に位置する種山高原は、遠野市、住田町、奥州市にまたがった各方面への峠越えの難所で、ちょうど躑躅(つつじ)が咲き誇り、爽やかな風が吹き抜けていました。

峠の上には道の駅「種山ヶ原」があり、豊富な山菜や野菜がいっぱい並んでいます。そこから10分程度で標高870m の種山高原の頂上付近にある高原ロッジ「星座の森」とレストランに併設の入浴施設があり、高原の雰囲気を満喫しながら、癒しのひと時を満喫できます。

この高原は宮沢賢治が同僚と土性調査に何度か訪れて、「風の叉三郎」「種山ヶ原の夜」等の構想のモチーフとなった場所の一つと言われています。藩政時代から牛馬の放牧地として開発が盛んに行われた所です。

▲平泉から落ちのびた一行が通ったとされる姥石峠の入り口。

そんな頂上付近の旧道を通ってみると、「姥石峠」に源義経の北行伝説の謂われのある案内板が目に入りました。それによると、平泉から落ちのびた一行が、ここを越えて峰づたいに進み、住田に入ったと言われる峠です。

その後に当事務所がある遠野をとおり宮古、青森へと繋がる北行ロマンの一コマに出会って、史実好きの小生としては、なんとも有り難い出会いでした。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

岩手◆遠野/鍋倉城址公園の寂しい春【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年6月19日

▲威風堂々とした南部神社社殿。

当事務所のある「民話のふる里・遠野」は、明治42年に国文学者柳田国男が遠野を訪れたことから始まる『遠野物語』から成るのであるが、その土壌となった遠野郷とは、中央部に位置する物見山山麓にある鍋倉城を中心とした遠野南部藩の城下町でした。

当地域は鎌倉初期より阿曽沼一族が治め、かの有名な豊臣秀吉の天下統一舞台の小田原評定事件の際に小田原に参陣しなかった為に阿曽沼氏は領主権を没収され、南部藩の領地となりました。

そして、盛岡南部家の南部利直は、南の伊達藩との境の要として分家格の根城(ねじょう・八戸城)の八戸直義を入部させたことから、遠野南部家12000石の城下町造りが始まって今日に至っています。

明治2年に廃城となり、現在は鍋倉公園として、市民の憩いの場となり、山城の上部には城下を一望できる天守を模様した展望台がるほか、本丸、二の丸、三の丸跡、そして中腹部には遠野南部家を守護した南部神社が構えています。

遠野市民が待ちに待った鍋倉城址の桜の開花は、札幌市と同じ頃に咲くのですが、今年の桜は花見客もなく、南部神社の祭りもなく、寂しい限りでしたが、往時を偲ぶには良い静かな花見でした。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

▲南部神社に向かう石段。

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岩手◆遠野/いわてtsunamiメモリアル【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年5月24日

▲復興記念公園の様子。

当事務所から大船渡市や気仙沼市の物件案内に行く時に通る陸前高田市松原地区は、9年前の3・11東日本大震災の被害を受けて、風光明媚だった松原海岸と高田市街は一瞬にして大津波にのみ込まれました。

海岸地区の中で唯一残った「奇跡の一本松」は、当時の関係者が何とかして生き残らせようとしてあらゆる手当をしましたが、残念ながら塩害で立ち往生してしまったのです。そこで、この一本松をモニュメントとして残そうと取り組み、現在は加工処理して悠々とその場に建っています。

この度、津波被害の大きかった岩手・宮城・福島の3県に国と地方公共団体が連携して復興記念公園を整備し、国営追悼・記念施設が設置されました。その一つが、「高田松原津波復興記念公園」として完成して、そこに「震災伝承施設」と「道の駅・高田松原」が入っています。

震災伝承施設には、津波の破壊力を示す展示物やガイダンスシアター等で教訓を学べる他、公園内には現在、松原を復元しようと松苗木の植栽事業が継続されています。岩手の沿岸を訪れる際は、是非お寄り頂きたいと思います。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

▲道の駅・高田松原のエントランス。

岩手◆奥州/束稲山の麓にある母禮の屋敷跡とは?【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年4月13日

▲のどかな山里の一角にある。

平泉の向かい側に見える束稲山(たばしねやま)山麓、奥州市前沢町生母(せいぼ)という地域で「伝母禮屋敷跡」の案内板を見つけました。これは、彼の古の東北の雄・アテルイと共闘した闘士・母禮(モライもしくはモレ)の屋敷跡だと言うのです。

この奥州を藤原三代が栄華を極めた平泉の向かい側に広がる土地は、それから遡ること二百有余年、時代にして延命八年から二十一年にかけて約13年間、京の中央政権から蝦夷征伐の命を受けた征夷大将軍が率いる五万もの兵力を迎え討ち、奮戦した伝説の日髙見国のアテルイとモレが活躍した土地なのでした。

一時は勝利したものの、中央政権から度重なる東征の戦は、次第に豊かな奥州の土地を荒廃させて、疲弊してくる様を憂いた両雄は、自分たちが出頭する事で、この奥州の民たちの安寧を約して、名将・坂上田村麻呂の軍門に下って京に護送されたのでした。

田村麻呂はその両雄の志に感銘して、助命を嘆願したのですが、残念ながら権力者達に受け入れられずに、処刑されました。しかし、その両雄の生き様は、その後の奥州の兵(つわもの)どもに引き継がれて、奥州藤原時代へと繋がって来た歴史を思うと、思わず屋敷跡に向かって手を合わせずにはいられない心境でした。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

▲奥州市前沢の案内看板。

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岩手◆遠野/奥州市水沢公園散策記【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年3月11日

▲江戸時代後期に活躍した蘭学者・高野長英(1804年生まれ)の記念館。

岩手の立春のころは、一年で一番寒く雪におおわれている風景ですが、今年は雪も積もらず、温かい日が続いています。そんな中で小春日和とも言えそうな暖かさに誘われて、奥州市の物件案内の帰り、水沢公園を散策しましたら歴史の重みに感激しました。

先ずは公園内にある「高野長英記念館」を見学し、日本史の教科書に出て来るような幕末の先覚者に出くわしました。水沢生まれの彼は、江戸、長崎と極貧・苦学し、かのシーボルトの「鳴滝塾(なるたきじゅく)」に学び、鎖国時代の国の行く末を憂えて、開国に向けた「日本の夜明け」を提唱。医学、天文学、兵書と、外国書の翻訳や医業をしていく中で、幕府による激しい弾圧をうけ、投獄、脱獄、逃亡生活の果てに自害する破天荒な生涯を送りました。

▲東京都知事を務めた後藤新平公の銅像(1857年生まれ)約125年前に流行した疫病対策、水際作戦の責任者として伝染病の拡大を阻止した人物。

明治になるとそれらの功績が認められて「正四位」を没後に追贈されています。江戸時代に、この北東北の水沢から、長崎まで勉学に行き、国の夜明けの必要性を著書『夢物語』で提言するパワーの源は、何だったのかと、不思議でなりません。※日本漂流民を乗せて渡来したアメリカ船モリソン号をめぐる幕府の対外政策を批判した著作。『戊戌夢物語』とも。

この公園には、他に内閣総理大臣を務めて、二・二六事件で凶弾に倒れた齋藤實(さいとうまこと)公や国鉄総裁、東京都知事を務めた後藤新平公の銅像があります。時間のある時にお寄りいただきたいものです。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

高野長英記念館(岩手県奥州市水沢中上野町1−9)

岩手◆遠野/母なる清流・猿ヶ石川のめぐみ【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年2月19日

▲延長73km の猿ヶ石川。(岩手県遠野市)

「ハヤチネウスユキソウ」などの高山植物で有名な「早池峰山麓」から端を発する「猿ケ石川(さるがいしがわ)」。「遠野市附馬牛町」の「大野平集落」を上流域とし流れ下る清流部では、ヤマメ、イワナの宝庫として全国から渓流釣ファンが押し寄せるところです。夏になると田園風景の平野部を流れる中流域で鮎の友釣りの風景が長閑さを感じさせてくれます。

その流れは「旧宮守町」を経由して、「花巻市東和町」の「田瀬地区」を通り、「花巻市似内」の「落合地区」で北上川に合流するのです。この「田瀬集落」に北上川五大ダム計画の一つとして建設された「田瀬ダム」があり、それによって形成された人造湖の「田瀬湖」が悠々とした流れを見せています。

▲田瀬湖高さ81.5m の重力式コンクリダム。(岩手県花巻市)

ダムの形態は洪水時の「水量調整」、「灌漑施設」、「電力発電」と多目的な機能を保持しているのですが、地域としては、湖畔を利用した「ヨットハーバー」、「釣公園」、「野外活動施設」、「大きな吊り橋」、「ワカサギ釣り」や「ルアーのバス釣り」、湖畔には別荘風建物など、のどかな農村風景と異質な雰囲気を醸し出しています。

今月号(『月刊ふるさとネットワーク』2月号)に早池峰山に魅せられて十数年に渡り自然公園保護管理人として務め、引退した方が居住用に「大野平集落」に建てられた住宅と、先月号に御案内したアトリエと住居として利用された「田瀬湖畔」の住宅がありますので、是非、御訪問頂ければと思います。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

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岩手◆遠野/芸術・文化の里・遠野に、おでんせ!【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2020年1月10日

当事務所のある「民話のふるさと・遠野市」には、昭和53年に設立された全国的にも珍しい公設のバレエスタジオがあり、昨年11月には42回目の発表会を行いました。

市民の舞台「遠野物語ファンタジー」は、遠野少年少女合唱隊とともに地域の芸術・文化活動を象徴するものの一つです。また、このスタジオで毎週開かれているレッスンには、地元だけではなく市外からも参加者が集まり、年齢も就学前のお子さんから社会人までお越しになられるということです。

クラシックバレエが日本に入ってからかれこれ100年以上の年月が経つそうですが、老若男女を問わずお稽古事として習う人は全国になんと約36万人もいらっしゃるといわれています。いまやわれわれ日本人にとって身近な芸術のひとつに数えられるまでに育ってきています。

40年以上も前に、東北の片田舎とでも呼べる「日本人の永遠のふるさと・遠野」に、全国的にもめずらしい公営のスタジオが開設されたのは、先人たちのたいへんなご苦労もあってこそ。そして公益財団法人スターダンサーズ・バレエ団の絶大なる御支援をいただくことができました。さらに現在、クラシックバレエと「遠野物語」を融合させた新しい日本のバレエを目指して活動しています。

「民話の伝承」、「遠野三山」、「牛馬」、「曲り屋」、「田園風景」、「しし踊り」を始めとする多くの郷土芸能、そして、遠野ファンタジーとバレエは、みごとに融和して郷土に根ざしています。どうぞ芸術・文化の里遠野に「おでんせ!」(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)