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宮城◆大崎市~加美町・その2/おくのほそ道「尿前の関」とバッハホール【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年10月15日

▲偶然にいざなわれる、ここがあの「おくのほそ道」。

鳴子峡(なるこきょう)は「出羽仙台街道」の宮城県境にある。その名のとおり伊達藩(宮城)と出羽藩(山形)を結ぶ交通の要衝地だ。

当然戦国時代より警備は厳しく、街道の難所であるここ「鳴子峡」には伊達藩により関所が設けられていた。「尿前(しとまえ)の関」である。

偶然、「鳴子峡」からの戻り道、国道沿いに看板を見かけ、ここが「おくのほそ道の尿前か!」とわたしは初めて知ることができたのだった。

▲国道47号線沿いの看板。この看板に気づかなければ、この新しい出会いを得ることができなかった。

渓谷のスケールでは八ヶ岳をしのぐほどだ。江戸時代、芭蕉のこの東北行脚の中では難所中の難所、あの筆マメかつ健脚で鳴らす同行者・曾良(そら)ですら、この先、中山越えについては疲弊しきりで一言も書いてはいないといわれるほどの場所。それがここ「尿前」なのだ。

わたしはもう一度、国道47号線から108号線に入り、ナビで指し示す関所跡地へと車を走らせた。ガードをくぐり民家の建ち並んだ入り口の空き地に車を停めた。なにかしらその先は徒歩で行くべき気がしたからだ。

車を降りてあたりと見渡すと動物が2頭こちらを向いているではないか。一瞬身構えたがヤギが鎖に繋がれていたのだった。

▲ヤギと出くわす。いつの時代でも人間と寄り添う家畜たちは、つぶらな瞳で私に何かを伝えようとしている。

石畳で整備された道を山の方へと上がっていく。突然今度は家の軒下で休んでいるふたりの旅人がいた。恐る恐る「あのー、関所跡はこちらで良いのでしょうか?」と尋ねてみたが返事は無し。視力は中学生のころから悪くなる一方で、わたしはそこに座る人形に聞いていたのだった。

よくよく目を凝らしてみれば、その装束から芭蕉と曾良、である。誰がなぜそこに作って置いたかは不明だが、ここを同行二人が通行したのは間違いなさそうだ。

▲時空を超えて、私は芭蕉と曾良の魂に語りかけていたのではないだろうか、とすら思えてならない。

さらに隣の家には道路工事人の人形もあるではないか。こちらは現代風。おそらくはこの石畳は俺がこしらえたのだとでも言わんばかりに意気軒高だ。

そこから100メートルばかり上っていくと平坦な場所に出た。道はこの先も細く細く森の奥へと続いて行く。ここからは「中山越え」といわれる。

わたしはもはやこの先を断念し、視界の開けた平坦な場所を歩いてみた。碑文と芭蕉の像。関所が建っていた場所を思わせるような石積みが6段ほどあるのだ。

▲荘厳な山の中に、人々を隔絶する関所跡が今もここに。

330年以上経つが、その石積みには威厳があり今もって威圧感すら漂わせている。ここで芭蕉たちは関所のきつい取り調べに遭い、蚤やシラミの攻撃や馬の糞尿で夜も寝られず、ついにはこの先のハードな峡谷を越えて行くことになったのだ。

芭蕉たちがこの「尿前の関」にたどり着いたのは、元禄2年(1689年)の旧暦5月15日(新暦は7月1日)といわれる。この時代は富裕な町人の出現により、光琳や西鶴、近松などのいわゆる元禄文化が花開いたころでもあり、同15年には赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあったことでも知られる。

しかしその翌年、元禄地震といわれる巨大地震があり元号も「宝永」に改められている。一世を風靡した絢爛豪華な文化と生命を脅かす自然災害。そこに生きる人々の暮らし。われわれはこうした先人たちに学ぶべきことが多い。 俳人の長谷川櫂氏は、『おくのほそ道』を前半と後半、そして全体で4つの章に分類している。

「白河の関」までと「歌枕」を訪ねる前半、そして難行苦行したこの「尿前の関」以降の後半。「山寺の蝉」から「天の川」へ、そして市振(いちぶり)の遊女や曾良との別れ。150日といわれる長い旅の行程において、この後半こそ、旅を人生とする芭蕉の深遠な息づかいが聞こえる真骨頂なのだ。それを「かるみ」と表現する(『「奥の細道」をよむ』より)。

▲バッハホールのパイプオルガン。ひと度演奏が始まれば、神聖な音色が私の魂を貫くのだろう。

仙台に戻る途中、わたしは加美町(かみまち)中新田(なかにいだ)にあるという「バッハホール」をぜひ見たいと思った。ホールはワクチン接種会場としても使われているという。

ご多忙のスタッフに案内していただき、わたしは生まれて初めて、誰もいないホールの中央に据えられている圧倒的なパイプオルガンを見せていただいた。次回はぜひともこの音を生演奏で聴きたいと強く思わせるものであった。

「芭蕉の旋律」と「バッハホールのパイプオルガン」。今回はこのダブルキャストに恵まれた取材となったのだった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

宮城◆大崎市/その1・鬼の首のロープウェイと鳴子峡【行くぞ北東北!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年9月14日

▲緑豊かな鳴子峡。

「鳴子峡」は宮城県内の紅葉の名所として知られている。今回その近くの、めったに物件としては出ない「オニコウベスキー場」に物件があるというので、初めてその地を訪れることとなった。東北自動車道古川インターを出ると周辺は穀倉地帯の平野部が広がる。ここからひたすら40数キロ西の山を目指していけばよいわけだ。

宮城県北西部の中心地・古川を要する「大崎地域」は周辺を入れると30数万人の一大都市だが、わたしはそれとは反対方向の鳴子(なるこ)の湯治場の先へ向かおうとしている。江合川(えあいがわ)に沿って山側に続く国道47号線はどことなくディープな感じがした。それは結果として思っても見なかった方向へとわたしを導いていくこととなっていった。

▲東北自動車道古川インターの出口看板。

途中、岩出山(いわでやま)地区に出た。ここには16世紀の最後の10年間(1591年から1600年)、関ヶ原の合戦の頃まで伊達政宗の居城があったという。2006年(平成18)に大崎市と合併するまでは宮城県玉造郡の中心地でもあった。そしていまは全国有数の売上高を誇る「道の駅」が実はこの国道沿いにあるというのだ。その名を「あ・ら・伊達な道の駅」という。正面にはなんと「至福の入口」の文字。駅内をぶらつきながら、今日の昼ごはんはここで調達しようと思い立ち、わたしなりのご当地食材を買っていくことにした。

▲凝った作りの道の駅だ。駅内にはクリーニング店もある。

「鳴子温泉」あたりからこけしの製造販売店が増えてきて山も間近に迫ってきた。ここから国道108号線に右折する。4つほどのトンネルを抜けると「鬼首(おにこうべ)」だ。山あいの温泉や役所を過ぎてさらにその最奥に「オニコウベスキー場」がある。かつて大手ディベロッパーが開発したものだが、近年のスキー人口の減少によりどちらかといえばひなびた感があり、それが逆にこうした時代には休日を家族とともにゆったりと過ごすのにはふさわしい場所であると感じられた。

▲「オニコウベスキー場」遠景。

物件はペンションの建ち並んだ丘のいちばん奥から4軒目。現在は個人の別荘として利用されているとのこと。なるほど。周辺を見渡していると山の斜面に丸い物体がふたつ見える。4人乗りのロープウェイで麓の発着所には「センターキューブ」とあった。家族連れが避暑がてら乗りに来て山頂のカブトムシ観察所や遊歩道を目指しているのだという。わたし的にはどこか「スターウォーズ」的世界のような気がして興味が湧き、乗ってみることにした。

▲空飛ぶキューブ発着所。

▲空飛ぶキューブ。

斜面を登るキューブの乗り心地は、大げさに言えば飛行機で離陸するときの高揚感、そんな感じだった。飛行機にはここしばらくご縁がないけれど、時間にすればわずか8分ほどの旅。そして山頂に着く。標高は1100メートルで一気に数百メートル上昇したことになる。麓とは3度ほど気温が低い。遠くで子どもがヤッホーと下界に向かって叫んでいた。

わたしは他に誰もいない山頂の休憩所で「道の駅」で買ってきた昼ごはんを広げた。三色餅、味噌お握り、鳴子まんじゅう、仙台牛コロッケ、鳴子温泉水と、まさにご当地尽くしで長距離ドライバー並みの食欲だ。

▲この日のお弁当。

最後に鳴子峡に行ってみることにした。ここから車で15分ほどの距離だ。紅葉前のこの時期は人影もまばら。撮影ポイントの橋はみごとに緑一色だ。どことなく山梨県の清里にある赤い橋に似ているが、渓谷の深さは清里、スケール感では鳴子峡に軍配が上がる。レストハウスでソフトクリームを食べる中高年もいて森林浴を楽しんでいるようだ。
 
さて、このあと次の取材先に行こうかと思った矢先、目に飛び込んできたのは「尿前(しとまえ)の関所跡」のすこし薄汚れた看板だった。なんと鳴子峡は「奥のほそ道」の重要ポイントでもあったのだ。勉強不足ではあるが誰も教えてくれなかった。芭蕉と曾良は大変な行脚の先、この「出羽街道」を進みここから国の境を越えて行ったのである。

わたしは関所跡へ導かれるように車を向けていた。(以下次月号へ)(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)