▲白鳥山から見た富士山と富士宮市街地。
この町に来ると静岡に帰ってきた気になってしまう、というのが静岡県人のわたしの昔から変わらぬ心持ちなのである。
南部町は山梨県内の最南端に位置しており、町域は二百平方キロメートルで現在七千人ほどが暮らしている山間地である。今は静岡神奈川方面からだと新東名から清水ジャンクションを経由すれば、中部横断道南部インターまでは十数分で行けるようになった。町の真ん中を富士川が流れ、それに寄り添うように身延線とみのぶ道(国道52号線)が走る。
北側は身延町に隣接しているがその三分の二以上は静岡県(静岡市、富士宮市)と接していて、日々の買い物は大型商業施設のある富士宮へ行かれる方が圧倒的に多い。高校の進学先も静岡県内が増えていると聞くし、静岡県から嫁いだ女性も多くいらっしゃるようだ。特産の「南部茶」の茶畑の風景は、大井川上流の川根あたりにどことなく似ている。
また、山梨から見る富士山は山越しの秀麗さであるが、ここ南部町だけは後述するように東海道と同じようなドーンと見える場所がある。わたしのいとおしき町、それがここ「山梨県南部町」なのである。
南部町内の森林面積は百七十五ヘクタール(約八十八%)。そのほかの農地は茶畑となっていて水田や果樹は少ない。また、宅地は富士川に向かって河岸段丘の広がるその一帯が新たに分譲されているほか、山あいの扇状地で日当たりと水はけのよい場所に地元の集落が点在している。
▲竹の町・南部。
別荘地は身延山地の東側、ちょうど居ながらにして富士山を山越に望める場所で、山あいの杉林を切り開いた一角に集中している。気候的には県内八地点あるアメダスの観測データによると、南部は降水量がもっとも多く冬場の最低気温は高い。銀行や商店街など町の中心地にある水準点(百二十七・四メートル)は県内ではかなり低め。こうした気候の特徴から南部町では昔から竹林が多く、エグさの少ない「たけのこ」の産地として知られてきた。
米ぬかで煮なくてもおいしいと評判が立ち、毎年四月になると東海地方から訪れる人が後を絶たないともいわれる。わたしも一度地元の山持ちじいさん・市川さんと朝早くたけのこ掘りに連れて行ってもらったことがある。斜面で足を踏ん張り歯の狭い独特の鍬で掘り出す作業は慣れないと大変だが、地元の方々は素早い。ものの一時間ほどで籠いっぱいに。
▲盛岡南部藩と遠野南部藩の家紋。
わたしは二つほどを手土産にいただいた思い出がある。取れたてのしゃっきりとした歯ごたえがいまも懐かしい。その市川家には代々の家紋がある。「向かい鶴」だ。清和源氏の流れを引く源義光(新羅三郎で長男は八幡太郎義家)の六代目にあたる光行が南部氏の祖といわれる。
当地に勢力を成していたが十二世紀の終わり頃には、源頼朝の命により奥州藤原氏討伐の任を得て海路で北東北に進出した。南部氏はその後三戸南部氏(盛岡)、八戸南部氏(遠野)などに領地を拡大し、戦国時代以降北東北の雄と称されてきた。その南部氏の家紋が「向かい鶴」なのである。南部町に残る市川家はその南部氏末裔の一派だといわれている。この歴史的な流れは二〇一八年に南部インターチェンジ出口にオープンした「道の駅なんぶ」で見ることができる。
また、南部町内のさらに南にあり、静岡との県境の山が白鳥山(「しらとりやま」。山梨百名山のひとつ。標高五百六十七メートル)で、なんとここにも東征したヤマトタケルの伝説が残されている。その開けた山頂から、すそ野まで大きく伸びた正面の富士山剣ヶ峰(標高三千七百七十六メートル)に飛び立った白鳥を見届け、進軍の道を定めたというのだ。近在の集落「万沢(まんざわ)」はアイヌ語で日の当たる場所なのだという。
そして、鎌倉時代にこの地から東北地方へ渡った南部の方々は、見上げた先の岩手山の姿をこの白鳥山から望む富士山とオーバラップさせ、きっと甲斐の故郷を懐かしく「ありがたき」場所として思い出しているのだ、とわたしは確信したのだった。(八ヶ岳事務所 中村健二)
▲白鳥山登山道入り口の看板にも向かい鶴が。
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