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岩手◆平泉町/世界遺産・平泉中尊寺〜金色堂建立900年〜【みちのく岩手・新遠野物語】 

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2024年2月9日

▲多くの初詣客で賑わう中尊寺本堂。

元日から大きな災害に見舞われてしまった2024年。今回は常に自然災害と隣り合わせの日本で、平安の時代から守り残されてきた平泉町の中尊寺を紹介します。

平泉町は岩手県南部に位置する町で、平成23年6月、同町内の中尊寺(ちゅうそんじ)、毛越寺(もうつうじ)、無量光院跡(むりょうこういんあと)、観自在王院跡(かんじざいおういんあと)、金鶏山(きんけいざん)を中心とした周辺一帯が「平泉の文化遺産」としてユネスコ世界遺産に登録された事により〝世界遺産の町〞として広く知られることになりました。

中尊寺を訪れたのは1月3日、正月も3日目の午後という事もあり駐車場には比較的スムーズにたどり着けましたが、それでも家族連れのなど多くの初詣客が集まっていました。

お寺が建つ場所と言えば、山。中尊寺も例にもれず月見坂と呼ばれる急な表参道を登っての参拝となります。

休憩を取りながらも参拝する人々の姿を見ると、神仏のご利益はもちろん自身の頑張りによって新年の運気を手繰り寄せ切り開いているように感じました。

▲覆堂の中に黄金に輝く金色堂が建つ。

本堂へのお参りを終えてさらに進むと覆堂(おおいどう)に覆われ守られた金色堂(こんじきどう)に到着です。

今年で建立900年と言われる金色堂は奥州藤原氏の眠る場所でもあり撮影は禁止。かの松尾芭蕉も光堂(ひかりどう)と詠った輝き、ぜひ一度その目でご覧になってください。(みちのく岩手事務所 佐々木敬文)

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平泉中尊寺公式ホームページより引用)

・所在地
〒029-4195 岩手県西磐井郡平泉町平泉衣関202

・参拝時間
境内通年開放
3月1日〜11月3日/8:30~17:00
11月4日〜2月末日/8:30~16:30
※10分前に拝観券発行を終了。

・拝観券
拝観券にて、讃衡蔵・金色堂・経蔵・旧覆堂を拝観いただけます。
大人 800円
高校生 500円
中学生 300円
小学生 200円
※30名以上(上記より1割引)、100名以上(上記より2割引)

宮城◆加美町/鉤形(クランク)街道と薬莱(ヤクライ)富士【いくぞ東北!所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年11月17日

▲加美町の音楽の殿堂・バッハホール。

江戸時代元禄期に松尾芭蕉(1644年~1694年)が陸奥国府(みちのくこくふ)から出羽国へ奥の細道を行脚した仙台出羽街道(現在の国道47号線)はその当時整備されたばかりの、いわば新品の街道だった。くに境の「尿前(しとまえ)の関」は随一の難所ではあったものの、霜月初めまではくに境・鳴子(なるこ)の一級の景勝地として旅人の疲れを湯治場で逗留して癒すにはふさわしい場所だったに違いない。

その一本南側を走る街道が今回の舞台となる中羽前(うぜん)街道なのだ(現347号線)。このルートを使って出羽の大石田河港経由尾花沢から仙台へ向けて北前船による上方物の着物や松前物(北海道)の昆布・海産物などの交易が江戸時代を通じて頻繁に行われてきたのであった。加美町は内陸にあって日本海と太平洋を結ぶ交通の要衝地であったのだ。

当時仙台藩の関所はくに境に夏場だけ軽井沢番所が置かれただけだったが、ここが主要街道であった痕跡が実はいまもなお残っている。347号線を車で行けばすぐにわかる。ひと言でいえば走りにくい。出入りがしにくい。なぜなら町中を走る国道が鉤形なのだ。

こうした事例は山梨県甲府市の国道411号線にも見られる。武田信玄の時代以降に作られた街道筋で、ここも鉤形になっておりいまも大型バスがすれ違うのが難儀する隘路(あいろ)となっている。以前山梨学院大学の法学部の招きで空き家活用術の話をしに行った時に車で通ったことがあり、その時わたしはへんに感心した覚えがある。

▲加美町小野田支所。

▲鳴瀬川が街道と平行に流れる。

さて加美町小野田支所あたりは番所の代わりにこうした隘路、そして街道とほぼ平行に流れる鳴瀬川沿いの一角に伊達家重臣として知られる奥山家に代々仕えた松本家の旧家も建っている。

18世紀半ばの建築時期と見られるこの武家の住まいは手斧がけの柱と梁、竈のある土間と執務と住居を分けた民家のひとつであり、侍屋敷としてもかなり古い時代の遺構。真壁と大壁の使い分けも見事だ。現在では国指定の重要文化財であり質実剛健な構えの中に粋な内装をのぞかせて一見の価値がある(見学は無料)。

▲松本家旧家

▲竈の土間。

▲奥座敷。

この通りと川の両方向に目を光らせる立地はさすがとしか言いようがない。さらにその当時から鳴瀬川の河川が切り開いた肥沃な平野部は周辺地域屈指の穀倉地帯として発展していく。まさに仙台の奥座敷として隣接の岩出山(いわでやま)と共に現在も名を成している。

▲旧道にある公衆電話ボックス。

さらに、国道347号線を左に折れて山に向かっていく。その正面にあるのが薬莱山(やくらいさん)(標高552メートル)だ。その麓はスキー場となっている。地元では「薬莱富士」と呼ばれている。私が行ったその日は天気も悪く霧に霞んでいた。

▲整備された加美町の圃場。加美町は豊かな自然環境の中で世界農業遺産「大崎耕土」に指定されている。

その景色はどことなく富士五湖の本栖湖から静岡県の朝霧高原・まかいの牧場へと向かう西富士道路を走っているような錯覚がしたのが不思議であった。

▲やくらいガーデン。

温泉、地ビールそして「やくらいガーデン」(入園料800円)。高原にふさわしいリゾートアイテムが満載だ。ここなら一日中楽しめそうだ。特にやくらいガーデンは春先から11月まで営業していて、広大な敷地内にはバラ園やハーブガーデン、レストランもある。春の水仙と菜の花、夏のバラ、盛夏のころのひまわり、秋はケイトウ、サルビア、バーベナのじゅうたんが敷き詰められている。

加美町は中新田町(なかにいだまち)のバッハホールと山付きの別荘地だけではなかった。今回の取材では旧街道筋と農業遺産である耕土、そして薬莱山リゾート地と多様な顔を見ることができた一日だった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

山形◆山形市/山寺 ~ 宝珠山立石寺 を往く ~【北の国から・制作スタッフ進行日誌】

この記事の投稿者: 編集

2021年11月23日

松尾芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」で知られる「山寺」の「宝珠山(ほうじゅさん)立石寺(りっしゃくじ)」は、山形県の外せない観光地です。1000段の階段を上がり、頂上にある五大堂からの眺めは見事な絶景が広がっています。

▲8:00~17:00(閉門) 大人300円、中学生200円、小学生100円

▲山寺の石段は煩悩を祓い、一段一段登ることで欲望や汚れを落とします。

▲根本中堂 不滅の中灯。

▲五大堂から見た景色。

▲まさに修験道の聖地・修行の岩場。

松尾芭蕉が『奥の細道』で「一見すべきよし、人々のすゝむるに依(よ)りて、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。」(一度は見ておくべきだ。人々がこうすすめるので、尾花沢から引き返した。その間、七里ばかりである)と芭蕉が尾花沢から約28キロもある道を引き返してまで足を運んだとされる「立石寺」は充分に見る価値があります。

▲芭蕉と曾良がいます。

▲せみ塚。

▲看板。

「山寺」は山形駅から電車で17分。アクセスも良く11月中旬であれば紅葉も見頃です。駅の周辺にはお土産屋さんや飲食店もありますので絶景を見た後のお昼には、お蕎麦でもいかがでしょうか。山形市に行く際は、是非一度は「山寺」へ。(本部 井上美穂)

岩手◆平泉町/ひとつ家やの萩と月 ~『おくのほそ道』を行く【いくぞ北東北!所長随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2020年9月13日

▲高館義経堂(たかだちよしつねどう)から見た北上川と束稲山(たばしねやま)

高校時代の古典の恩師は、無類の『おくのほそ道』ファンだった。芭蕉一行が白河の関を越え、松島に至るくだりは口角に泡を飛ばすごとく熱く語っていた。まるで自身の新婚旅行先でもあるかのように。

『おくのほそ道』はその行程において三つの関・白河(しらかわ)、尿前(しとまえ)、市振(いちふり)を越えるが、旅のハイライトはやはりなんといっても恩師の話ではないが、白河の関を越えたみちのくの歌枕(和歌の名所)にこそあるといってもいい。

そのなかでも、奥州藤原氏三代の栄華を誇る中尊寺は「七宝(しっぽう)散りうせ」るも、その金色堂はそこだけ梅雨時の雨も降り残しているという、将来へ向けた希望を光堂の句に託した翁の思いが伝わってくる。

では、その後はどうか。尿前の関(現在の宮城県鳴子町・なるこちょう)からは旅の後半になるとともに、芭蕉晩年の思いがより深くより遠くに実は広がっていくのだ。俳人の長谷川櫂(かい)氏は旅の前半を連句の初折(しょおり)とし、その後半を名残ごりの折とした。そして後半の尿前から市振を「宇宙の旅」(表)、市振から大垣を「人間界の旅」(裏)と分類している。

暑き日を海にいれたり最上川

壮大な天の川を詠んだ芭蕉だが、市振の関(現在の新潟県西頚城郡(にしくびきぐん)青海町(おうみまち))を過ぎた旅の最終盤では人びととの別れがその旅の骨子となって行く。たとえば、唯一フィクションだといわれる市振の場面が描かれた後の次の句だ。

一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月

江戸時代には歌舞伎となって人口に膾炙(かいしゃ)していた『曽我物語(そがものがたり)』の虎御前とリンクするように、遊女や知己との別れは芭蕉をして『おくのほそ道』を単なる紀行文ではない、人として人生を賭けた物語へと昇華していく。わたしは実はこの「萩はぎ」も「月つき」も遊女の名前だと思っており、個人的には芭蕉名句の一つに挙げたいくらいだ。しかもその月は仙台市宮や城野に浮かぶ満月ではなく、作家の黒井千次(くろいせんじ)が『たまらん坂』(1995年刊)で引用した忌野清志郎が歌う唇のように薄い三日月なのだ。

こうしてお伊勢参りを望む遊女を振り切り、加賀では若年の俳人とも会えず、その後同行二人(どうぎょうににん)の曾良(そら)とも別れてしまう。それが『おくのほそ道』の真骨頂なのである。

蓋ふたと身みに別れてもなお希望を抱いてやまない、枯野を行く自身の旅がそこからまた始まるのだ。 そんなことをかつて芭蕉も歩いたであろう平泉の中尊寺(ちゅうそんじ)から毛越寺(もうつうじ)に向かう参道で、久しぶりの物件取材の折に感じたのであった。(北東北担当 中村健二)

▲毛越寺(もうつうじ)の境内にある芭蕉句碑。