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岩手◆花巻市/千円札と感染症 ~ 宮沢トシさんのこと ~【いくぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所・中村健二

2020年11月25日

学生時代、広告マーケティング部に所属するゼミのメンバーがいた。『宣伝会議』を片手に著名なコピーライターや新進気鋭の作家の話をしながら、初代ウオークマンを聴き、夏休みを利用してアメリカ西海岸にショートステイをする。ドン・ヘンリーは1969年からスピリッツは置いていないと歌っていた。そんな時代だ。

同級生は当時の若者の最先端を走り続けているようにわたしには思えた。いわゆる貧乏学生には憧れの生き方を地で実践していたのだ。あるとき桜台駅近くの彼の下宿で酒を飲んでいると、入社の決まった広告代理店の試験問題を彼は口にした。試験論文の課題は「千円」。伊藤博文から夏目漱石へと肖像が変わることが話題にもなっていたころだ。

「そうしたお札のことを書いた奴らは全部落とされたんだ」と彼。

「で、きみはなにを書いたんだい?」わたしは尋ねる。

「いいかい、中村ね。大事なのはお札の話しではなく、ボードリヤールが提唱してきたその記号論的な価値であって、ケインズが言う深層構造においては、、、」。まあ、その時代における貨幣価値と商品とのバランスが大事だということのようだ。

その後、広告業界の大海原に漕ぎ出した彼は、現在無事定年延長を迎えたと聞く。

▲ 第158回直木賞受賞作『銀河鉄道の父』。2018年刊。

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2024年に新札が発行されるという。千円札の新しい顔になるのは北里柴三郎(きたざとしばさぶろう)。まさかなにかを予見していたわけでもなかろうが、日本の細菌学の父とも言われる。ペスト菌を発見したとされ、世界で初めて破傷風菌の培養に成功するなど、感染症医学の世界的権威として知られている方だ。

ペリーが来航した前年幕末の1853年(嘉永7)に生まれ、満州事変勃発の1931年(昭和6)にお亡くなりになっている。山梨県韮崎市出身で2015年にノーベル生理学・医学賞を受賞された大村智(おおむらさとし)先生もその教え子のおひとりだ。虫や小動物が媒介する感染症は今も昔も人類にとって大きな難敵となっている。

宮沢賢治には夭折した二つ下の妹がいる。名前はトシ。その妹への「永訣(えいけつ)の朝」には(あめゆじゆとてちてけんじや)(「雨雪を取ってきて、賢治さん」とでも訳すのか)という括弧書きのフレーズが繰り返し出てくるが、花巻の晩秋の、雪のようにすきとおった雨が賢治の心象風景と重なっているかのようだ。

それにも増して生前トシが、花巻の実家で病に伏せていた祖父に宛てた手紙を、わたしは『銀河鉄道の父』の中で初めて知った。聡明なトシの淡々と語る言葉の力勁(ちからづよさ)は柔らかな愛情に満ちている。

「おじいちゃん、今日のいちにち云いわけのような心持ちはなかった?」などと。この点では賢治よりもすごいのだ(とわたしは感じた)。

そのトシは今から百年前に世界的な大流行を起こした感染症にも罹っていたという。しかしながら賢治が完璧なまでの予防策をとったおかげで花巻へ帰省することができた。そして教鞭を取るまでに回復したが1922(大正11)年11月27日に結核により永眠する。24歳だった(磯田道史著『感染症の日本史』2020年)。

『注文の多い料理店』は、そのトシが賢治にいつも勧めていた童話作家としてのなりわいが大成していくみごとな結実であったのだった。(北東北担当 中村健二)

「宮沢賢治記念館」(岩手県花巻市矢沢第1地割1−36)

岩手◆一関市・奥州市/北東北物件探しの旅 ~ 吉里吉里国から人首へ ~【行くぞ北東北!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所・中村健二

2020年4月30日

▲骨寺村は中尊寺のかつての荘園がいまも残る場所。

吉里吉里国(きりきりこく)から人首(ひとかべ)へ

東北本線を走る車両が仙台を過ぎ、岩手との県境にさしかかると、突然東北弁が車内放送から流れ始めた。吉里吉里国が日本国から独立した瞬間だった。作家井上ひさしが描いた『吉里吉里人』(1981年刊)の冒頭だ。売れない三文作家の主人公・古橋と名前が同じだったわたしは、我がことのように井上の流れるような筆致と展開に引き込まれていったことを記憶している。

新幹線一ノ関駅あたりは北上川が作り出した肥沃な流域に広大な農地が広がり、それが途切れた西の山裾(やますそ)には平泉の世界遺産構成群が千年の都を静かに伝えている。十七世紀の終わりには松尾芭蕉も中尊寺を訪れ光堂の名句を残した。

東の山裾は桜の名所で西行法師が京に模すると絶賛した束稲山(たばしねやま)が横たわる。現代の「はやぶさ」は平均時速二百五十キロ以上の高速で移動していく。巻き上がる旋風によって吉里吉里人が話す流暢な東北弁はかき消され、それが入る余地はもはや無いようにもみえる。

地形的には奥羽山脈の東側では「くりこま高原」などの高山がそびえているため、それを乗り越えてくる雪は骨寺村や厳美渓ぐらいまでか。極端な標高差があるわけではないが、低山が広がる花巻市と比較するとこのあたりの降雪量は少なめだという。ことに今年の冬はまったくと言っていいほど雪はない。個人的には残念だ。

さて、遠野で用事を済ませたのち、もう一つの目的地である奥州市(おうしゅうし)江刺米里(えさしよねさと)へ向かった。関東在住の方が田舎暮らしをしたいと十数年前に都内の業者から購入した物件の売却相談があり、所有者の了解のもと今日はその物件の現況確認をする日だった。住所は特定できる。が、衛星写真では建物らしきものは写っていない。嫌な予感がした。

川に沿って県道水沢米里線を南下していくと右手に緑青色の山肌と、その手前には無人と思われる砕石工場が威容な姿をあらわしていた。さらに県道を進むと、川を過ぎたとたん急カーブが出現し、その両脇に歴史の重みを感じさせる町並みが突然姿をあらわした。旧街道筋に入ったのだ。

▲人首地区入口の急カーブ。

▲賢治が旅館から見たような町並みが残る。

そこは「人首(ひとかべ)」と言われる地区でその名前に思わずたじろいでしまう。平安時代の「蝦夷(えにし)」伝説が息づく町と言われ、江戸期の伊達藩時代には街道の御番所もあった。明治期に入ると坂本龍馬のいとこが日本で初めてロシア正教の教えを駐在する役人に説いた。そしてビザンチン様式のハイカラな教会も建てられたという(しかし昭和8年の大火で焼失)。歴史的に見ても国内外の交流が盛んに行われてきた宿場町だ。

そして宮沢賢治もここを二度訪れている。最初は盛岡高等農林学校在学中の1917(大正6)年のことだ。地質調査で初めて江刺を訪問している。先ほどわたしも見た青い山肌もきっとご覧になり調査されたはずだ。

二度目は花巻で教壇に立っていた1924(同13)年。過酷な地質調査のため、自身の寿命があと15年だと知己にこぼしたあとのこと。この時は遠野側から峠越えをし、詩も創作している。一泊の旅。この日賢治の逗留した「菊慶旅館」は2011年に起きた東日本大震災で大打撃を受けてしまう。六つあった客室の天井の一部が崩落するなど建物は大きく損壊し、岩手県知事も宿泊したという名門旅館は廃業を余儀なくされてしまった。そして多くの方々に惜しまれつつ昨年秋に取り壊された。

▲街道筋に建つ趣のある洋風の家。

人首で味わった高揚感を体のどこかに残しながらさらに南下。無人の小学校を過ぎ「チェーン着脱場」の標識にさしかかると、道路脇の雪がいちだんと増え始めた。目指す物件はもうすぐだ。

急な坂道を登っていくと数軒の集落があった。軒の深い民家がほどよく点在している。岩手の奥座敷に位置し農家民宿でもできそうな築百年を超えるほどのどっしりとした民家群だ。

携帯電話の衛星写真が指し示す物件の場所は雪に埋もれた道なき道の先だ。どうやら幅一メートルほどのこの道らしきところを行けば、売却相談を受けた物件にたどり着けるだろう。そう見当をつけて雪道での歩き方が下手なわたしは雪に足を取られながらゆっくりと一歩ずつ進む。百メートルほど行くと山から湧き出てきた水の流れがあった。そこが里と山の境のようだ。その境目に三軒の「家」が並んで建っていた。目指した物件はそのうちの一軒だった。

東北電力の古びた郵便物の住所地が所有者から教えられた所在地と一致したのだ。そこでわたしの見たものは、無残にも屋根が落ち、いたるところにカビが生えてしまった「家」であった。かつて人の住まいであったものがいわば「廃墟」と化していたのである。

時の過ぎ行くにまかせて人の手が入らずに朽ちつつあったのだ。放置され続けながらも風雪に耐えてきた「家」は、近い将来には確実に自然に帰す運命にあった。雪の中でたたずむ三軒は寄り添いながらその日を静かに待ち続けているようでもあった。

今回は、吉里吉里国も賢治の旅館も物件もいずれもタスキを引き継ぐことなく、わたしの中では残念ながら終わりを告げてしまった。こんなこともある。これが初めてでもないし最後でもないのだから。(北東北担当 中村 健二)

▲雪の中で育つタラノ木。

岩手◆花巻/「雨ニモマケズ」の心に感慨を憶えまして【みちのく岩手・新遠野】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/佐々木 泰文

2019年9月28日

▲庭園に佇む賢治の像。

岩手県花巻市は宮沢賢治のふるさとで、この度「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」の建物を見学してきました。

同施設は岩手県立花巻農業高等学校の敷地内に宮沢家の別宅(花巻市桜町)にあった建物を花巻農学校同窓会が賢治先生の教えを繋ごうと、この地に移築して管理しているものでした。

賢治先生は農学校の教師をしていましたが「農民との共生」と、ご自分の思想を探求すべく教員を辞めて、農民のための私塾「羅須地人協会」を設立しました。そしてこの建物で農耕自炊をしながら無償で「肥料設計」や「稲作指導」等に奔走するとともに、楽器演奏を楽しむなど、多彩な活動の拠点としたそうです。

建物の入口の横の「下ノ畑二居リマス」と記された黒板が迎えてくれ、中に入ると「風の叉三郎」のモデルになった方が着ていたマントが展示されており、一階の十帖のリビングには、当時の塾の面影と懐かしい写真類、そして、縁側から見える庭園(羅須庭園)と、遠くには賢治先生の銅像が静かな時間を醸し出しています。

おそらく、かの「雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・」の精神が、この施設での活動の柱であったろうと感慨を憶えるのでした。

賢治先生に関わる施設としては「童話村」や「記念館」も近くにありますので、是非お寄り頂きたい処です。
(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

「羅須地人協会」(〒025-0004 岩手県花巻市葛第1地割1−68)

岩手◆花巻市/湯処のメッカ花巻温泉にて、賢治と小生過去を思いまして【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/佐々木 泰文

2017年12月4日


寒くなってきたので、近場の温泉にでも入ろうと、岩手の花巻温泉郷に行ってみたのですが、晩秋にもかかわらずバラ園があったので寄ってみました。すでにバラの花は最盛期を終えて寂しい状態でしたが、周りの樹木の紅葉は真っ盛りで、園内の草花とのコントラストが美しく、夏にはない清閑な雰囲気でした。





入口から上り斜面に向かって進むと、宮沢賢治の詩碑があります。そこに賢治の手紙の写しが展示されていたので読んでみると、なんと此のバラ園は昭和二年に「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)※1」時代の賢治が設計した「南斜花壇設計」に基づいたものなのだと書かれていました。




かの詩人がこの丘から温泉郷の山々と旅館郡を此処から見下ろしたのかと思うと感慨深いものがあります。


そんな園の中に客もまばらな売店があったので、コーヒーを注文して景色を眺めていました。ふと思い出されたのは自分が幼い頃に、亡き祖父母に毎年花巻温泉へ湯治に連れてこられた時のこと。当時の軽便鉄道(※一般的な鉄道よりも規格が低く、線路幅が狭いなど、安価に建設された鉄道をいう)みたいな小さな温泉列車に乗って来た記憶です。

昭和三十年代のレトロな景色が甦り、懐かしさと優しかった祖父母の面影が去来する何とも言えない哀愁を感じている自分は、帽子とコート姿で、まるで焼酎の「二階堂」のCMそのものの再現です。

帰りは古い小さな旅館の小さな温泉で温まりました。癒された一日でした。
(みちのく岩手事務所 佐々木 泰文)

※1 1926年(大正15年)に宮沢賢治が現在の岩手県花巻市に設立した私塾。協会と冠するものの、実質賢治一人の手によるもので、自ら科学や農業技術、農民芸術を周辺農民に講義したとされる。

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花巻温泉「バラ園」   岩手県花巻市湯本第1地割125

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