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北海道◆北海道/冬の到来は雪虫で【北の国から・編集スタッフ進行日誌】

この記事の投稿者: 編集

2021年10月30日

10月中旬から下旬ごろに北海道では「雪虫」が飛び交います。「雪虫」とは体長5㎜前後の小さく綿で包まれた虫で、飛び方が雪のようにふわふわと飛ぶので「雪虫」と呼ばれています。

「雪虫」を見て秋の終わりと冬の訪れを感じ、そろそろ雪が降るのかと思うのです。まさに「北海道の風物詩」といえます。

「雪虫」は人を避けずに突進してくるため必ず頭や服についてしまいます。自転車やバイクを乗る人は目や口に入ってしまうこともあるので厄介です。それゆえ帰宅時の玄関先では頭や服に付いている雪虫を払い落してから家に入るのがこの時期のルーティンとなります。

東京では「雪虫」を見ることもないので上京した年は少し違和感を覚えましたが、それも年が経つにつれて何も感じなくなりました。「雪虫」を当たり前だと思っていた当時は「雪虫」に対して何も感じませんでしたが、今思うと季節を感じさせてくれる雪国ならではの虫なので感慨深いものです。(本部 井上美穂)

山梨◆甲府市/まぐろと甲州人の密なる関係【来てくれんけ甲斐路!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年10月27日

▲県立博物館。今年は信玄公生誕500年にあたり、平山優先生の記念講演会もあった。(わたしは抽選でハズレました)

「博物館」は地域の歴史とそこに暮らした人々のかけがえのない「遺産」である。

身近なところでも、北杜市の「郷土資料館」や隣町にある長野県富士見町の「井戸尻考古館」などはスタッフの腰を据えた取り組みが良く知られてもいるが、わたし的には「和算」の資料がものすごい岩手県一関市と「宿場町の変遷」を克明に伝える静岡県富士市の博物館が印象深い。

以前、「山梨県立博物館」で耳慣れぬ言葉を聞いたことがあった。魚にまつわる話だ。

山梨県人はいまも老若男女を問わずまぐろの赤身が本当に大好きなようだ。寿司屋に「赤身」、蕎麦屋に「鳥モツ」、である。かつて、駿河湾で捕れた新鮮な魚介類を内陸部まで運んでいた時代。生の魚を腐らずに移動できるそのギリギリのラインが「甲府」だというのである。このラインを「魚尻線(うおじりせん)」と呼ぶ。それはわたしが初めて聞いた言葉だった。

▲厳美渓に行く途中にある一関市立博物館。(岩手県一関市)

そのころの「江戸前寿司」はいまよりずっと大きかったという。そのネタである魚介類を酢漬けや塩漬けにすることもなく食することができたのだ。内陸部に生きる甲州人は逆説的に生のまぐろを食べることに徹底的にこだわってきたのである。そこには命をかけた決死の努力が見て取れる。いま、回転寿司も含めて寿司屋が静かに盛り上がっているのはこうした背景があるからかもしれない。個人的には甲府の「かんぴょう巻き」はとても美味だと思いますが。

また、県立博物館には近海で捕れたと思われる「サメの骨の標本」もあった。なんと「サメの解体ショー」が甲州商人や街道往来の旅人の面前で演じられていたらしいのだ。「勝沼の白ワイン」は和食に合うといわれるが、生魚を食べる文化が生んだといわれれば合点がいく。山梨県人恐るべし、である。

▲往時をしのぶ街道筋。(笛吹市八代町)

さて、駿河湾で捕れた魚介類はどのようなルートで魚尻線の「甲府」まで運ばれてきたのか。いま明らかになっているのが次の三つのルートである。

その1)沼津~御殿場~河口湖~芦川ルート
駿河湾の北東に位置する「沼津港」からは、富士山の東側を進む。御殿場を抜け富士五湖の東側を通り、鳥坂峠の難所を行き甲府盆地に入る。「新東名」と結ばれた現在の「東富士五湖道路」と「若彦トンネル」を行く。「鎌倉街道ルート」だ。

その2)吉原~富士宮~精進湖(しょうじこ)~左右口ルート
駿河湾の北に位置する「吉原」からは、富士山の西側を進む。大迫力の富士山を正面に浅間大社(せんげんたいしゃ)から北上し富士五湖の本栖湖、精進湖を通過し、左右口(うばぐち)へ下る。家康公が入甲した際にも使われていた。「中道往還ルート」だ。

その3)駿府~清水~南部~身延~鰍沢(かじかざわ)ルート
駿河湾の西に位置する「府内」からは、富士川を進む。急峻な山あいのわずかな河岸段丘のへりを通り、直線方向に北上する。和紙、硯、印房(いんぼう)、楮(こうぞ)、温泉など地場産業の盛んな地域で舟運も栄えた。これが「駿州往還ルート」だ。

▲道の駅「なんぶ」には人気の三色まぐろ丼のほか南部茶の試飲コーナーもある。

これらのルートからは生モノを傷ませない工夫が見てとれる。富士山の東西の両ルートは険しい山道なのだ。標高的には800~1000メートル近い。少しでも涼しい気象条件を選んで運ばれるが、そこは峠道である。特に夜間は人通リがあるわけでもなく夜警団を組んでの行脚にはリスクが潜む。夜道の明かりも少なく盗賊や追いはぎそして身の危険があったことは容易に推察される。命を賭したルートだったのだ。

この8月29日午後4時。「中部横断自動車道」の最後の13キロ余りが開通し、これで同南部区間が全線開通した。これまでより20 分ほど短縮され、静岡と甲府が90 分ほどで結ばれたのだ。それは富士川沿いの「駿州往還ルート」だった。

わたしはその日東海道・金谷宿と茶畑の台地にできた空港に出かけていた(11月号でそのことを書きます)

夕方清水インターから北上するわたしが見たものは・・・東名高速道路方面へ向かう引きも切らない車列であった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲現在の清水港。駿河湾フェリーの発着所はワクチン接種会場となっていた。

本部◆東京/自由に旅行ができるようになったら【本部スタッフ・日々の暮らしより】

この記事の投稿者: ふるさと情報館・本部スタッフ

2021年10月24日

昨年に続いて、コロナがニュースの主役の日々が続いています。

オリンピック・パラリンピックも開催され、大きな話題になりましたが、思いっきりお祭り気分!にはなれませんでした。

旅行など、移動を伴う行動にいろいろと制限をかけられた昨今、少し前の事ですが、東京駅で「ご当地インスタントラーメンフェア」を見かけました。

【グランスタ東京】期間限定ショップ「ご当地インスタントラーメンフェア」
https://www.gransta.jp/news/info/gotoutiinsutantoramenfea/

普段は成田や羽田空港で販売している品や、「うにラーメン」等、各地の名産品を使ったラーメン。ご当地のゆるキャラ?や、キリンやパンダ等動物がデザイン化されパッケージに印刷されているものなど、珍しくてきれいで、楽しく見て回りました。

インスタントラーメンですので、お高めなものでもそれなりの値段で手を出せないという程ではありませんでした。

あらためて、自由に旅行ができるようになったら、いろんな場所に行きたいな、と思いました。

その時は、私たちもイベントなど盛り沢山に企画して皆さまをご案内したいと思っています。(本部 杉田 玲子)

山梨◆八ヶ岳/「育てられない女」家庭菜園を始めました【八ヶ岳スタッフ・日々の暮らしより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2021年10月21日

4月に下の娘が県外に出て、5人で始まった移住生活が、とうとう夫と二人になってしまいました。

子供の送迎に費やされていた時間が突如空白になり、子育ての終わりのあっけなさを思い知った春でした。

何を思ったか夫が庭に小さな畑を作り、初心者向けの野菜の種を買ってきました。

枝豆、えごま、バジルを蒔き、移住12年ついに畑デビューを果たしました。

実は私、サボテンを枯らしたことがあり、数々の観葉植物も残念な最期を迎えさせてしまった「育てられない女」です。

再犯が心配されましたが、今回はなんとか我が家の食卓に上ることができました。

枝豆がなかなか膨らまない心配、えごまは料理の腕が追い付かず、活用しきれなかったという後悔、調子に乗って植えたズッキーニは中指くらいの上品な大きさにしかならなかったという失望。

1畳ほどの畑で様々な感情と向きあう事ができました(大げさ)。

ゆるい家庭菜園、来年は愛してやまない「モロッコいんげん」を育ててみたいと思っています。(八ヶ岳事務所 原 きみえ)

福島◆全エリア/移住700世帯超・・・少しずつ、少しずつ【地域深堀り・のぞむ歴史紀行】

この記事の投稿者: ふるさと情報館・本部スタッフ

2021年10月18日

令和2年度に福島県内に移住した世帯は723世帯となり、前年度の509世帯から大幅に増加となりました。

これは県が調査を始めた平成18年度以降最多。主には東京、神奈川、千葉、埼玉の一都三県が全体の52%となり、全体の半数以上が関東からの移住。

年代別でみると、20代以下が33%。30代が28%。40代が12%。50代が11%。60代以上が16%と若い世代の移住が進んでいています。震災前は50代以上が70%以上だった割合が逆転し、30代以下の世代が6割を超えて来ました。

都市への一極集中から、コロナを経て働き方の多様性が進み、働く場所を問わない方の増加がこの様な結果になったのも要因の一つかと思います。

震災から10年が経ち、未だ浜通りの浪江町など制限が掛かる場所もありますが、お隣り、葛尾村ではTOKIOが荒れた田んぼを甦らせ、美味しい米を目指して活動を再開しました。

少しずつではありますが、震災を乗り越えて「元気な東北」「美しい福島」が戻る事を願っております。(本部 長内 望)

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福島県12市町村移住支援金について
https://www.pref.fukushima.lg.jp/sec/11050a/fuku12-ijushienkin.html

※12市町村(田村市、南相馬市、川俣町、広野町、楢葉町、富岡町、川内村、大熊町、双葉町、浪江町、葛尾村、飯舘村

宮城◆大崎市~加美町・その2/おくのほそ道「尿前の関」とバッハホール【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年10月15日

▲偶然にいざなわれる、ここがあの「おくのほそ道」。

鳴子峡(なるこきょう)は「出羽仙台街道」の宮城県境にある。その名のとおり伊達藩(宮城)と出羽藩(山形)を結ぶ交通の要衝地だ。

当然戦国時代より警備は厳しく、街道の難所であるここ「鳴子峡」には伊達藩により関所が設けられていた。「尿前(しとまえ)の関」である。

偶然、「鳴子峡」からの戻り道、国道沿いに看板を見かけ、ここが「おくのほそ道の尿前か!」とわたしは初めて知ることができたのだった。

▲国道47号線沿いの看板。この看板に気づかなければ、この新しい出会いを得ることができなかった。

渓谷のスケールでは八ヶ岳をしのぐほどだ。江戸時代、芭蕉のこの東北行脚の中では難所中の難所、あの筆マメかつ健脚で鳴らす同行者・曾良(そら)ですら、この先、中山越えについては疲弊しきりで一言も書いてはいないといわれるほどの場所。それがここ「尿前」なのだ。

わたしはもう一度、国道47号線から108号線に入り、ナビで指し示す関所跡地へと車を走らせた。ガードをくぐり民家の建ち並んだ入り口の空き地に車を停めた。なにかしらその先は徒歩で行くべき気がしたからだ。

車を降りてあたりと見渡すと動物が2頭こちらを向いているではないか。一瞬身構えたがヤギが鎖に繋がれていたのだった。

▲ヤギと出くわす。いつの時代でも人間と寄り添う家畜たちは、つぶらな瞳で私に何かを伝えようとしている。

石畳で整備された道を山の方へと上がっていく。突然今度は家の軒下で休んでいるふたりの旅人がいた。恐る恐る「あのー、関所跡はこちらで良いのでしょうか?」と尋ねてみたが返事は無し。視力は中学生のころから悪くなる一方で、わたしはそこに座る人形に聞いていたのだった。

よくよく目を凝らしてみれば、その装束から芭蕉と曾良、である。誰がなぜそこに作って置いたかは不明だが、ここを同行二人が通行したのは間違いなさそうだ。

▲時空を超えて、私は芭蕉と曾良の魂に語りかけていたのではないだろうか、とすら思えてならない。

さらに隣の家には道路工事人の人形もあるではないか。こちらは現代風。おそらくはこの石畳は俺がこしらえたのだとでも言わんばかりに意気軒高だ。

そこから100メートルばかり上っていくと平坦な場所に出た。道はこの先も細く細く森の奥へと続いて行く。ここからは「中山越え」といわれる。

わたしはもはやこの先を断念し、視界の開けた平坦な場所を歩いてみた。碑文と芭蕉の像。関所が建っていた場所を思わせるような石積みが6段ほどあるのだ。

▲荘厳な山の中に、人々を隔絶する関所跡が今もここに。

330年以上経つが、その石積みには威厳があり今もって威圧感すら漂わせている。ここで芭蕉たちは関所のきつい取り調べに遭い、蚤やシラミの攻撃や馬の糞尿で夜も寝られず、ついにはこの先のハードな峡谷を越えて行くことになったのだ。

芭蕉たちがこの「尿前の関」にたどり着いたのは、元禄2年(1689年)の旧暦5月15日(新暦は7月1日)といわれる。この時代は富裕な町人の出現により、光琳や西鶴、近松などのいわゆる元禄文化が花開いたころでもあり、同15年には赤穂浪士の吉良邸討ち入りがあったことでも知られる。

しかしその翌年、元禄地震といわれる巨大地震があり元号も「宝永」に改められている。一世を風靡した絢爛豪華な文化と生命を脅かす自然災害。そこに生きる人々の暮らし。われわれはこうした先人たちに学ぶべきことが多い。 俳人の長谷川櫂氏は、『おくのほそ道』を前半と後半、そして全体で4つの章に分類している。

「白河の関」までと「歌枕」を訪ねる前半、そして難行苦行したこの「尿前の関」以降の後半。「山寺の蝉」から「天の川」へ、そして市振(いちぶり)の遊女や曾良との別れ。150日といわれる長い旅の行程において、この後半こそ、旅を人生とする芭蕉の深遠な息づかいが聞こえる真骨頂なのだ。それを「かるみ」と表現する(『「奥の細道」をよむ』より)。

▲バッハホールのパイプオルガン。ひと度演奏が始まれば、神聖な音色が私の魂を貫くのだろう。

仙台に戻る途中、わたしは加美町(かみまち)中新田(なかにいだ)にあるという「バッハホール」をぜひ見たいと思った。ホールはワクチン接種会場としても使われているという。

ご多忙のスタッフに案内していただき、わたしは生まれて初めて、誰もいないホールの中央に据えられている圧倒的なパイプオルガンを見せていただいた。次回はぜひともこの音を生演奏で聴きたいと強く思わせるものであった。

「芭蕉の旋律」と「バッハホールのパイプオルガン」。今回はこのダブルキャストに恵まれた取材となったのだった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

東京◆本部/人情に触れるひととき【本部スタッフ・ふるさと見聞録】

この記事の投稿者: ふるさと情報館・本部スタッフ

2021年10月11日

「すみません、1時間位遅れます!」

「大丈夫ですよ」

出張先での私と旅館の方との会話。宿泊を伴う出張の場合、所用のある明日の場所までかなりの距離がある時があります。

因みにこれまでの初日の現場から宿泊先まで、私の車での一日の最長移動距離(千葉県館山市から新潟県新発田市)は約450㎞。日中、四谷事務所で業務をし、前泊のために夕方(夜)東京を出発することもあります。

移動距離が長いと時間通りに到着しないこともあり、冒頭のような会話をすることも時々。学生時代、ユースホステルを利用し全国を旅していた時分から現在に至るまで、あちこち移動することを苦に感じたことはありません。

車の運転も好きですし。途中、新しい道路(バイパスやトンネル)を避け、あえて険しい山道を走ったりもします。その方が地域の環境や自然を身近に感じられることもあります。そのような性格のため宿泊先も可能な限りビジネスホテルでなく個人民宿を選んでいます。

無機質な決まりきった対応のホテルマンとは違う時間を過ごす。方言丸出し寝ぐせの残るご主人、普段着の女将さんと気さくな話をすることでその地域のことを知り、知識、見聞、人生の肥やしとすることは、田舎物件を扱うことでも参考になります。

夜遅くに寝巻きで出迎えてくれた日南市のご主人、原爆の被害に遭われた長﨑の女将さん、脱サラして古民家民泊を始めた瀬戸内海の小島のご主人。その他、多々。皆さんとの出会いは、不動産売買の売主さん、買主さんと同じく貴重な出会いです。特にこのコロナ禍では・・・。(本部 金澤 和宏)

◆◆◆来たれ旅人・田舎好き人間!◆◆◆
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岩手◆遠野/遠野産・とれたてホップ【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2021年10月7日

▲1年の内約3週間だけフル稼働する「ホップ工場」。

例年以上に暑かった夏も終わり、遠野市は一気に秋の気候になってきました。秋と言えば実りの季節、自然の美味しい恵みをおつまみにビールをいただく機会も増えるのではないでしょうか?

ビールの原料となるホップ、その生産量日本一(令和2年)を誇る岩手県の中でも、みちのく岩手事務所のある遠野市は、有数のホップの産地として知られています。遠野市では毎年お盆明け頃からホップの収穫が始まり、約3週間の短い期間に、市内全ての圃場で収穫されたホップを乗せたトラックが市内上郷町にある「JA いわて花巻ホップ加工処理センター」(通称:ホップ工場)へと次々に運び込まれます。

キリンビール株式会社から毎年発売される『キリン一番搾りとれたてホップ生ビール』は、収穫後24 時間以内に急速冷凍させて使用するという製法により、とてもフルーティーな香りと味わいが楽しめるのが大きな特徴で、毎年人気の商品となります。2004年より始まり、18年目となるとれたてホップも、今年の発売が11月2日に決定しました。全国の店頭で販売される他、遠野市の「ふるさと納税の返礼品」としての予約も始まっています。今年の遠野の味を、皆さんも是非味わってみてください。(みちのく岩手事務所 佐々木泰文)

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