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山梨◆甲府市/まぐろと甲州人の密なる関係【来てくれんけ甲斐路!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年10月27日

▲県立博物館。今年は信玄公生誕500年にあたり、平山優先生の記念講演会もあった。(わたしは抽選でハズレました)

「博物館」は地域の歴史とそこに暮らした人々のかけがえのない「遺産」である。

身近なところでも、北杜市の「郷土資料館」や隣町にある長野県富士見町の「井戸尻考古館」などはスタッフの腰を据えた取り組みが良く知られてもいるが、わたし的には「和算」の資料がものすごい岩手県一関市と「宿場町の変遷」を克明に伝える静岡県富士市の博物館が印象深い。

以前、「山梨県立博物館」で耳慣れぬ言葉を聞いたことがあった。魚にまつわる話だ。

山梨県人はいまも老若男女を問わずまぐろの赤身が本当に大好きなようだ。寿司屋に「赤身」、蕎麦屋に「鳥モツ」、である。かつて、駿河湾で捕れた新鮮な魚介類を内陸部まで運んでいた時代。生の魚を腐らずに移動できるそのギリギリのラインが「甲府」だというのである。このラインを「魚尻線(うおじりせん)」と呼ぶ。それはわたしが初めて聞いた言葉だった。

▲厳美渓に行く途中にある一関市立博物館。(岩手県一関市)

そのころの「江戸前寿司」はいまよりずっと大きかったという。そのネタである魚介類を酢漬けや塩漬けにすることもなく食することができたのだ。内陸部に生きる甲州人は逆説的に生のまぐろを食べることに徹底的にこだわってきたのである。そこには命をかけた決死の努力が見て取れる。いま、回転寿司も含めて寿司屋が静かに盛り上がっているのはこうした背景があるからかもしれない。個人的には甲府の「かんぴょう巻き」はとても美味だと思いますが。

また、県立博物館には近海で捕れたと思われる「サメの骨の標本」もあった。なんと「サメの解体ショー」が甲州商人や街道往来の旅人の面前で演じられていたらしいのだ。「勝沼の白ワイン」は和食に合うといわれるが、生魚を食べる文化が生んだといわれれば合点がいく。山梨県人恐るべし、である。

▲往時をしのぶ街道筋。(笛吹市八代町)

さて、駿河湾で捕れた魚介類はどのようなルートで魚尻線の「甲府」まで運ばれてきたのか。いま明らかになっているのが次の三つのルートである。

その1)沼津~御殿場~河口湖~芦川ルート
駿河湾の北東に位置する「沼津港」からは、富士山の東側を進む。御殿場を抜け富士五湖の東側を通り、鳥坂峠の難所を行き甲府盆地に入る。「新東名」と結ばれた現在の「東富士五湖道路」と「若彦トンネル」を行く。「鎌倉街道ルート」だ。

その2)吉原~富士宮~精進湖(しょうじこ)~左右口ルート
駿河湾の北に位置する「吉原」からは、富士山の西側を進む。大迫力の富士山を正面に浅間大社(せんげんたいしゃ)から北上し富士五湖の本栖湖、精進湖を通過し、左右口(うばぐち)へ下る。家康公が入甲した際にも使われていた。「中道往還ルート」だ。

その3)駿府~清水~南部~身延~鰍沢(かじかざわ)ルート
駿河湾の西に位置する「府内」からは、富士川を進む。急峻な山あいのわずかな河岸段丘のへりを通り、直線方向に北上する。和紙、硯、印房(いんぼう)、楮(こうぞ)、温泉など地場産業の盛んな地域で舟運も栄えた。これが「駿州往還ルート」だ。

▲道の駅「なんぶ」には人気の三色まぐろ丼のほか南部茶の試飲コーナーもある。

これらのルートからは生モノを傷ませない工夫が見てとれる。富士山の東西の両ルートは険しい山道なのだ。標高的には800~1000メートル近い。少しでも涼しい気象条件を選んで運ばれるが、そこは峠道である。特に夜間は人通リがあるわけでもなく夜警団を組んでの行脚にはリスクが潜む。夜道の明かりも少なく盗賊や追いはぎそして身の危険があったことは容易に推察される。命を賭したルートだったのだ。

この8月29日午後4時。「中部横断自動車道」の最後の13キロ余りが開通し、これで同南部区間が全線開通した。これまでより20 分ほど短縮され、静岡と甲府が90 分ほどで結ばれたのだ。それは富士川沿いの「駿州往還ルート」だった。

わたしはその日東海道・金谷宿と茶畑の台地にできた空港に出かけていた(11月号でそのことを書きます)

夕方清水インターから北上するわたしが見たものは・・・東名高速道路方面へ向かう引きも切らない車列であった。(八ヶ岳事務所 中村健二)

▲現在の清水港。駿河湾フェリーの発着所はワクチン接種会場となっていた。