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長野◆茅野市/危険な石とおもいきや【本部スタッフ・ふるさと見聞録】

この記事の投稿者: ふるさと情報館・本部スタッフ

2022年11月29日

▲茅野駅ホームの黒曜石 。

茅野駅にて新宿行きのあずさを待つホームに黒曜石が置いてあった。ホームに石(?)、躓いて転んで線路に転落でもしたらと心配になった方もいると思うが、1㎡くらいの大きな黒曜石なのでご安心を。

黒曜石とは火山岩の一種で外見は黒くガラスとよく似た性質を持ち脆いという欠点はあるが、割れ口が鋭く加工しやすいため、3万年を超える旧石器・縄文時代から弥生時代の中頃までに石器の原料として人々の生活を支えてきた。

日本列島には100ヶ所以上の黒曜石の原産地があり、その中でも長野県中央部に位置する和田岬・霧ヶ峰から八ヶ岳にかけての地域は、本州最大規模の黒曜石原産地で、日本を代表する良質な黒曜石がとれる場所だ。

駅ホームにあったのは、冷山(つめたやま)黒曜石で地域の名物として、いつのころかに置かれたらしい。

茅野駅から車で約50分のところに「星くずの里たかやま黒曜石体験ミュージアム」があり、黒曜石でペンダント等をつくる体験プログラムもある。また明治大学黒曜石研究センターが隣接している。

人々の生活に欠かせないスマートフォン。画面のカバーガラスに毎日触れているが、火山が生み出した天然ガラスの黒曜石にも触れてみるのも良いと思う。(本部 角南辰彦)
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星くずの里たかやま黒曜石体験ミュージアム
住所:長野県小県郡長和町大門3670番地3
電話番号:0268-41-8050
開館時間:9:00〜16:30
休館日:月曜日(祝祭日の場合は翌日)・年末年始
※諸事情により現在ホームページは見れない状態です。(長和町のホームページより抜粋)

東京◆本部/鴨居を持ち上げ、襖を動くように直す【本部スタッフ・ふるさと見聞録】

この記事の投稿者: ふるさと情報館・本部スタッフ

2022年11月26日

▲大掛かりな家の修復のイメージ。今回は鴨居の持ち上げです。

建物は築年数が経つにつれ、若しくは地震や土地の沈下により、柱や梁、土台などの躯体に歪みが生じることがあります。

その歪みや傾きが均等(均一)に生じてくれればそれほど気にはならず、使用に支障はありません(個人差はありますが)。

ただ縦方向の歪みは建具の開閉が出来なくなる場合があります。

この度、その縦方向の歪みが生じ、襖が動かなくなった物件に遭遇しましたので鴨居を持ち上げてみました。

その物件は築150年の十日町市の古民家(2022年6月号掲載。既売却済み。)。当(まさ)に雪国特有の豪快な太い躯体。築150年で2階建てのため鴨居が下がり、仕切り戸(襖)が嵌り、動かなくなっていました。

▲2tジャッキで2階建ての鴨居も持ち上げられる。

用意したのは「2tジャッキ、5㎝四方の木の棒、養生用の板、鉋(かんな)」。上の写真のようにジャッキをセットし、ハンドルを上げ下げするのに呼応し、周囲の木がミシミシと唸り声を上げ、鴨居が少しづつ上がって行きます。

実感として1㎝位上げたところで襖が動くようになり、外す。ここでジャッキを外してもまた戻りますので、次は襖の直し。鉋(かんな)で上下を均等に削る。

窪みのところは際(きわ)鉋で削る。必要に応じて鴨居と敷居の溝を溝鉋で掘る。これを応用して床の傾きも直すことができます。

皆さん、面白いので機会があれば挑戦してみて下さい。(本部 金澤和宏)

 

栃木◆佐野市/天明(てんみょう)鋳物師(いもじ)「正田忠雄」【北の国から・制作スタッフ進行日誌】

この記事の投稿者: 編集

2022年11月23日

▲「第69回日本伝統工芸展」入口前。

『月刊ふるさとネットワーク』でルーラルレポートを執筆頂いている逸見(へんみ)稔さんは埼玉県熊谷市から栃木県佐野市に移住された方です。その逸見さんより、現在佐野市で「天明鋳物」の鋳物師として工芸作品の創作に携わっている正田忠雄(しょうだただお)さんを紹介頂きました。

天明鋳物は939年、今から千年も前に藤原秀郷が平将門の乱を平定するため河内国(現在の大阪府)から5名の鋳物師を佐野に呼びよせ、武器を作らせたことが発祥とされています。正田さんはその鋳物師の末裔です。

2022年9月14日(水)~26日(月)まで東京の日本橋三越にて開催された「第69回日本伝統工芸展」に正田さんの作品が展示されました。この工芸展は秋篠宮ご夫妻の次女、佳子さまがご覧になったとニュースで報道されていました。

▲正田さんの入選作品 朧銀花入「舞妃蓮」。

入選された正田さんの作品は朧銀花入(おぼろぎんはないれ)「舞妃蓮(まいひれん)」と言います。「舞妃蓮」は東日本で最も高貴で美しい蓮(はす)と言われています。その蓮の蕾をモチーフとして花入にしたそうです。

朧銀とは銅と銀の合金で正田さんにとってはとても魅力のある素材とのことです。完成した作品は地味な色合いですが見続けていても飽きることがありません。

正田さんと朧銀との出会いは今から50年程前、それもこの伝統工芸展で出会いました。その時に展示されていた木村庄太郎さんの朧銀の作品を見て感銘を受け、木村さんを師と仰ぎました。「あの工芸展で木村さんの朧銀の作品に出合っていなければ鋳物の仕事を続けていなかった。」と正田さんは語られました。

そんな正田さんの朧銀花入「舞妃蓮」は朧銀ならではの渋い色調ながら、ひと際光沢を放っていました。形状は2つの蕾が重なった造形で、この形を表現するにはとても難しそうに見えました。2つの蕾をそれぞれ作り複合させたものかと思いきや、なんとこの形を一つの鋳型で制作されたそうです。

タイトルにもある蓮のモチーフは友人宅を訪問した際、庭の蓮の花が見事に咲いてることに心を動かされ、ご友人に蓮を分けてもらい自宅に植え代え「舞妃蓮」を思いついたとのこと。

▲笑顔が素敵な正田さん。

「作品のアイディアは夜中就寝中に思いつくことが多々あり、寝床の横に雑記帳と筆ペンをいつも欠かさず置いておくんです。お陰で夢うつつなので筆ペンのキャップをしめ忘れ、掛け布団が黒染の斑模様になっています(笑)でもそれが次なる作品の創造につながるので私にとっても重要な時間なんです。アイディアを描き溜めた図案は優に1m以上の高さになっていますよ。」と正田さん。その図案を見返してはその中に名品につながる図案がないか時々見ているそうです。

正田さんの「舞妃蓮」が展示された伝統工芸展は重要無形文化財保持者(人間国宝)の作品と共に、鑑審査を受けて入選した作品が展示されています。スポーツで例えるなら伝統工芸のオリンピックと言えるでしょう。

▲鋳型に流し込む風景。

そんな工芸展に正田さんは何度も入選され更に受賞もしています。ですが正田さんには後継者がいません。そのことについて「時代の流れなのでしょうがないです。日本は世界の各国みたいに伝統工芸を保護してくれません。どんなに優れた作品を創る高い能力を持った作家でも食べていくのが難しい時代になっています。

次の時代の子や孫達に日本文化の素晴らしさをいかに伝えることが出来るのか日本人全体の責任として深く考え、早々に行動しなければと考えています。質の高い作品の創造はますます困難になり日本人の資質にも大きな影響が及ぶと考えられます。もう既にその影響は出ているように思われます。

今の若者が日本の伝統工芸に関心を寄せ、自分自身と共に子や孫達の人生を豊かに生きる為の方法を考え、文化というものを自分の傍に置き鑑賞しつつ使用することにより工芸品の素晴らしさに気付かれると思います。」と正田さんは語られました。

現在、千年の歴史のある天明鋳物を取り巻く環境も非常に厳しい時を迎えています。最盛期には80軒1000人ほどの鋳物師が様々な作品を作っていましたが現在は4軒までに減少しています。歴史を重ねてきた天明鋳物の未来に希望と明るさを希求した施策が待ったなしに求められる時代だと思います。(本部 井上美穂)

※2022年10月号掲載「天明鋳物」はこちらから。

 

山形◆米沢市/雪ニモマケズ、運休(ウヤ)ニモマケズ。【本部スタッフ・全国乗り鉄漫遊記】

この記事の投稿者: ふるさと情報館・本部スタッフ

2022年11月20日

▲電車の旅では駅弁も楽しみの一つですね

飛行機や新幹線・高速道路が発達する以前の高度経済成長期の日本は、まだ陸上交通の主役は国鉄の在来線であり、特急列車が文字通り「特別」な急行だった頃、庶民の移動手段は鈍行か急行のどちらかでした。

当時は現代のようにコンビニやスーパーもなく、旅人たちの胃袋を満たしてきたのはいつも大きな籠をぶら下げホームを歩いている駅弁屋さん。列車が到着し「駅弁~駅弁~」と声を上げると、列車の窓が次々と開き、金銭と食料の受け渡しが行われていきます。

籠の中には駅弁の他にお菓子やジュース等も入っており、ポリ茶瓶容器の緑茶や夏期の冷凍みかんと聞いて懐かしい方もいらっしゃるのではないでしょうか。今となってはほぼ絶滅したかに思われた駅弁の立ち売りですが、駅弁ではないものの別の商品を毎日立ち売りしている駅が存在します。

※国鉄とは日本国有鉄道の略で、1987年4月1日にJR グループ(旅客6社貨物1社)へ分割民営化される前に存在した三公社五現業のうちの1つであり、北は北海道から南は鹿児島まで私鉄等を除く全ての鉄道路線を管理運営していた国の公共企業体。

▲1日上下12本の普通列車が止まる秘境駅。

▲旧4連続スイッチバック駅のうち、赤岩駅は周辺集落が無人化したため2021年3月に廃止。

ここは山形県米沢市のJR 奥羽本線(山形線)の峠駅。奥羽山脈を越える難所板谷峠の真ん中にある駅で、防雪シェルターで囲まれた駅の外は鬱蒼とした森しかない秘境駅。

かつては蒸気機関車が険しい板谷峠を乗り越えるために、赤岩・板谷・峠・大沢駅は4連続スイッチバック(※)という全国でも極めて珍しい運転区間となっていました。山形新幹線が1992年に開通するにあたりこのスイッチバックは廃止されましたが、その名残はこの特殊な防雪シェルターが物語っています。

この路線は1899年に開通し、明治から令和に至るまで毎日列車が来る度にホームに立ち続ける人がいます。その人こそが現代において絶滅危惧種である駅での立ち売りを行っている「峠の茶屋」の売り子さんなのです。

▲8個入り1,000円で販売。お釣りいらずでありがたいお値段。立ち売りだけではなく店舗でも販売中。

営業から120年以上の長い年月が経ち、現在売り子を務めているご主人は、先代から数えるとなんと5代目になるとのこと。2022年11月現在、日本国内でほぼ毎日立ち売り販売を行っている駅は、ここ山形県米沢市の峠駅と、福岡県北九州市八幡西区の折尾(おりお)駅とわずか2駅のみ。前者は「峠の力餅」という大福を、後者は「折尾のかしわめし」という三色駅弁をどちらも立ち売りにて提供しています。

ただし九州の折尾駅とは違い、奥羽山脈の真っ只中に位置する峠駅は日本有数の豪雪地帯で、冬期は遅延や運休が発生することもしばしば。予め運休が計画されている日は当然立ち売りはお休みとなりますが、列車が走り続ける限り8時~18時台に峠駅を発着する上下6本の列車で、峠の力餅の立ち売り販売を行っています。ただし停車時間は30秒と非常に短いので、購入の際は予め千円札をお持ちになり、列車最後尾のドアまでお越しください。

他の駅も昨今のコロナ禍や路線の休止で次々と立ち売り販売を取り止める中、昔ながらの立ち売りを続ける峠駅ですが、近年その活躍にも陰りが見えてきました。線路を共用している山形新幹線が、この区間を迂回する新板谷トンネルを建設する計画が持ち上がっているのです。

▲時代や環境の変化はあったものの、120年以上続く立ち売り販売はまさに国宝級の伝統文化だ

まだ着工に至っていないので、完成したとしてもまだ何十年も先の話ではありますが、もし開通すれば峠駅を含む現在の区間はほぼ間違いなく路線廃止となります。参勤交代で賑わった羽州米沢街道がある頃から、店を続けている峠の茶屋さんには、列車が走り続ける限り、雪にも負けず運休にも負けず、立ち売り販売を続けて頂きたいと心から願ってやみません。(本部 高橋瑞希)

※スイッチバック:主に急勾配を緩和するための特殊な運転方式で、 車両性能が向上した現在は不要になりつつある。
★気になった方は、山形県ホームページ内、『峠駅スイッチバック遺構』をチェック!(https://www.pref.yamagata.jp/110001/sangyo/sangyoushinkou/him_top/him_maincat3/him_09.html
JR 奥羽本線(山形線)峠駅

宮城◆加美町/鉤形(クランク)街道と薬莱(ヤクライ)富士【いくぞ東北!所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年11月17日

▲加美町の音楽の殿堂・バッハホール。

江戸時代元禄期に松尾芭蕉(1644年~1694年)が陸奥国府(みちのくこくふ)から出羽国へ奥の細道を行脚した仙台出羽街道(現在の国道47号線)はその当時整備されたばかりの、いわば新品の街道だった。くに境の「尿前(しとまえ)の関」は随一の難所ではあったものの、霜月初めまではくに境・鳴子(なるこ)の一級の景勝地として旅人の疲れを湯治場で逗留して癒すにはふさわしい場所だったに違いない。

その一本南側を走る街道が今回の舞台となる中羽前(うぜん)街道なのだ(現347号線)。このルートを使って出羽の大石田河港経由尾花沢から仙台へ向けて北前船による上方物の着物や松前物(北海道)の昆布・海産物などの交易が江戸時代を通じて頻繁に行われてきたのであった。加美町は内陸にあって日本海と太平洋を結ぶ交通の要衝地であったのだ。

当時仙台藩の関所はくに境に夏場だけ軽井沢番所が置かれただけだったが、ここが主要街道であった痕跡が実はいまもなお残っている。347号線を車で行けばすぐにわかる。ひと言でいえば走りにくい。出入りがしにくい。なぜなら町中を走る国道が鉤形なのだ。

こうした事例は山梨県甲府市の国道411号線にも見られる。武田信玄の時代以降に作られた街道筋で、ここも鉤形になっておりいまも大型バスがすれ違うのが難儀する隘路(あいろ)となっている。以前山梨学院大学の法学部の招きで空き家活用術の話をしに行った時に車で通ったことがあり、その時わたしはへんに感心した覚えがある。

▲加美町小野田支所。

▲鳴瀬川が街道と平行に流れる。

さて加美町小野田支所あたりは番所の代わりにこうした隘路、そして街道とほぼ平行に流れる鳴瀬川沿いの一角に伊達家重臣として知られる奥山家に代々仕えた松本家の旧家も建っている。

18世紀半ばの建築時期と見られるこの武家の住まいは手斧がけの柱と梁、竈のある土間と執務と住居を分けた民家のひとつであり、侍屋敷としてもかなり古い時代の遺構。真壁と大壁の使い分けも見事だ。現在では国指定の重要文化財であり質実剛健な構えの中に粋な内装をのぞかせて一見の価値がある(見学は無料)。

▲松本家旧家

▲竈の土間。

▲奥座敷。

この通りと川の両方向に目を光らせる立地はさすがとしか言いようがない。さらにその当時から鳴瀬川の河川が切り開いた肥沃な平野部は周辺地域屈指の穀倉地帯として発展していく。まさに仙台の奥座敷として隣接の岩出山(いわでやま)と共に現在も名を成している。

▲旧道にある公衆電話ボックス。

さらに、国道347号線を左に折れて山に向かっていく。その正面にあるのが薬莱山(やくらいさん)(標高552メートル)だ。その麓はスキー場となっている。地元では「薬莱富士」と呼ばれている。私が行ったその日は天気も悪く霧に霞んでいた。

▲整備された加美町の圃場。加美町は豊かな自然環境の中で世界農業遺産「大崎耕土」に指定されている。

その景色はどことなく富士五湖の本栖湖から静岡県の朝霧高原・まかいの牧場へと向かう西富士道路を走っているような錯覚がしたのが不思議であった。

▲やくらいガーデン。

温泉、地ビールそして「やくらいガーデン」(入園料800円)。高原にふさわしいリゾートアイテムが満載だ。ここなら一日中楽しめそうだ。特にやくらいガーデンは春先から11月まで営業していて、広大な敷地内にはバラ園やハーブガーデン、レストランもある。春の水仙と菜の花、夏のバラ、盛夏のころのひまわり、秋はケイトウ、サルビア、バーベナのじゅうたんが敷き詰められている。

加美町は中新田町(なかにいだまち)のバッハホールと山付きの別荘地だけではなかった。今回の取材では旧街道筋と農業遺産である耕土、そして薬莱山リゾート地と多様な顔を見ることができた一日だった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

岩手◆遠野市/遠野盆地の雲海~高清水展望台より~【みちのく岩手・新遠野物語】

この記事の投稿者: みちのく岩手事務所/ 佐々木 泰文・佐々木 敬文 

2022年11月14日

▲ウ・ン・カ・イ!! この日は風がなく雲も濃く留まっていたため「水面」はとても穏やかでした。

記録的な暑さが続いた夏も終わり、一気に秋の気配が漂ってくる頃、みちのく岩手事務所がある遠野市には、その絶景を拝もうと多くの観光客が訪れる場所があります。松崎町にある高清水展望台です。

本誌の2021年5月号でトオヌップ展望台として取り上げた際には、この展望台から望む遠野盆地に広がる田植え前の水鏡の風景を紹介させていただきましたが、今回は晩秋の風物詩【雲海】をご覧いただきたいと思います。

遠野の雲海は毎年9月頃からの夜明けから午前8時くらいまでの早朝、前日から天気が良く放射冷却が発生する条件の時に、高い確率で見られます。

濃い霧の中の展望台への道中、夜が明けてから家を出た私は、先にご来光を拝んで下りてきた数台の車とすれ違いました。

駐車場に着いたのは6時半、平日の早朝にも関わらず県外のナンバーの車を含め6台ほど停まっており、デッキで朝食を楽しんでいる奥様方もいました。

雲海の絶景予想はバッチリ!!もうすっかり昇ったお日様の下、遠野盆地には一面に白く雲が溜まり、向こう岸には六角牛山(ろっこうしさん)をはじめとした山々が頭を出し、いつもの遠野の街並みはすっかり雲の底でした。

高清水展望台への道は例年11月後半より冬期通行止めとなり、舗装道ではありますが大きな凹凸がある個所もあります。夜明け前の暗さや濃霧も含め、十分に気をつけて訪れてみて下さい。(みちのく岩手事務所 佐々木敬文)

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高清水展望台
住所:岩手県遠野市松崎町
※展望台への道は例年11月後半より冬期通行止めになります。

秋田◆秋田/秋田城でボランティアガイド~その1~【地域駐在スタッフ・秋田からの風】

この記事の投稿者: 秋田現地案内人/ 片山 保

2022年11月11日

▲秋田城跡復元外郭東門と築地塀。

秋田に転居して市内のあちこちを探検していると、赤い立派な門が目についた。これはなんだ、秋田城跡復元外郭東門(写真)と書いていた。

それから何年か後に知人から「秋田城跡の学習講座があるので聴きに行かないか」と誘われて、あぁあの門があるところだなと思い、興味を持って聴講した。

講座の終わりに「秋田城跡のボランティアガイドの会」がある。興味があれば入会しないかと誘われ、臆面もなく怖いもの知らず、入会申込書にサイン。

あれから十七年、次第にのめり込み事務局も担当しながら見学者のガイドを続けている。

会員五十余名が三名一組で毎日交代出勤するので月に三日前後の当番なので負担は少なく、年相応の良い運動になっている。

秋田城と云ってもメジャーではなくほとんど知られていないので概要を若干述べさせていただきます。

奈良時代編纂『続日本紀』の天平五(七三三)年の出来事として、「出羽柵(いではのき)を秋田村高清水岡に遷置く」とある。

時の朝廷が本州全域を支配下にするために太平洋側には多賀城を、日本海側は秋田城(七六〇年頃に出羽柵を改称)が最北の城柵として設置された。

秋田城の役割にはもう一つ、渤海国との交易で使節団は船が小さいために樺太、北海道の沿岸伝いに来航するのでその受け入れ窓口としての役割がありました。(つづく)(秋田駐在 片山保)

※秋田城でボランティアガイド~その2~はこちらから

※秋田城でボランティアガイド~その3~はこちらから

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秋田城跡
住所:〒011-0939 秋田県秋田市寺内大畑5
営業時間:24時間営業
※城跡近くに、秋田市立秋田城跡歴史資料館あり。
詳細は歴史資料館公式HP(https://www.city.akita.lg.jp/kanko/kanrenshisetsu/1003616/index.html)で確認してください。

山梨◆八ヶ岳/立冬の候、11月の八ヶ岳事務所【八ヶ岳南麓・たかねの里だより】

この記事の投稿者: 八ヶ岳事務所スタッフ

2022年11月8日

▲日を浴びて甲斐駒ヶ岳の輪郭が浮かびあがる。(山梨県北杜市)

北杜市は秋のさかりを迎えています。10月終わりから11月中頃にかけて山々が刻々とその表情を変えていきます。

北杜市では桜前線が標高の低いところから高いところへと駆け上がるように時期を変えて進みましたが、秋の紅葉の見ごろも標高に大きく左右され、山の上部から下部へと駆け降りるように進んでいきます。

▲青空の下、紅葉を見上げる。(山梨県北杜市)

地元に住んでいても、紅葉の見ごろをキャッチするのは中々難しいところ。見頃まであと少しかなと思っていて、次に訪れると葉っぱが落ちてしまっているということもしばしば。

紅葉の美しさは刹那的、だからこそ毎年惹かれるのでしょうか。本原稿の作成にあたり、昨年の写真を見返してみると、自然の表情にハッとさせられる、印象的な景色のものが結構ありました。

11月でも前半と後半では植物や木々の表情が大きく変わります。そしてその表情の変わるタイミングというのか、移り変わる瞬間、物事の移り行く過程が哀愁を、美しさを感じさせ、印象的な景色となるのではないでしょうか。

物事の移り変わるタイミング、昼と夜、黄昏時、現世と常世、生と死。季節が移り替わる秋のこの時期、少し感傷的に物事が見えてしまう。

▲夕暮れの空に八ヶ岳。田んぼに静けさが漂う。(山梨県北杜市)

天候も安定しやすいこの時期、ドライブついでに秋の景色を写真におさめてはいかがでしょうか。夕暮れ時の八ヶ岳の山並みは特におすすめです。(八ヶ岳事務所 大久保武文)

【八ヶ岳事務所エリアの物件】
八ヶ岳南麓エリア・・・北杜市高根町、北杜市長坂町、北杜市大泉町、北杜市小淵沢町
韮崎・茅ヶ岳エリア・・・北杜市須玉町、北杜市明野町、韮崎市、甲斐市
武川・白州エリア・・・北杜市白州町、北杜市武川町