▲「秋田の赤い靴」像
♫ 赤い靴 はいていた 女の子
秋田にも明治時代に赤い靴の話があります。
昨年、市内図書館に写真の像があるのを見かけたのと同じころ『みちのく秋田の赤い靴の女の子』というタイトルの映画試写会(壇蜜出演)をしたということを知りました。
八郎潟の北のある村に住むふじは姑に虐待されていたがある日、姑が斧を振り翳してきたので奪ったが誤って子供の喉を直撃し死亡させ終身刑で服役していたが、すでに身籠っており獄中で女児を出産し亡くなった子と同名のハツと名付けた。
その後について銘板には次のとおり書いている。
明治20年(1887)11月14日、金子ハツは秋田女囚監獄で生まれた。
息も絶え絶えの赤子を引き取ってミルクを与えたのが、若い宣教師ミス・カラー・ハリソン(1895〜1937)である。
六歳になったハツを学校で学ばせたく、ハリソンは教え子の川井運吉に相談した。
結婚前の運吉は分家してハツを養女にした。
ハリソンの帰国はハツが十二歳の時。残して行くにしのびず、ハツを連れて横浜から船に乗った。
後にハツをロサンゼルスの大学に入れるが、当時は排日の嵐で、卒業しても思うような就職口はなく、ハツの将来を案じたハリソンは日系人の多いハワイに渡り共に教師の道を歩むが、ハツは34歳でこの世を去った。その後ハリソンは78歳で生涯を閉じ、2人はホノルルの墓地に眠っている。
―かっては苦悩にうちひしがれし 異邦人なれど いまぞわが故郷にたどり着きぬ―
1922年胸を病み死の覚悟したハツが残した詩の一節です。(秋田駐在 片山保)