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宮城◆加美町/鉤形(クランク)街道と薬莱(ヤクライ)富士【いくぞ東北!所長・ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年11月17日

▲加美町の音楽の殿堂・バッハホール。

江戸時代元禄期に松尾芭蕉(1644年~1694年)が陸奥国府(みちのくこくふ)から出羽国へ奥の細道を行脚した仙台出羽街道(現在の国道47号線)はその当時整備されたばかりの、いわば新品の街道だった。くに境の「尿前(しとまえ)の関」は随一の難所ではあったものの、霜月初めまではくに境・鳴子(なるこ)の一級の景勝地として旅人の疲れを湯治場で逗留して癒すにはふさわしい場所だったに違いない。

その一本南側を走る街道が今回の舞台となる中羽前(うぜん)街道なのだ(現347号線)。このルートを使って出羽の大石田河港経由尾花沢から仙台へ向けて北前船による上方物の着物や松前物(北海道)の昆布・海産物などの交易が江戸時代を通じて頻繁に行われてきたのであった。加美町は内陸にあって日本海と太平洋を結ぶ交通の要衝地であったのだ。

当時仙台藩の関所はくに境に夏場だけ軽井沢番所が置かれただけだったが、ここが主要街道であった痕跡が実はいまもなお残っている。347号線を車で行けばすぐにわかる。ひと言でいえば走りにくい。出入りがしにくい。なぜなら町中を走る国道が鉤形なのだ。

こうした事例は山梨県甲府市の国道411号線にも見られる。武田信玄の時代以降に作られた街道筋で、ここも鉤形になっておりいまも大型バスがすれ違うのが難儀する隘路(あいろ)となっている。以前山梨学院大学の法学部の招きで空き家活用術の話をしに行った時に車で通ったことがあり、その時わたしはへんに感心した覚えがある。

▲加美町小野田支所。

▲鳴瀬川が街道と平行に流れる。

さて加美町小野田支所あたりは番所の代わりにこうした隘路、そして街道とほぼ平行に流れる鳴瀬川沿いの一角に伊達家重臣として知られる奥山家に代々仕えた松本家の旧家も建っている。

18世紀半ばの建築時期と見られるこの武家の住まいは手斧がけの柱と梁、竈のある土間と執務と住居を分けた民家のひとつであり、侍屋敷としてもかなり古い時代の遺構。真壁と大壁の使い分けも見事だ。現在では国指定の重要文化財であり質実剛健な構えの中に粋な内装をのぞかせて一見の価値がある(見学は無料)。

▲松本家旧家

▲竈の土間。

▲奥座敷。

この通りと川の両方向に目を光らせる立地はさすがとしか言いようがない。さらにその当時から鳴瀬川の河川が切り開いた肥沃な平野部は周辺地域屈指の穀倉地帯として発展していく。まさに仙台の奥座敷として隣接の岩出山(いわでやま)と共に現在も名を成している。

▲旧道にある公衆電話ボックス。

さらに、国道347号線を左に折れて山に向かっていく。その正面にあるのが薬莱山(やくらいさん)(標高552メートル)だ。その麓はスキー場となっている。地元では「薬莱富士」と呼ばれている。私が行ったその日は天気も悪く霧に霞んでいた。

▲整備された加美町の圃場。加美町は豊かな自然環境の中で世界農業遺産「大崎耕土」に指定されている。

その景色はどことなく富士五湖の本栖湖から静岡県の朝霧高原・まかいの牧場へと向かう西富士道路を走っているような錯覚がしたのが不思議であった。

▲やくらいガーデン。

温泉、地ビールそして「やくらいガーデン」(入園料800円)。高原にふさわしいリゾートアイテムが満載だ。ここなら一日中楽しめそうだ。特にやくらいガーデンは春先から11月まで営業していて、広大な敷地内にはバラ園やハーブガーデン、レストランもある。春の水仙と菜の花、夏のバラ、盛夏のころのひまわり、秋はケイトウ、サルビア、バーベナのじゅうたんが敷き詰められている。

加美町は中新田町(なかにいだまち)のバッハホールと山付きの別荘地だけではなかった。今回の取材では旧街道筋と農業遺産である耕土、そして薬莱山リゾート地と多様な顔を見ることができた一日だった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

宮城◆旧岩出山町~旧中新田町/岩出山城址と加美町の田舎道【行くぞ!北東北・所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2022年5月30日

仙台から真北方向へ60キロほどの場所にある「大崎市・岩出山(いわでやま)」と音響効果にすぐれているといわれるバッハホールのある「加美町(かみまち)」の話である。なかなか味わい深い場所であるので今回ご紹介させていただくことにした。

岩出山城は伊達政宗公が天正年間から慶長年間の12年(10年という説もある)を過ごした断崖絶壁の城である。24歳から35歳のころだ。いまでいう人生の節目に当たる年だともいえる。

その後四男が後を継ぎ岩出山伊達家が誕生したといわれる。馬出しのあった場所からは市街地、江合川(えあいがわ)そして名峰・栗駒山(標高1626m)を望むことができる。本丸跡を下って行けば1キロほどで『有備館(ゆうびかん)』に着く。

『有備館』とはなにか。江戸時代の伊達藩家臣である岩出山伊達家が開設した学問所で、郷学と呼ばれる。中国故事の「備え有れば憂いなし」がその出典だ。開校は幕末の嘉永3(1850)年頃と考えられるという。現存する『有備館』の建物と池を見るには入場料(350円)が必要だが、一見の価値ありだ。

▲陸羽東線岩出山駅と構内の産直売場。

隣接した「東北の駅百選」の有備館駅構内には「伊達政宗公騎馬像」がある。この像はもともと仙台駅にあったもので2008年にこの場所に設置された。(日付とは関係なくウソではありません。)

伊達様のお城下から丘陵地帯へ。県道を走るとすぐに雑木林の疎林を尾根づたいに道路を進むことになる。途中、国立音楽院の宮城キャンパスの脇を抜けた。昨年の11月にはバッハホールでウインターコンサートも開かれていた。大崎市から加美町に入ったのだ。

▲息を飲む風景が広がる馬出し跡。

「加美町」は「群馬県甘楽町(かんらまち)」と同様、非常にきれいな町名だが、神の宿る場所を表すといわれる「賀美郡(かみごおりぐん)」に由来するらしい。そして町の中ほどに聳(そび)え立つ独立峰の「薬莱山(やくらいさん)」(標高553m)は町のシンボルとして「加美富士」とも呼ばれている。

ところでこの町の「中新田(なかにいだ)」を私は「なかしんでん」と言うのだと勘違いしていた。静岡県には御前崎に「池新田(いけしんでん)」というところがあるためだが、女優の「新垣(あらがき)さん」を「にいがきさん」とずっと思い込んでいたように読み方は難しい。

▲池越しの「御改所」と室内。

宮城県の中西部に位置する加美町は570平方キロの町域に27800人(推計人口)が暮らす(2022年3月1日現在)。内陸性の気候のため寒暖差が大きく積雪量もやや多めのようだ。ただし下多田川あたりの尾根沿いの別荘地でも町では除雪してくれるようだ(町建設課に確認)。

▲境界杭に「中新田町」の刻印。

町の東西を国道347号線(中羽前街道)、南北を国道457号線(羽後街道)が走り古くから交通の要衝地であった。ここからどこへでも出られるというのはちょうど、岩手県の「遠野」に似ている気がした。山あいの雑木林あり、牧場あり、農地ありの田舎道はどこかほっとする場所だ。

空き家バンクの登録物件を見てみよう。宮崎支所や小野田支所など町場が中心で、別荘地はほとんどない。丘陵地と田園の近接したところで移住者が農業を始めており町の活性化に一役買っている。さらに東北自動車道古川インターに向かうバッハホールのある辺りは精密機械工場が集積しており、大崎市と並んで一大精密機械産業都市としての顔を持つ。

▲中新田にある本庁舎。

30万都市圏の一翼である岩出山から加美町はいまもなお、伊達藩の進取の気性と渋みを受け継ぎながら「備え有る」まちづくりを目指しているように思えた旅であった。(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)

宮城◆大崎市/その1・鬼の首のロープウェイと鳴子峡【行くぞ北東北!所長ふるさと随想録】

この記事の投稿者: 代表取締役・中村健二

2021年9月14日

▲緑豊かな鳴子峡。

「鳴子峡」は宮城県内の紅葉の名所として知られている。今回その近くの、めったに物件としては出ない「オニコウベスキー場」に物件があるというので、初めてその地を訪れることとなった。東北自動車道古川インターを出ると周辺は穀倉地帯の平野部が広がる。ここからひたすら40数キロ西の山を目指していけばよいわけだ。

宮城県北西部の中心地・古川を要する「大崎地域」は周辺を入れると30数万人の一大都市だが、わたしはそれとは反対方向の鳴子(なるこ)の湯治場の先へ向かおうとしている。江合川(えあいがわ)に沿って山側に続く国道47号線はどことなくディープな感じがした。それは結果として思っても見なかった方向へとわたしを導いていくこととなっていった。

▲東北自動車道古川インターの出口看板。

途中、岩出山(いわでやま)地区に出た。ここには16世紀の最後の10年間(1591年から1600年)、関ヶ原の合戦の頃まで伊達政宗の居城があったという。2006年(平成18)に大崎市と合併するまでは宮城県玉造郡の中心地でもあった。そしていまは全国有数の売上高を誇る「道の駅」が実はこの国道沿いにあるというのだ。その名を「あ・ら・伊達な道の駅」という。正面にはなんと「至福の入口」の文字。駅内をぶらつきながら、今日の昼ごはんはここで調達しようと思い立ち、わたしなりのご当地食材を買っていくことにした。

▲凝った作りの道の駅だ。駅内にはクリーニング店もある。

「鳴子温泉」あたりからこけしの製造販売店が増えてきて山も間近に迫ってきた。ここから国道108号線に右折する。4つほどのトンネルを抜けると「鬼首(おにこうべ)」だ。山あいの温泉や役所を過ぎてさらにその最奥に「オニコウベスキー場」がある。かつて大手ディベロッパーが開発したものだが、近年のスキー人口の減少によりどちらかといえばひなびた感があり、それが逆にこうした時代には休日を家族とともにゆったりと過ごすのにはふさわしい場所であると感じられた。

▲「オニコウベスキー場」遠景。

物件はペンションの建ち並んだ丘のいちばん奥から4軒目。現在は個人の別荘として利用されているとのこと。なるほど。周辺を見渡していると山の斜面に丸い物体がふたつ見える。4人乗りのロープウェイで麓の発着所には「センターキューブ」とあった。家族連れが避暑がてら乗りに来て山頂のカブトムシ観察所や遊歩道を目指しているのだという。わたし的にはどこか「スターウォーズ」的世界のような気がして興味が湧き、乗ってみることにした。

▲空飛ぶキューブ発着所。

▲空飛ぶキューブ。

斜面を登るキューブの乗り心地は、大げさに言えば飛行機で離陸するときの高揚感、そんな感じだった。飛行機にはここしばらくご縁がないけれど、時間にすればわずか8分ほどの旅。そして山頂に着く。標高は1100メートルで一気に数百メートル上昇したことになる。麓とは3度ほど気温が低い。遠くで子どもがヤッホーと下界に向かって叫んでいた。

わたしは他に誰もいない山頂の休憩所で「道の駅」で買ってきた昼ごはんを広げた。三色餅、味噌お握り、鳴子まんじゅう、仙台牛コロッケ、鳴子温泉水と、まさにご当地尽くしで長距離ドライバー並みの食欲だ。

▲この日のお弁当。

最後に鳴子峡に行ってみることにした。ここから車で15分ほどの距離だ。紅葉前のこの時期は人影もまばら。撮影ポイントの橋はみごとに緑一色だ。どことなく山梨県の清里にある赤い橋に似ているが、渓谷の深さは清里、スケール感では鳴子峡に軍配が上がる。レストハウスでソフトクリームを食べる中高年もいて森林浴を楽しんでいるようだ。
 
さて、このあと次の取材先に行こうかと思った矢先、目に飛び込んできたのは「尿前(しとまえ)の関所跡」のすこし薄汚れた看板だった。なんと鳴子峡は「奥のほそ道」の重要ポイントでもあったのだ。勉強不足ではあるが誰も教えてくれなかった。芭蕉と曾良は大変な行脚の先、この「出羽街道」を進みここから国の境を越えて行ったのである。

わたしは関所跡へ導かれるように車を向けていた。(以下次月号へ)(宮城・岩手・秋田担当 中村健二)